30・12・17、愛の生活
[愛されんと、欲すれば愛せよ]
愛に関するみ教えの源泉は、御聖経にあります。
あらゆるみ教えは、ここから生まれています。だから、祈りは欠かすことができないのです。
代表的なみ教えは、[愛は理解の別名なり]ですね
[求愛より施愛に生きよ]は、聖主様の原田行場の300日御大行中、
[行者山を下りる]の辻説法で、広く訴えられ
たものです。
なぜ、かくも、愛を説かれるのか?
たとえば、親の愛情を受けたことのない私は、
叔父夫婦の、精一杯の愛を注がれながら、自己中心のカラをふくらませるばかりでした。
愛の泉は、親の愛育にあり、
体験のないものは、世間とは愛の無い冷たいものという見方をしてしまうのです。
それでいて、求める愛は、人一倍強いものがあります。
御神尊様は、求めるなら与えよ。とおしえられます。
まずは、『自分から好きになること。こちらから、話し掛けること』
つまり、『自分がしてもらいたいことを、そのまましてあげること』
愛とは、具体的であり、
具体的とは、形の表現である。といわれます。
あいさつひとつできなければ、愛される資格はどうでしょうか?
結論のようにいえば、親の心を超える愛念はありません。
だから、親を憎み否定することで、運命が傾くのはあたり前でしょう。
愛を求めるならば、親への孝心を整えること。
そこからです。