日々是好舌

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居酒屋の女将紅さす虎が雨

2024年06月27日 10時57分27秒 | 日記

居酒屋の女将紅さす虎が雨   白兎
ゐざかやのおかみべにさすとらがあめ
虎が雨(とらがあめ)は仲夏の季語。子季語に、虎が涙、虎が涙雨、曾我の雨。
陰暦の五月二十八日に降る雨のこと。曾我兄弟の兄、十郎が新田忠常に切り殺されことを、愛人の虎御前が悲しみ、その涙が雨になったという言伝えに由来する。
建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を富士野にて討った事件。「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に名を成す伊賀の仇討」といった言葉にあるように赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。
事件は同28日に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。仇討ちの翌日である29日に頼朝は五郎(弟)の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えた頼朝は五郎の勇姿から宥免を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された。十郎の恋人であった虎御前も尋問を受けるが無罪。
虎は兄弟の母を曾我の里に訪ねたあと箱根に登り箱根権現社の別当の手により出家する。熊野や諸国の霊場を巡りながら兄弟の菩提を弔い、兄弟の一周忌を曾我の里で営んだ。その後、兄弟の供養のため信州の善光寺に参り、首にかけた二人の遺骨を奉納した。大磯にもどった後、高麗寺山の北側の山下に庵を結び菩薩地蔵を安置し夫の供養に明け暮れる日々を過ごした事が山下(現、平塚市)に現存する高麗寺の末寺であった荘巌寺に伝わる「荘巌寺虎御前縁起」に記されている。虎女は兄弟の供養を片時も忘れることなく、その小庵で63年と言われるその生涯を閉じる。
私の父祖の菩提寺は亀谷山結成禅寺(静岡市葵区内牧)。結成禅寺は天文廿一年相州鎌倉で創建。曾我兄弟に討たれた工藤左衛門尉祐経を葬る。境内に歌人・川田 順の歌碑がある。「狩野介の菩提寺の山蟲鳴きて首山堡に死にし兵の墓あり」。
嶋田宿の文人・桑原藤泰著の『安倍紀行』に次のように記載されているそうだ。
内牧の里、亀谷山結成寺、済家法幢地なり。朱符寺田五石。府の臨濟寺の末なり。むかしは鎌倉派なり。本尊地蔵、運慶作。開山、南寂豊公元始と云う。慶長元年遷化の僧なり。当寺鎮守八幡宮、山門の前にあり。神体唐金円鏡の如し。左右に鐶あり。正中に阿弥陀の像を鋳揚げたり。裏に正応五年二月十九日と記し、片仮名にて書彫り付けあれど、文字詳らかに読みがたし。こゝに寺僧の伝に云う。当寺はむかし開基、天徳寺法輪大禅定門にて、工藤左衛門尉祐経なり。既に寺後の山に祐経が五輪の塔ありと云う。閻王堂、鐘楼、山門あり。また、一徳寺、観法院とて、当寺の末院あり。画像出典:刀剣ワールド。


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