当時の軍事政権が国の英語呼称をBurma(ビルマ)からMyanmar(ミャンマー)に変えたのは1989年のことです。ミャンマー国内ではそれ以前からミャンマー或いは口語で訛ってバマーですから、西洋人がつけたBrumaという呼び方を国内の正式名称に戻したもので、国名が変わったわけではありません。民主指導者アウンサン・スーチー女史の軟禁など、当時の政権に対する英国を中心とした欧米諸国の批判に対する反発の意図が感じられます。しかし、長い英国による植民地支配時代が長かったミャンマーの人々の中には、実際に欧米に対する反感が存在するのも事実で、それを利用して国内の団結を図ろうとするのが実際だったかも知れません。
今年の5月に韓国の李明博大統領はミャンマーを電撃訪問し、テイン・セイン大統領と会談しました。韓国大統領がミャンマーに訪れたのは、1983年の北朝鮮によるラングーンでの爆破テロいわゆる「ラングーン事件」以来実に29年ぶりでした。この事件で韓国の副首相をはじめ韓国の閣僚4名を含む17名、ミャンマーの閣僚、政府関係者4名の21名が爆死、負傷者は47名に及びました。全斗換前大統領は専用車の到着が2分遅れたことでかろうじて難を逃れました。当時 非同盟中立を標榜していたミャンマーですが、北朝鮮とはかなり親密な関係であったようです。しかし、この事件がミャンマーを英国からの独立に導いた英雄であるアウンサン・スーチー女史の父、アウンサン将軍の墓前で起き、ミャンマー閣僚も被害にあったことから事件直後に北朝鮮と断絶しますが、その後 国際社会で孤立したミャンマー政権は再び国交を結び軍事協力も強めていたといわれます。しかし、最近の民政移管に伴い、北朝鮮との軍事協力を停止したというミャンマー側の申告を受けての大統領訪問となったようです。
昨年3月に新政権が誕生し、新憲法のもと民主主義による国家建設を標榜し歩き始めたミャンマー。しかし、その国の文化や現状を考慮せずに、民主主義という言葉のみ独り歩きし、十分な過程を経ずに進められた「民主化」が、ときに国民の幸福よりも一部の利権者や列強国に利用されてきたことは、歴史が示すとおりです。ミャンマーの真の民主化を期待します。