薬師如来石像
大滝
大滝
天然記念物馬背岩
馬背岩
馬背岩
翌日タケホープは、鳳来寺山に登るのでその下見に行きました。
細君は、ここの五平餅を食べたがっていた。
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②湯谷温泉
①鳳来寺山 市の石 松脂岩(しょうしがん)
Sバス 湯谷温泉もっくる新城線
鳳来寺山山頂方面
1便 湯谷温泉駅南(ここ)11:03発
もう少し(9時くらい)早かったら乗ったのだけど
湯谷大橋から宇連川の上流側
湯谷大橋から宇連川の下流側
鳳来寺山裏参道 右鳳来寺
明日はここから登ります。天気が良かったらね。
鳳来寺山パークウェイ Sバスはここを行きます。
湯谷温泉駅前 しんしろ観光ガイド
⑥設楽原決戦場まつり
④長篠合戦のぼりまつり
⑤阿寺の七滝(あてらのななたき)あじだと思っていた
天竜奥三河国定公園 鳳来峡 湯谷温泉案内図
この日泊まるはづ(幡豆)別館 こんな漢字だったんだ
ウェルカム 抹茶
部屋に案内されました。
細君に予約を全ておまかせしていたら、◇二間続き+茶室付の広々特別室◇日常から離れた優雅なひとときを愉しむ:和室10畳+6畳 二間続き+茶室4.5畳の特別室だった。きいてないよ。
酔っているときにきいているかも
部屋からの宇連川
露天風呂がのぞけた。この時は気が付いていなかった。露天風呂に入った時に気が付いた。
板を敷き詰めたような美しい川底
馬背岩から上流の宇連川(うれがわ)をこの地方では板敷川(いたじきがわ)と呼びます。川底が板を敷いたように平らなためです。凝灰岩でできています。
馬場信春の墓近くの豊川(寒狭川)
中央構造線長篠露頭
中央構造線長篠露頭 新城市天然記念物
内帯 領家帯の花崗岩源断層岩 マイロナイト
中央構造線(断層)
外帯 三波川帯の結晶片岩
豊川
中央構造線長篠露頭
弾正曲輪
弾正曲輪
愛知が誇る!日本100名城
犬山城・名古屋城・岡崎城・長篠城
続日本100名城
小牧山城・古宮城(ふるみやじょう)・吉田城
古宮城は知らなかった。新城市設楽原歴史資料館で資料をもらった。
古宮城は武田信玄が元亀3年(1572)頃に築城し、その縄張りは馬場信春が設計したと考えられています。
元亀4年に武田信玄が逝去すると、当地の領主であった奥平定能・定昌親子は徳川家康に内通して武田軍は奥平親子を捉えようとして争いになり「古宮城の戦い」が起こりました。この時、奥平親子の援軍として駆け付けた徳川家康軍は手薄となった古宮城にも攻め入り、一時、城内から武田勢を撤退させたと伝えられています。
天正2年(1574)、古宮城には武田勝頼の命を受けた小幡与一らが作手城番として入城したことが知られています。しかし、その翌年の天正3年に「長篠・設楽原の戦い」で勝頼が織田・徳川連合軍に敗北すると、当地における武田方の影響力は失われることとなりました。
古宮城が武田の拠点として存続した期間は、わずか3年余りでした。
(史跡)蟻塚
(史跡)馬場美濃守信房(信春)の墓
ねんごろに まつりたやさぬ 勝楽寺
戦いのゆかりのお寺
戦いの勝利に因んで松楽寺を勝楽寺に変えたそうです。
三河東郷駅
次は長篠城に行きます。
設楽原歴史資料館で、古戦場だけど御城印帳を買いました。
2月に杵築城と熊本城に行きましたが、御城印を集める気がしませんでした。
古戦場ですが、御城印を集める気になりました。
記念すべき1番目は、設楽原
馬防柵で守られた三河東郷駅
かわじや
タケホープは、とりあえずビール
細君は、カツカレー
タケホープは、とんかつ定食
細君は、100円でコーヒーを飲んで大満足
竹広激戦地
設楽原の戦い
竹広激戦地から連吾川上流側
竹広激戦地から連吾川下流側
弾正山
徳川家康本陣方面
連吾川共に倒れて馬がなく
故郷へ別れを告げるすべもなく
バッタ
竹広表の戦い
火おんどり
右 信玄塚
前面 連吾川とだんじょう山
北方 攻防戦の丸山
赤備えの小幡隊
山形の地名
◆山県三郎兵衛昌景之碑
長篠合戦図屏風に山県昌景最後の姿が描かれている。
そこには鉄砲で打たれ、落馬し、自らの首を故郷に持ち帰る旨を家臣に伝えた首無き山県昌景がいる。
その胴体は竹広の村人に託され、彼らの手によって手厚く守られている。
山縣塚
や 山県の最後 胴切りの松に秘め
柳田橋からの馬防柵再現地
長篠・設楽原合戦屏風絵図
さくにのぼってはいけません
馬防柵
えんえんと 柵木岐阜より かつぎくる
三千挺 鉄砲とどろく 天正三年
土屋昌次 柵にとりつき 大音声
名和式「鉄砲構え」
歴史の分かれ道ー設楽原古戦場ガイド
設楽原歴史資料館の建つ信玄台地、その西側を流れる連吾川・・・低い丘陵と平地が交互に続くこのあたりが、天正の昔、歴史の分かれ道を演じた「設楽原古戦場」です。
設楽原古戦場
甘利郷左衛門信康の碑
を 雄々しくも 立ち腹さばく 甘利信康
設楽原古戦場看板 本田プラス(株)竹広倉庫
柳田前激戦地 ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川
連吾川に架かる柳田橋
柳田橋から連吾川 下流側
柳田橋から連吾川 上流側 馬防柵再現地
岡崎への使者は金七郎と強右衛門・・・
◆信玄塚(大塚)
大塚は信玄原の東北端にあり、塚の高さ約3m、経13mの円墳形である。塚の上に老松が枝を張っていたが、昭和39年枯死した。今は4代目の松が植えられている。
その根元に、地蔵石仏一基と法華経千部、供養塔一基が建てられている。
設楽原古戦場いろはかるた
◆閻魔堂
信玄塚の脇に小さな御堂がある。お堂の中には石造の閻魔大王が祀られている。宝暦7年(1757)に空道和尚によって刻まれた石仏である。
信玄塚の大塚の地蔵菩薩、小塚の観音菩薩ともに空道和尚の作である。
石造閻魔大王
◆信玄塚(小塚)
小塚は信玄原の南端にあり、塚の高さ約1.5m、径3.6mほどである。その上の雌雄2本の松が一体となり生い茂っていた。これも女松が昭和52年、男松が昭和56年に枯死した。現在は男松4代目、女松2代目がある。塚の東側に石仏観音1基が建てられている。
(無形民俗)信玄塚の火おんどり (史跡)信玄塚
開国の星「岩瀬忠震」(いわせただなり)
忠震の顕彰ー向島
墨田区向島の白鬚神社の境内に、明治16年に建てられた忠震の墓碑がある。へーびっくり近所です。
火おんどり① 大塚・小塚
火おんどり② 信玄塚の火おんどり
火おんどり③ 「戦場考」とその後
火おんどり
屋上に出ました。
この辺り一帯“設楽原” 織田軍陣地と武田軍陣地
馬防柵再現地
この辺り一帯“設楽原” 徳川軍陣地と武田軍陣地
新城市設楽原歴史資料館の屋上 設楽原を再現しています。