明日の葉っぱ(8×8)=69

思いつくまま 気のむくまま書いてます。

ライディーン YMO

2018-01-31 18:24:26 | 僕の音楽日記
インベーダーゲームを茶店で
学校帰りにするため、そして
隠れてタバコも吸うため
学ランに薄いカバンをぶら下げで
たむろする
男子生徒。
言わずと知れた僕も
たまに誘われて
電車の待ち時間をつぶすのに
寄った喫茶店。

店内の有線でよく流れてたのが
YMOのライディーン。

ゲーム機に腰を丸めてコインを山にして
ゲームに興じる仲間をタバコをふかし横目で見るそんな情景があの頃の放課後の1ページ。
僕はどちらかといえば
自宅近くの喫茶店でゆっくりやりたい方だった。
YMOのライディーンとゲームのコンピュータ音は重なり合ってゲームの興奮度を上げた。
新しい音楽の波が立ち上がり
テクノポップというジャンルが確立した。
いわゆるコンピュータの打ち込みは
YMOのより広められた。
インストのような味わいのあるものとも違い、あの機械音はなんとも馴染まない感覚は最初はあったのだ。

しかし ゲームとリンクしてBGMになると
不思議と馴染んでしまうのだ。
世の中デジタル化が進んだ今 尚
テクノポップは色褪せることもない。


雨は手のひらにいっぱい シュガーベイブ

2018-01-31 10:57:17 | 僕の音楽日記
エレックレコード 所属
ナイアガラレーベル
シュガーベイブ

このグループはずっと聞いてなかった。

山下達郎さんを聴き出してから、昔を辿り
デビューグループとしてのシュガーベイブに辿り付く。

この歌に関して
もう
ソロの山下達郎のウォーミングアップ的な
キャラクターの形を整え始めた曲のように感じる。

スタジオワークが多いグループでもあったりなかなか 陽の目を見る事がなかったわけだが…
エレックレコードスタートという履歴はまさに混沌とする歌の世界に
放り出されたスタートだったし、
そもそもエレックレコード時代
ひっくり返したおもちゃ箱のようなレコード会社だったし、
方向性が、売り出しが定まらない形で
シュガーベイブが実力を充分発揮できないまま終わってしまった経緯を見ると
残念だった。

先例のないグループとは得てして
扱いも雑でマスコミからの取り上げかたも
充分ではなかった。
時代登場には
早すぎたグループだった。


翼なき野郎ども 泉谷しげる

2018-01-30 21:40:04 | 僕の音楽日記
フォークだぁ
ロックだぁ
どっちだっていいんだよ!

俺ぁ俺の歌を叫ぶだけだ…

そういう言葉を吐いて
しまいそうな
泉谷しげるさん。

エレックレコードから
フォーライフへと戦いの戦場を
移し、尚 パワフルな活動は続いた。
バックバンドを従えて その名も LOSER
仲井戸麗一さんのギターベースの吉田健さん
ドラムは村上ポンタ秀一さん
豪華なメンバーである。

この曲はライブでの迫力が売りの渾身の泉谷しげるらしい歌なのである

ラジオのライブ放送で初めてこの曲を聞いた時
ロックの泉谷しげるの誕生を認識した。
もともとフォークギターでの歌の作品においても少々規格外のアナーキーな世界を持っていただけに
ロックのセンスは当然あったわけだ。

きっと バンドとのライブ活動の中で
泉谷しげるさん本人も
歌に対しての方向性とキャラクターの確立が決まったのだろう
迷いなくシャウトする
泉谷しげるの面目躍如だ。

赤い風船 浅田美代子

2018-01-30 06:34:12 | 僕の音楽日記
それまで 歌謡界は
素質があっても
先生のもと
レッスンを積んで しっかり修行
してからデビューしたり
レコード出したりが歌謡界の伝統
だったように思う。

いわゆる
浅田美代子
以前

以後
に分けられる。
浅田美代子さんの出現によって、
アイドル歌手のレコードデビューの
ハードルは一気に下げられた。

それが悪しき
先例になったのか
開かれた
先例になったのかは
定かではないが
どちらにせよ
それまでの歌謡界を見渡せば
声量があり
歌が上手いとされる
歌手がひしめいてた歌の世界。
顔じゃない
スタイルでもない

歌で、歌唱力で勝負
を旗印として
恥ずかしくない歌い手が多かった
いわゆる実力派。
浪曲師出身やら
民謡歌手出身やら
それなりの肩書きがあって
歌の世界に入ってくる人達もたくさんいたわけで

先生のもとでレッスンを受けて
苦節何年…とかの箔をつけて
レコード大賞レースに食い込むことが
いわゆるステータスでもあったのだろうか?

浅田美代子さんの出現とレコードデビューは新しい方向性への挑戦だったように思う。
決してパイオニア精神をもっての現状の歌謡界に挑戦するものでもなくて、
ただ
彼女の可愛さをアピールしない事は
勿体ない、と思えるほど
単純に
シンプルに
彼女が魅力的だったわけで、

たら
れば
は、野暮なんだろうけど

彼女が凄く歌が、うまかったなら…
歌が上手くて容姿も良くて
いわゆる完璧なアイドルだったなら…
今の時代におけるアイドルの隆盛はあったのだろうか?

浅田美代子さん
以前と以後
アイドルデビューの関所は撤廃されて
隣の美代ちゃん
よろしく
身近で可愛い娘 が
良い!
という 芸能界 歌謡界に
おけるアイドルという新ジャンルを確立
したのはゆうまでもない。

事実 僕も
初めて勝ったレコードが
浅田美代子さんの
「赤い風船」だった。
歌唱力が良かったから買ったわけではなくて
レコードならもっとうまく聴こえるのか?
とか…
身近に聞きたい時に何回も聞ける
レコードが欲しかったから
買ったわけで、
それだけ彼女が魅力的で可愛くて
いわゆる
「ハマる」
要素を持ち得た 芸能人だったのだ。

一芸に秀でる
ものは、彼女の可愛さ。
それが全てだった。
今現在も可愛い 素敵な浅田美代子さんである。

二人の夏 愛奴

2018-01-29 06:34:27 | 僕の音楽日記
74年 拓郎のバックバンドとして
デビューを飾り
ツアーを始めた
広島から出てきた このグループは

当時拓郎がザ バンドとの共演を目の前にしながらも、実現しなかった経緯が
このバンドにスポットを当てる事に。

拓郎さん自身は
和製 ザ バンドを狙っていたのだろうが…

僕の中ででは、彼らには
イーグルスを重ねて見てしまう。

書いてしまうと、少々お叱りもあろうかと
思うけれど…


町支さん 青山さん
ツインギターで同じバンド形態だし…
そして コーラス、とウエストコートサウンドを志向していたように
思えた。

浜田省吾さんもドラムを叩いていた
知る人ぞ知る
プレミアバンドでもあったわけで、活動期間も
ステージデビューは拓郎さんのバックバンドをして、
75年 レコードデビューしてから
翌年で解散していて
非常に短い期間だった。


♪ふっっ たりぃの なっううわぁぁ〜

優しさの時代の幕開けだった75年。

時代の狭間に飲み込まれた
ひとつのグループだったかもしれない。