今回、大阪市内にある高校体育科の男子生徒が部活の顧問による暴力的行為が原因で自殺した一件は、指導という名目で行われきた体罰に対して教育界のみならず、あらためて社会全体で考えてみる問題であると思います。子供に対する暴力防止が世界各地で精力的に取り組まれている現在、教育場に限らず家庭も含めるすべての場所で体罰を法的に禁止した国が世界で33か国に達し、さらに20か国以上で法制化の議論が進んでいます。これら禁止国は、欧州を中心として広がっていますが、一方 アジア、中東、南米地域では未だ体罰を容認する傾向があります。
日本でも、古くから躾と称してある程度の体罰は社会的に容認されてきた背景があるため、40代以降の世代では、積極的ではないにしろ認める人々はいます。社会調査機関であるJGSS(Japan General Social Surveys)によると、「親あるいは教師による体罰は時により必要か?」という問いに対して、半数以上が‘必要’と答えています。(2000~2001年)さらに、回答者を分析すると、若く高学歴で都市出身者ほど、そして男性より女性に体罰否定派が多く、逆に保守的で年配者の男性に肯定派が多いことわかります。また、若年者でも体罰を受けたことがある被暴力経験者の方が、体罰を受けた経験がない人より肯定派が多い傾向があるのも特徴です。体罰という行為は、保守的な権力意識と共に、男らしさというイメージを反映しているということ、そして、体罰を受けた人間がむしろ、否定するより受け継いでいく傾向があることが示されます。親の虐待で子供が亡くなる事件がきっかけで世界に先駆けて1979年に体罰を禁止したスウェーデンでさえも、それ以前は体罰肯定派が過半数であったと言います。しかし、法制化することで「いかなる理由があっても体罰は許されない」という意識に変わっていきました。これは、ある程度強制的に禁止することで、暴力の連鎖を予防した例なのかもしれません。
韓国には昔から「フェチョリ」という細い木の棒でできたお仕置き道具があります。これで、子供の手のひらやふくらはぎを叩く伝統があり、今でも時々おいている家もあります。母親からフェチョリで叩かれた記憶を、愛の鞭として懐かしげに語る人の話を聞くことがありますが、叩く方がより痛いという親の愛情を感じてのことでしょう。これも体罰と無条件否定するかどうかは別として、より考えるべきなのは、体罰を受ける側の気持ちであることは忘れて15878はいけません。
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