紅葉山果てなき空と平和論
もみじやまはてなきそらとへいわろん
この地球我良しだけでは生きられぬ共感探しの旅に出ようか
9.19いけんの日/平和への思いを忘れない日として、2015(平成27)年9月19日に、自衛隊が海外で武力行使をする行為に関する内容を盛り込んだ安全保障関連法案が可決したことを受けて、自由民主党や公明党などが記念日に制定しております。
同法案の制定を巡っては、その運用を間違うと国家間の武力紛争にも繋がりかねないとの観点から、憲法違反ではないのか?との声が多数挙がる中での採決だったこともあり、本来の主旨をしっかりと記録するため平和への思いを忘れない旨の文言も付記されることとなりました。
また、記念日制定にあたってはこの法律は日本の未来にとって大きな転換点になると思われることから、その日のこと、その出来事を忘れないよう、記念日として後世に遺していくとの思いが込められております。
コミュニケーションと言語
犬や猫も、イヌやネコなりにコミュニケーションをしているが、しかし人間のように細やかな関係をつくることはできない。
「刎頸(ふんけい)の交わり」すなわち、首を切られても悔いが無いような親しい友人関係という言葉があるほどに、人間は親密になることも可能である。
ひとつには人間が「ことば」を使えるからであり、お互いに「わかる」ことができ、共感(Empathy)を持つこと、共感することができるからであるとする。
共感とは、ひとりの人間の内部に発生している状態ときわめてよく似た状態がもうひとりの人間の内部に生ずる過程である。
例えば、誰かの「痛い」という言葉を聞いた時、聞いた人の内部では次のような過程が発生する。
「痛い」という言葉によって表現されたからだの状態に似た状態を、聞き手はみずからの体験に即して想像する。
聞き手はべつだんその部分に痛みを感じるわけではないが、「痛い」という言葉によって表現しようとしている身体の状態がどのような性質であるかを知っているのである。
また、共感はしばしば、生理的な次元でも起きる。
例えば、親密な関係においては、痛みはたんに想像上経験されるだけでなく、実際の生理的な痛みとして体験されることもあるという。
また、フィクション上の登場人物の行動に心拍数が上がるとき、観客(読者)は、その登場人物に自分自身を置き換えると言えることから、人間は「相手の身になる」能力を持っているのであるという。
そして人間同士は、記号を用いて互いに共感しあうことができる。
共感の過程をコミュニケーションと呼ぶ。
共感がつみかさねられてゆけばゆくほど、人間関係は深くなってゆくとし、人間関係はコミュニケーションの累積だと言う。
また、お互いに記号を交換しあうことなしに成立する人間関係というのは、ほとんど想定できないとし、手紙、デート、おしゃべり、会議など、どんな関係であれ、人間関係は記号、言葉の交換を通じて成立しており、「ことばをかける」ということは人間関係の基本的な条件であるという。
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いかなる場合であっても武力を使うのは私は反対です。
ましてや、プーチンのように自分の方から仕掛けるなんてことは絶対反対します。
ウクライナではたくさんの人たちが埋められている墓地を掘り起こしてどうして亡くなったのかを検証していますが、悲しいことですね。
彼らの戦争はまだまだ長い道のりの最中のように感じます。
武力は即人の命を奪うものです。
人間は言葉というコミュニケーションツールがあるのでそれを使うべきだと私は思います。
武力を行使するということは相手に共感を得られないことを望むからではないのでしょうか。
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台風14号、九州から日本海、また日本縦断をするようですね。
巨大台風の発生は地球温暖化も一因としてあるので、温暖化を阻止できる生き方をして、巨大台風の発生を出来るだけ減らしたいものと思います。
そして人々の災難が小難となり無難となりますように、お祈りさせていただきます。