山本博文『忠臣蔵の決算書』新潮新書495, 2019
江戸時代は幕末を除いてまことに感激の少ない時代であった。これは徳川幕府が鎖国した上に、ひたすら安定を社会に求めたためである。ただ、元禄時代におこった赤穂事件だけは、日本人の心の琴線にふれる物語として残っている。他には、大塩平八郎の乱もあるが思想が純粋だった割にあまり評判はよくない。主人公自身が狷介な人物だったことや、大阪の町で大火を起こしたうえに結末が悲惨すぎたせいであろう。
上掲の山本氏の書は大石内蔵助がしたためた「金銀請払帳」(会計簿)をもとに、赤穂事件の推移を追った異色の論説である。吉良邸に討ち入るまでの軍資金約700両(現在の価値で約8400万円)の出費明細から、どのように浪士が行動したかを解説している。
失職した武士は生産手段をもたないのでたいへん困窮した。元禄15年7月に浅野大学がお預けとなり、浅野家再興が絶望となって大石らは討ち入りの決意を固めた。この時、まだ余力のある重臣は大石を除いて脱盟し、残ったのは今後の生活に展望のない中級と下級武士であった。待ち受けているのは野垂れ死にと言う事であれば、大義を掲げて討ち入りを決行せざるを得ない。この頃には軍資金はかなり減っていた。芝居などで有名な内蔵助の一力茶屋での遊興費は、内蔵助個人の持ち金であったというのが著者(山本氏)の見解である。赤穂浪士の討ち入りは、突き詰めれば忠君の儒教思想といえるかもしれない。しかし「命を捨てても大義に付く」という「無私」への尊敬と憧れはどの時代にもあった(三国志の孔明贔屓も同様)。そして登場する魅力ある人物群に読者は感情移入したのである。
登場する赤穂四十七士の中で、庵主がもっとも好きな人物は小野寺十内秀和である。浅野家では京都留守居役(百二十石)の中級家臣であった。京都留守居役は会社でいうと京都支社長のようなもので、当時の文化の中心であった京都の情報を国元に伝え、そこの流行の物産購入に勤めた。司馬遼太郎によると、京都の着物の流行なども国元に報告していたそうである。
元禄14年(1701)3月14日、主君の浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。京都でこの凶報に接した秀和は老母と妻を残し赤穂へ駆けつけた。そして赤穂城開城から討ち入りまで、内蔵助の右腕として活動したようである。元禄15年12月14日の吉良邸討ち入りでは、裏門隊大将として大石良金の後見にあたった。元禄16年2月4日、幕府の命により切腹。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。享年61歳。
この小野寺と奥さんの丹(たん)は、共に和歌をたしなむ仲の良い夫婦であったそうだ。十内から丹にあてた次のような手紙が残っている(上掲書より引用)。『老母を忘れ、妻子を思わないではないが、武士の義理に命を捨てる道は、是非におよばないものです。得心して深く嘆かないでほしい。母は余命短いと思いますので、どのようにしてでもご臨終を見届けて欲しい。長年連れ添ってきたのであなたの心を露ほども疑っていないが、よろしくお願いします。わずかなが残した金銀、家財を頼りに、母を世話してほしい。もし御命が長く続き財産が尽きたらともに餓死してください。それもしかたのないことと思います』
この時に「命のつなぎの為」として金十両を丹に送っている。小野寺の母は元禄15年9月に亡くなっている。丹は京都の西方寺に夫の墓を建て、そのあと食を断ち自死したと伝えられる。元禄16年6月の事である。