京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

高橋和巳の風景 (I)

2014年02月26日 | 日記

      

   軽薄短小を旨とするこの時代に、高橋和巳の重い小説を読む若者は少ないが、1960-80年代、物思う学生の本棚には、この作家の著書が一冊は見られたものである。「捨子物語」「悲の器」「我が心は石にあらず」「邪宗門」「憂鬱なる党派」「孤立無援の思想」「現代の青春」「日本の悪霊」「わが解体」「黄昏の橋」「孤立の憂愁の中で」「暗黒への出発」「自立の思想」….。多くの青年にとって、高橋和巳は孤独で陰鬱な青春の一里塚であった。このシーリズでは、その高橋の京都での軌跡を関連する風景で追う。

 

 高橋和巳年譜

1931年8月31日 大阪市浪速区で父秋光、母慶子の次男として生まれる。

1937年 大阪市西成区に転居。

1941年 10歳 12月8日太平洋戦争勃発

1945年 3月13日大阪大空襲のため全焼。母の実家の香川県三豊郡大野原に疎開

1948年 旧制松江高等学校文科乙類入学

1949年 新制京都大学文学部入学

1951年 10月京大天皇御幸事件

1953年 落第留年。10月父秋光死去。

1954年 京都大学文学部卒業。修士課程に進学。11月岡本和子(高橋たか子)と結婚。

1956年 修士課程修了。博士課程進学。埴谷雄高に会う。

1958年「捨子物語」出版。

1959年 京都大学大学院文学研究科博士課程修了。論文「陸機の伝記とその文学」立命館大学文学部講師となる。6月「憂鬱なる党派」を発表。

1960年 安保闘争の高揚。

1962年 「悲の器」を脱稿。第一回河出書房新社「文芸賞」受賞

1966年 明治大学文学部助教授。「日本の悪霊」の連載はじまる。

1967年4月 明治大学を辞職し京都大学文学部助教授に着任。4月文化大革命中の中国を視察。10月羽田デモで京大生山崎博昭が死亡。

1968年2月 東大学園闘争が始まる。

1969年 1月 京大学園闘争が始まる。3月東洋史闘争委員会の「清官教授を排する」の壁新聞が学内に出る。10月体調不良を訴える。

1970年 3月京都大学文学部助教授を辞職。

1971年5月3日東京女子医大で結腸癌のために死去。9日葬儀告別式が青山葬儀場で営まれ数千人の学生、市民が参列。

(つづく)

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ウグイスの初見 | トップ | 高橋和巳の風景(II) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事