天地公道(人生の処方箋)

私達人も天地自然に生かされて、
人力を尽くし、自分の運命を切り開きましょう!

12/17 愛の別名

2018-12-17 16:28:35 | 生命力


30・12・17、愛の生活
[愛されんと、欲すれば愛せよ]

愛に関するみ教えの源泉は、御聖経にあります。
あらゆるみ教えは、ここから生まれています。だから、祈りは欠かすことができないのです。
代表的なみ教えは、[愛は理解の別名なり]ですね

[求愛より施愛に生きよ]は、聖主様の原田行場の300日御大行中、
[行者山を下りる]の辻説法で、広く訴えられ
たものです。

なぜ、かくも、愛を説かれるのか?
たとえば、親の愛情を受けたことのない私は、
叔父夫婦の、精一杯の愛を注がれながら、自己中心のカラをふくらませるばかりでした。

愛の泉は、親の愛育にあり、
体験のないものは、世間とは愛の無い冷たいものという見方をしてしまうのです。
それでいて、求める愛は、人一倍強いものがあります。

御神尊様は、求めるなら与えよ。とおしえられます。
まずは、『自分から好きになること。こちらから、話し掛けること』
つまり、『自分がしてもらいたいことを、そのまましてあげること』

愛とは、具体的であり、
具体的とは、形の表現である。といわれます。
あいさつひとつできなければ、愛される資格はどうでしょうか?

結論のようにいえば、親の心を超える愛念はありません。
だから、親を憎み否定することで、運命が傾くのはあたり前でしょう。
愛を求めるならば、親への孝心を整えること。
そこからです。


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12/16 如是我聞 (にょぜがもん)

2018-12-17 16:22:12 | 生命力


如是我聞の『意味は、私はこのように聞きました。』です。

さて昨日は、私の体験記から、入りました。
けさは、御神尊様の家庭訪問のさいに、起こった出来事をご紹介しましょう。
昭和20年代のころ、福岡県八女市の山村を訪れた時のこと。
丁度、麦の収穫も終わり、田植えの準備中、車も通らない山道を、
信徒の家に向かっていました。

前方から、一頭の馬が、馬主の手綱(たずな)を振り切り、
馬具、農機具をつけたまま、口から泡を吹きながら、狂ったように走ってくるではありませんか。
随行の幹部は、みちの両側に避け御神尊様にも、声をかけられました。
しかし、にっこりされ、そのままその場に立ったまま。

御神尊様は、やがて右手をあげ、馬の真正面をふさぐように、たちました。
あわや、と思われた瞬間。なんと、1〜2メートル手前で、馬は、ピタッと止まったのです
そして御神尊様は、そばにより、静かに鼻ずらを、2〜3回撫でてやると、大人しくなりました。

手綱(たずな)を握ると、馬主に渡しました。渡された、馬主も呆然、
何が何やらわからないままかえりました。

御神尊様は[お前たちは、恐怖心があるから、馬が怖がってあばれるんだよ。]
[馬心が分かれば、馬も大人しくなるよ]と教えられ、

[家畜や動物に至るまで、生き物は家族の一員と思い、自分を大事にするように、彼らも大事にせよ]
と、言われました。
昭和20年代、農業は牛馬の時代。
かれら抜きでは、人間も生きられないことを、知らされました。

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