ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

当然感

2011-10-15 15:23:16 | ひとの幸福
さっき夫の幼馴染の同級生が来て、

三人で楽しい時を過ごした。

いろんな話を聞いたりしていて、その中で彼が言った言葉のひとつ。

「・・いろいろ世話になったら、只っていうわけにはいかないからなぁ、

そんなんでお金がかかるから・・・云々」

そういうようなことを淡々と言った。

当然という感じ、だった。

こんなふうな当然感というものは、

本人にとってストレスにはならないんじゃないか、と思った。 

もし彼が経済的にとても困っている状態で、

(何かしてもらったら、只というわけにはいかない)というのがあったら、

返すお金がなくて、ストレスになるんだろう。

(こういう場合はこうしなくてはいけないものだ)と捉えていると、

それが出来ないと苦しむことになる。

(そうしなくてはいけない、その事)をしたい と思っていて、

それが出来ないと苦しむ・・・こういう表現も同じか。

したいことが出来ないと思う、そのことが快適ではない心の状態を創る、のではないかと思う

出来ても出来なくてもよい、というふうになっていない状態といえるか?

 
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ムッとしたこと

2011-10-15 10:39:36 | 実例体験観察
夫が部屋にいて、部屋が散らかっているのを見た時に、

私はその時何故ムッとしたのか・・・?

なんで(そうしなくちゃ)があるかといえば、

そういうことをするのは私の仕事である、

と無意識のうちに自分が決めているから。

そういうのが無い人はなんとも思わないはず。

片付けは私の仕事だから・・という無意識の決めが無ければ、

部屋が散らかっていようと、食器が汚れていようと、

ムッとはしないだろう。


私が散らかっている部屋や、汚れている食器を見ても、

心が波立たなくなったのは、

(私がしなくちゃいけない)というのが無くなったからと思う。

自分の内側をずっと観察、検討してきたからと思う。

勿論それだけではない。私一人でそうなれたわけじゃない。


私がそういうことをしなくても、顔色変えない、むかつかない、

脅迫しない、冷遇しない、リンチかけない、

そういう夫や家族の存在というのは大きい。

もし、私がしないことで、脅されたり、殴られたり、白い目で見られたら、

結構めげる。

人というものは関係性の中で変化し続ける。

自然の法則といえるものは相互作用だからだろう。
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ノーシーボ効果

2011-10-15 10:35:52 | ひとの幸福
インドのある医師の書いた本の中に「ノーシーボ効果」というのがあった。

高名な医師がどこも悪くない健康なひとに、

「末期の癌です 余命は3ヶ月くらいでしょう」と告げると、

そのひとは3ヵ月後に本当に死ぬ というようなことがあるらしい。

まさかそういう実験をしたわけじゃないだろうけどね。

そう聞いたひと全てが本当に死ぬわけじゃないと思う。

その言葉をどう聞くか、ということだろうと思う。


山にはえてる木を、事実は (うるし)じゃないのに、

それに触り、それを「うるしだ」と聞いただけで、

かぶれてしまうというのも聞いたことがある。

うるしだから、かぶれる!となってしまったんだろ。

台所で黒っぽい虫を見て、ぱっと、ゴキブリだ!と思うだけで、

鳥肌が立つなんてのもそうかも。

実際はゴキブリじゃなかったなんてこともある。

そう思っただけで身体は反応する。

物理的にうるしを触ったわけでもなく、

ゴキブリではなくても。


そうか、自分は3ヵ月したら死ぬのか、と思っちゃった人は死ぬのかもしれない。

ひとは思った通りの人になる、っていうのも

何かの本で読んだことがあるけど、

こういうのもそうなんだろうね。

でも健全な人がそうなるってのはホントかしら?ってつい思っちゃう。

検診したときは健全な身体で、それから3ヶ月の間に、

身体は変化を続けたということになる。


それがホントなら、心・意識の力はそれほど凄いものなんかな~。
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見ているものは・・

2011-10-15 09:27:16 | ひとの幸福
いろんな何かを見ているけど、自分の見方を見ている、のではないか・・・。

物でも事でも人でも。

簡単な例で言ってみれば、

目の前にある「本」これは何かといえば本なんだけど、

その物は薄い紙が何枚も綴じられてあって、それに字が印刷されている。

薄い も 紙 も 字 も 印刷 も 綴じられてる も

物そのもの、身体の動き、を

そう言いましょう、読みましょうと人間が創って来たものだ。

言語の獲得は人間が観念を持つものである以上、

当然起こって来たものと思う。

その物、事、人 を ひとがそう見ている。観ている。

見る、という現象自体もそれが目の膜に映り、

脳に電気信号で送られ、ナンタラカンタラ・・で見えるということになる。

物事を見ているのではなくて、

物理的には脳で作用したものを見ている。

もし、そうでないなら、

目の前の字の羅列は誰が読んでも同じように見えなくてはならない。

同じ感想を持たなければならない。

それを見ているのではなくて、

それについての自分の見方を見ている。

これは私の感想とは違う。

事実を観察しただけのこと。

目の前の人は自分の心の鏡・・という言葉が言ってることも

こういうことなのかな。

哲学者はもっともっと難しい言葉で同じようなことを表現してる。


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