植物園の一番奥に、小さな遊具のスペースがあった。その一角、ペンキの剥げかかった青いブランコが一対、風に小さく揺れていた。
心の隅に引っかかる魚の小骨のような想いが、チクチクといつまでも刺さっている。それはこの繋いでいる手を通して、彼も同じように感じているはずだった。
「ブランコに乗ろう。」
繋いでいる手をひっぱるように、ブランコに向かって歩き出す彼。少し小走りになりながら、私は黙って彼について行った。子供が乗るようなその青いブランコは、ただそこにあることが当たり前のように、ギコギコと油が切れかかった音をたてていた。
彼は先にそのブランコに乗り、隣のブランコに乗ろうとした私を手招きした。
「ここに一緒に乗ろう。」
自分の膝の上に私を乗せて、ゆっくりと大きくブランコを漕ぎだした。まるでゆりかごに子供を乗せてあやすかのように。
平日の開園直後の植物園、人気のない園内のその一番奥の小さなスペース。こんな奥まで滅多に人が来ることはない。まして今、この前にある菖蒲は、シーズンオフ。
「嫌い!」
そう小さく呟く私を、落とさないように抱きかかえながら、黙ってそのままブランコを漕ぎ続ける彼。
「嫌い!」
もう一度、さらに小さく呟く私。
「そうかぁ、嫌いか。嫌いだよな。」
ブランコを漕ぐことを止め、彼は私を抱きしめながら、耳元で小さく答えた。体を彼に預けたまま、私は更に小さく同じ言葉を呟いた。
「俺のこと嫌いか。そうだよな。嫌いだよな。」
彼の肩にのせた私の頭をなぜながら、更に彼も同じ言葉を繰り返し、そして更に言葉を続けた。
「俺は、好きだよ。どうして、もう少しだけ早く出逢うことができなかったんだろう。流水子が俺のこと嫌いでも、俺は好きだよ。流水子・・俺は、好きだよ。」
ゆっくりと、ひとつひとつの言葉をひとり言のように呟いた。またブランコを漕ぎ出した彼。何も言わない私の体が小刻みに震えているのを、彼は黙ってブランコの揺れとひとつにした。
少し離れたところを、私達に気付かない振りをして、年配の二人連れが通り過ぎて行った。
「本当に下手だなぁ。いいか、こうして足の裏に均等に体重をかけるんだ。ほら・・」
砂浜を二人で歩いていた。
風紋が綺麗に描かれた砂浜には、自分達二人以外に、まだ誰も足跡をつけていない。二人きりで歩いていた。まるで仲の良い兄弟のように。
「だってぇ。歩けないんだもん。」
口をすぼめて、拗ねてみせる私。
「しょうがない奴だなぁ。スニーカーの中が砂だらけだろ。」
手を繋ぎ並んで歩いていた。ゆっくり、夏、まだ浅い朝の砂浜を、私の手を握り風紋に沿って、歩いていた。。
海からの風が、悪戯に私の長い髪を玩んでいく。
立ち止まり振り返る砂浜は、点々を二人の足跡を残していた。遠く薄く、また二人の足跡を消すかのように、風が綺麗な風紋を描きはじめる。
子犬がじゃれあうように笑いながら、立ち止まり、歩き、また立ち止まり。素足にスニーカーの中に入りこむ砂も、もう気になどならなかった。何がそんなに面白いのかと思うほどに、握り合った手を離すことなくただ砂浜を笑いながら歩いた。
コンクリートの大きなテトラポットに登り、スニーカーの中に入った砂を出す。堤防沿いに止めた、彼の白いクーペが見える。
フロントガラスにゆれる、カンガルーのマスコットが見えた。そして、私の笑いが歪んだ。
私の顔に気が付いた彼が、黙ったまま私の薄いピンクのスニーカーを、私の手からとり中の砂を出した。
小骨がチクッと、胸の奥に刺さった。
笑うことの出来なくなった私に、
「冷たいものを飲みに行こう。」
と、砂の出したスニーカーを私に返しながら、彼が言った。テトラポットの上に立ち上がり、Gパンの砂を払う彼。黙ったまま、わざとゆっくり、スニーカーに足をいれる私。手を差し伸べてくれる彼の手に、自分の手を添えることを躊躇った。
「さぁ、行こう。」
もう一度そう言って、彼は私の手をひっぱり私を立たせた。歪んだままの笑いしか出来ないでいる私のGパンの砂を、少し力を入れて払ってくれる彼。
