京都は1830年(天保元年)に死者280名の被害を出した直下型地震のあと、190年余り大きな地震を経験していない。1995年の阪神淡路大震災と昨年 (2018)の大阪北部地震では、場所により震度5強による家屋の破損はあったが、神社仏閣が倒壊するような大きな被害はなかった。印象としては京都は地震の少ない場所のように思ってしまうが、京都盆地は大地震が繰り返した結果できあがった盆地であることを忘れてはならない。京都の地震の記録は鴨長明の『方丈記』にも見られる(https://blog.goo.ne.jp/apisceran/e/9dba69d115d7d00bbfdf801e3d91611a)
東山や西山に沿って走る何本もの活断層では、大地震の度に岩盤が数メートル以上ずれ、上昇した部分が山地に、下降した部分が盆地になっている。盆地のそれぞれの端が壁のようなはっきりした境界になっている。この断層の山麓は起伏があり、山紫水明で風光明媚な景観のゆえに建築文化が栄えた。東山(月待山)には足利義政の銀閣寺が、西山(衣笠山)には足利義満の金閣寺が建てられた。東京や大阪のようなのっぺらした平野の都市に比べて、緑が多くメリハリがあるのは断層のおかげである。
京都を走る最大級の活断層は、北東から市内を走る花折断層である。これは滋賀県高島市の水坂峠付近を北端として、花折峠、大原、八瀬、左京区吉田山付近を南端としている(約46 kM)。京大北部グラウンドの東の土手(上の写真)は活断層の露出面で、これが南に延び、京大植物園を横切り、さらに今出川通りを横断して、吉田神社付近にいたる。花折断層から南部は市内で分岐し、鹿ケ谷断層、清水山断層、桃山断層などと名がつけられている。
花折断層は中央構造線についで日本内陸部の最大級の断層の一つで、もしここで地震が起こると、市内は震度6強〜7の激震に襲われ、ほとんどの古い木造家屋は倒壊すると予想される。1662年(寛文二年)の京都北東部の大地震は、三方断層と連動した花折断層北部の地震ではなかったかとされている。この震災では町家100軒が倒壊し、死者は200人と記録されている。花折断層中部については歴史時代になってからは活動の記録がない。調査によると、この辺りの最新の活動痕跡は2000-2500年前の地層に見られ、それより前は7000-8000年前という。1200年前にここに都(平安京)を定めたが、将来起こる大地震を考えると、日本で最悪の場所の一つであったと言える。もっともその確率は、おそらく1000年以上先の事のようであるが。
西山断層系の運動によりできた丹波山地と東端と京都盆地の境も複雑な活断層となっている。西山の辺りで活断層はジグザグに分岐し、そのズレでできた地形を利用して古い寺社がある。山の麓は大雨で崩れやすいので、竹を植えて崖崩れを防いだとされている。おかげで、この付近は美味しい竹の子の産地になっている。断層に沿って特殊な植物が連続して生える例は北アルプスのイワスゲであるが、京都西山の場合は竹薮である。
京都は南北に高低差があり、東寺の塔の天辺(約55M)が千本北大路の土地の標高と同じである。町名の「上ガル」「下ガル」はこういった地勢による。さらに京都は扇状地で土地の柔らかなところが多く、震源が比較的遠くても揺れが激しい場合がある。秀吉の居た伏見城が倒壊した慶長地震 (1596)では、ここで200名近い圧死者がでた。これの震源は有馬ー高槻構造線ではないかと言われている。京都盆地の地下構造を調査すると、大昔は海だったが、活断層運動で東山などの山地が隆起し、盆地部分が沈降した。海の底だった岩盤には土砂が堆積して南に行く程深くなっている。その深さは二条城あたりで約200メートル。伏見のあたりで約800メートルである。岩盤が沈み込まずに取り残されたのが吉田山や紫雲山(庵主の住居がある)で、この辺は掘るとすぐに固い岩に突き当たる。一説では京都盆地の下には岩盤と堆積層との間に大きな地下湖があると言われる。そのせいか、京都市には水気に関する地名が多い。こうゆう場所では大地震の時に液状化の被害がでる可能性がある。京都で予測できる次回の大地震は南海トラフである。これのおおよその間隔は100-150年なので前回1946年からすると、確率的には射程距離に入っている。これの備えが京都でも必要とされる。
参考図書
尾池和夫 『俳景ー洛中洛外・地球科学と俳句の風景』宝塚出版 1999
尾池和夫 続『俳景ー洛中洛外・地球科学と俳句の風景』宝塚出版 2002
増田潔 『京の古道を歩く』光村推古院書店 2006
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