韓国映画やドラマを観る度に思うのが、脚本の秀悦さや俳優の演技力の高さと共に「韓国人は心底ロマンチスト」ではないかという点である。映画、ドラマの主人公たちが、対象が恋愛であれ、社会や政治であれ、本人が想う理想像を求め、現実とのギャップに悩み、悲しみ、そしてもがき苦しむ姿が描かれる。それは、よく韓国人の深層部にある感情的、精神的構造を表現するのに用いられる「恨(ハン)」と言われるのにも関係があるかも知れない。韓流エンターテイメントが世界的評価を受ける理由はここにあるのではと勝手に推察してみる。やるせない心を声で表現したものが歌、体や動きならばダンス、そしてシンプルな言葉であれば詩であろう。韓国では多くの人が詩集を求め、駅のホームやバス停、街中に詩が溢れている。
映画「詩人の恋」の舞台は済州島。30代後半にさしかかる主人公テッキ(ヤン・イクチョン)は、地元の港町で生まれ、おっとりした性格のまま、ただ自然や花の美しさを言葉に謳いながら生きる、売れない詩人。同じく地元で生まれ育った働き者の妻ガンスン(チョン.ヘジン)は、収入も少なく夫としては頼りないテッキであるが、自分にはない彼の純粋さを愛し、生活面から支えてきた。家庭や現実の人生よりも淡いメルヘンの世界で生きるテッキに妻ガンスンが妊活を強く求めることから物語は展開し始める。渋々協力するも気が載らないテッキ。ある日ドーナッツ店で働く美しい青年セユン(チョン・ガラム)に出会い、己でも理解できない不思議な感情が芽生え、彼の詩作そして人生にも大きな影響を与えていく。
キム・ヤンヒ監督は本作で長編映画監督デビューを果たし、全州プロジェクトマーケット観客賞グランプリ、韓国女性映画祭や釜山映画評論家協会賞の脚本賞を受けた。彼女自身ソウルから済州島に移住し、世界自然遺産にも登録される済州島の美しさの中で詩をたしなみ、またこの作品のモデルとなる詩人ヒョン・テクフンと出会う。実物の彼も「太めの大きな体にか弱い少年が入ったような」人物だという。そして「もし、こんな人が激しい感情を抱くとしたら?その対象が女性でなく男性だったら・・・」という発想から脚本が生まれる。つまり、この作品は近年性の多様性でテーマの一つとして取り上げられるLGBTや同性愛に焦点あてた映画ではなく、もっと広い意味での愛の形と済州島を描きたかったのだろう。
アジアのリゾート地として日本の沖縄とよく対比される済州島であるが、両者の歴史的な深い結びつきを唱える学者もいる。統一新羅に代わって朝鮮半島を統一した高麗王朝の時代、強大な蒙古軍の侵略に対して、王朝の存続を条件に服従講和しようと考える文官中心の朝廷に反旗を翻す‘三別抄(サンビョルチョ)’という軍人集団がいた。彼らは蒙古・高麗政府軍と勇敢に戦い抜き、最後は済州島で敗れ去る。しかし、その残党が沖縄に渡った可能性がという学説である。沖縄県浦添市で発見された高麗瓦は、三別抄が造営した済州島の城瓦と酷似するだけでなく、瓦に表記された年度も済州島決戦で敗れた1273年の可能性が指摘されている。琉球王国の建国はその220年後、別の意味でロマンチックな話である。
琉球王国同様、済州島も李氏朝鮮による併合まで耽羅(タムラ)という独立した王国として存在した。その後、外侵や戦乱に巻き込まれながらも独自の文化を維持してきた。済州島の三麗(美しい心、自然、果物)三多(石、風、女)、三無(泥棒、乞食、門)も主人公テッキのような人物も、この土地柄から育まれたのかも知れない。詩人志望の少年にテッキは答える「詩人とは悲しみを抱える人々のために代わりに泣いてあげること」「それでは詩人が悲しすぎる」と言う少年に対して「それで良い」と「悲しみは詩人の糧だから」。この作品と済州島の美しさと淡い悲しみが凝縮された台詞である。
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