潮風が結んでない私の長い髪を、また玩ぶ。彼の手が、顔にかかる髪をゆっくりとかき分ける。そしてそのまま、私の頬を包みながら、自分の顔を私の顔に近づけた。ゆっくりと口付けした彼は、私の顔を自分の肩に収めながら、
「行こう。」
静かにもう一度そう言うと、テトラポットから飛び降りた。
「飯を食いに行こう。」
揺らしていたブランコを止め、彼が言った。
植物園に注ぐ初冬の陽は、いつのまにか暖かな日差しと変わっていた。
私を抱いていたその手の力を緩めた。彼の上から降りた私は、彼と視線を合わせないように、二人にふりそそぐその日差しの元を見上げた。
私は、後ろから彼に抱きしめられ、彼の手が私の胸元で交わる。
「このままいられたらいいのにな。」
私が言いたい言葉を、彼が先に口にする。私の髪の匂いを確かめるように、そっと髪にキスをする。交わった手を解き、そのまま私の手をとり歩き出す彼。
何も変わらない、変わらなければいいのに。出来ないことを望むのが、望みと言うのならば、望まない望みは何もない。
青いペンキの剥げかかったブランコが風に吹かれ、またギコギコと油の切れた音を立て始めた。
春遅く、新聞の片隅に植物園の小さな記事が載った。水芭蕉が咲き始めたと。
遅い春にしては、まだまだ冷たさの残る植物園の一番奥。あの青いブランコのある遊具スペースの向かい側、山の陽のあまり当たらない斜面の下に、真っ白な水芭蕉が一株、二株と優雅な姿を控えめに佇ませていた。
塗り替えられた鮮やかな青いブランコが、あの懐かしい日とは違う、春のうららかな日差しの中で、優しい風に吹かれながら揺れている。遠くから子供の声がする。ブランコに向かって走っていく小さな二つの影が、まるでじゃれあう子犬のように。
二昔という歳月を超えてまるで昨日のことのように、あの油の切れかかったギコギコという音が耳に戻った。
心の奥に、チクンと痛みが刺さった。
Fin.
心の隅に引っかかる魚の小骨のような想いが、チクチクといつまでも刺さっている。それはこの繋いでいる手を通して、彼も同じように感じているはずだった。
「ブランコに乗ろう。」
繋いでいる手をひっぱるように、ブランコに向かって歩き出す彼。少し小走りになりながら、私は黙って彼について行った。子供が乗るようなその青いブランコは、ただそこにあることが当たり前のように、ギコギコと油が切れかかった音をたてていた。
彼は先にそのブランコに乗り、隣のブランコに乗ろうとした私を手招きした。
「ここに一緒に乗ろう。」
自分の膝の上に私を乗せて、ゆっくりと大きくブランコを漕ぎだした。まるでゆりかごに子供を乗せてあやすかのように。
平日の開園直後の植物園、人気のない園内のその一番奥の小さなスペース。こんな奥まで滅多に人が来ることはない。まして今、この前にある菖蒲は、シーズンオフ。
「嫌い!」
そう小さく呟く私を、落とさないように抱きかかえながら、黙ってそのままブランコを漕ぎ続ける彼。
「嫌い!」
もう一度、さらに小さく呟く私。
「そうかぁ、嫌いか。嫌いだよな。」
ブランコを漕ぐことを止め、彼は私を抱きしめながら、耳元で小さく答えた。体を彼に預けたまま、私は更に小さく同じ言葉を呟いた。
「俺のこと嫌いか。そうだよな。嫌いだよな。」
彼の肩にのせた私の頭をなぜながら、更に彼も同じ言葉を繰り返し、そして更に言葉を続けた。
「俺は、好きだよ。どうして、もう少しだけ早く出逢うことができなかったんだろう。流水子が俺のこと嫌いでも、俺は好きだよ。流水子・・俺は、好きだよ。」
ゆっくりと、ひとつひとつの言葉をひとり言のように呟いた。またブランコを漕ぎ出した彼。何も言わない私の体が小刻みに震えているのを、彼は黙ってブランコの揺れとひとつにした。
少し離れたところを、私達に気付かない振りをして、年配の二人連れが通り過ぎて行った。
「本当に下手だなぁ。いいか、こうして足の裏に均等に体重をかけるんだ。ほら・・」
砂浜を二人で歩いていた。
風紋が綺麗に描かれた砂浜には、自分達二人以外に、まだ誰も足跡をつけていない。二人きりで歩いていた。まるで仲の良い兄弟のように。
「だってぇ。歩けないんだもん。」
口をすぼめて、拗ねてみせる私。
「しょうがない奴だなぁ。スニーカーの中が砂だらけだろ。」
手を繋ぎ並んで歩いていた。ゆっくり、夏、まだ浅い朝の砂浜を、私の手を握り風紋に沿って、歩いていた。。
海からの風が、悪戯に私の長い髪を玩んでいく。
立ち止まり振り返る砂浜は、点々を二人の足跡を残していた。遠く薄く、また二人の足跡を消すかのように、風が綺麗な風紋を描きはじめる。
子犬がじゃれあうように笑いながら、立ち止まり、歩き、また立ち止まり。素足にスニーカーの中に入りこむ砂も、もう気になどならなかった。何がそんなに面白いのかと思うほどに、握り合った手を離すことなくただ砂浜を笑いながら歩いた。
コンクリートの大きなテトラポットに登り、スニーカーの中に入った砂を出す。堤防沿いに止めた、彼の白いクーペが見える。
フロントガラスにゆれる、カンガルーのマスコットが見えた。そして、私の笑いが歪んだ。
私の顔に気が付いた彼が、黙ったまま私の薄いピンクのスニーカーを、私の手からとり中の砂を出した。
小骨がチクッと、胸の奥に刺さった。
笑うことの出来なくなった私に、
「冷たいものを飲みに行こう。」
と、砂の出したスニーカーを私に返しながら、彼が言った。テトラポットの上に立ち上がり、Gパンの砂を払う彼。黙ったまま、わざとゆっくり、スニーカーに足をいれる私。手を差し伸べてくれる彼の手に、自分の手を添えることを躊躇った。
「さぁ、行こう。」
もう一度そう言って、彼は私の手をひっぱり私を立たせた。歪んだままの笑いしか出来ないでいる私のGパンの砂を、少し力を入れて払ってくれる彼。
潮風が結んでない私の長い髪を、また玩ぶ。彼の手が、顔にかかる髪をゆっくりとかき分ける。そしてそのまま、私の頬を包みながら、自分の顔を私の顔に近づけた。ゆっくりと口付けした彼は、私の顔を自分の肩に収めながら、
「行こう。」
静かにもう一度そう言うと、テトラポットから飛び降りた。
「飯を食いに行こう。」
揺らしていたブランコを止め、彼が言った。
植物園に注ぐ初冬の陽は、いつのまにか暖かな日差しと変わっていた。
私を抱いていたその手の力を緩めた。彼の上から降りた私は、彼と視線を合わせないように、二人にふりそそぐその日差しの元を見上げた。
私は、後ろから彼に抱きしめられ、彼の手が私の胸元で交わる。
「このままいられたらいいのにな。」
私が言いたい言葉を、彼が先に口にする。私の髪の匂いを確かめるように、そっと髪にキスをする。交わった手を解き、そのまま私の手をとり歩き出す彼。
何も変わらない、変わらなければいいのに。出来ないことを望むのが、望みと言うのならば、望まない望みは何もない。
青いペンキの剥げかかったブランコが風に吹かれ、またギコギコと油の切れた音を立て始めた。
春遅く、新聞の片隅に植物園の小さな記事が載った。水芭蕉が咲き始めたと。
遅い春にしては、まだまだ冷たさの残る植物園の一番奥。あの青いブランコのある遊具スペースの向かい側、山の陽のあまり当たらない斜面の下に、真っ白な水芭蕉が一株、二株と優雅な姿を控えめに佇ませていた。
塗り替えられた鮮やかな青いブランコが、あの懐かしい日とは違う、春のうららかな日差しの中で、優しい風に吹かれながら揺れている。遠くから子供の声がする。ブランコに向かって走っていく小さな二つの影が、まるでじゃれあう子犬のように。
二昔という歳月を超えてまるで昨日のことのように、あの油の切れかかったギコギコという音が耳に戻った。
心の奥に、チクンと痛みが刺さった。
Fin.
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