沖縄戦当時、慶良間諸島には座間味島に海上挺身第1戦隊(隊長・梅澤裕少佐)、阿嘉島に第2戦隊(同・野田義彦少佐)、渡嘉敷島に第3戦隊(同・赤松嘉次大尉)が配備されていた。
『座間味村史・下巻』には、座間味村の座間味・阿真・阿佐・慶留間・阿嘉・屋嘉比など各地域の住民の戦争体験記とサイパン・満州での戦争体験記が収められている。
以下に引用するのは阿嘉島の垣花武一氏(当時十五歳)の証言である。垣花氏は昭和十九年四月に那覇市内の開南中学に入学する。しかし、十月十日の空襲によって那覇市内は灰燼に帰してしまう。住む場所を失った垣花氏は島に戻り、住民虐殺を目撃する。
※なお引用文中のまるレは、本来は○の中にレの記号で表記されている。
〈夕方、爆撃が止み、下宿へもどってみると荷物もろとも下宿家はすっかり焼け落ち、後かたもなくなっていた。その日から、私は住む場所を失い、方々を転々とする生活が続いた。島に帰ろうにも、船はすべて軍の統制下に置かれ、自由な行き来ができなくなっていたからである。
十一月に入って間もない頃、軍用船が島に向けて出るという情報が入った。喜び勇んで港へ行くと、二〇〇トンほどの機帆船の前に二〇人前後の島の人たちが集まっている。私たちも乗せてもらおうと兵隊に頼み込んだ。ところが、「君たちはなぜ残って戦闘に参加しないか、もう敵が来るかも知れないんだ」と怒鳴られてしまった。ちょうどその頃、沖縄本島では鉄血勤皇隊など学徒動員がはじまっていたため、私たちもそれに参加しろということだったのだろう。しかし私たちは、「島の防衛だって必要です。我々も学徒として島での戦闘に参加するつもりです」と兵隊を説得し、ようやく乗せてもらった。
島に着き、家に帰ってみると、なんと我が家には日本兵が宿泊しているのである。安藤軍曹を班長とする設営隊ということであった。設営隊というのは、※まるレという一人乗りの特攻艇の秘匿壕を掘るための部隊で、この壕にはレールが敷かれ、まるレ艇五隻が収容できるということであった〉(144~145ページ)
阿嘉島では十二月の上旬頃、〈駐屯軍の方から、満十五歳から十七歳までを対象に戦闘訓練に参加するよう命令が下った。これが、いわゆる阿嘉島の少年義勇兵が結成されるきっかけとなった組織である〉(145ページ)。訓練に参加した垣花少年は、その後、少年義勇隊の一員として日本軍の指揮下で弾薬運び、水汲み、食糧運びなどの労務をになう。そういう中で親戚の老夫婦が日本兵によって虐殺されるのを目撃する。以下の証言は米軍が阿嘉島に上陸して以後のことである。
〈義勇隊の仕事は、それからが大変であった。ずっと軍と行動を共にし、主に水汲みや食糧運びが日課となっていた。日課とはいっても、行動は夜だけに限られてくる。米軍は座間味、慶留間をすべて占拠し、阿嘉に向けて追撃をくり返すため、日中はとても出て歩ける状態ではなかったからだ。したがって日暮れを待って、私たちは行動を開始するのである。
そうした日が数日続いた四月初旬のこと。いつものように私と中村仁勇君、中村良信君、金城英次君の四人がに食糧を捜しに行ったときのことである。メーアガイの家の前にさしかかったとき、「仁勇、仁勇」という声が聞こえてくる。一体だれだろう、と暗がりのなか、声のする方向に歩いていくと、そこには後藤松雄じいさん(ウルンメー)と奥さんのタキエばあさんがいるのである。住民は全員山に避難しているはずのものの、老夫婦が米軍に保護されてに残っていたことがわかった。ばあさんの足が悪く、逃げようにも逃げられず、米軍に連れてこられたという。
家の中をのぞいてみると、なんとそこには米軍の食糧が山と積まれているのである。私たちは驚いて、「友軍に見られると危険だから、早く山に逃げなさい」というと、じいさんの方は「その通りだ、今晩にでも山に行くつもりだ」と言ったが、ばあさんは、むしろ「食糧がたくさんあるから、の人たちに山を下りてくるよう言いなさい」という。そんなことができるはずはなく、私たちが拒否すると、おみやげにとのことで、救急用の三角巾にいっぱいの缶詰やらレーション(米軍の携帯用食品)を包んでくれた。
ちょうどその晩であった。ばあさんの耳が遠く、じいさんが大声で話しているところを、斥候の日本軍に見つかってしまったのである。翌朝、本部の壕に行ってみると、じいさんとばあさんが手を後ろにしばられ、兵隊に監視されてしょんぼり座っている姿があった。親戚ということがばれると大変なので、私は知らんふりをして前を通り過ぎていったが、その晩、ある下士官に処刑されたのである。ばあさんは中嶽(ナカタキ)の下の小川に、じいさんは本部とスギヤマの中間あたりに放置され、私が見たときはじいさんの死体はふくれあがり、頭だけ埋められた状態で捨てられていた。
このような場面を見ても、同情の余地もなかったのだから、戦争というのは、それほど人間を醜くしてしまうのである〉(148~149ページ)
垣花氏は阿嘉島で働かされていた朝鮮人軍夫の虐殺も目撃している。
〈五月に入った頃だっただろうか。本部と二中隊の壕の中間あたりに、朝鮮人軍夫たちが縦、横五、六メートル、深さ二メートルほどの穴を、二ヵ所に掘っているのである。何をするのかと思っていたら、そのうちに壕を掘っていた彼らがその中に入れられ、上から丸太棒数本が格子状に組まれて穴を塞ぐ格好で横たえられた。逃げられないように閉じ込めてしまったのである。それまで、軍夫が多数米軍の方に投降しており、これ以上投降を許さないという、日本軍の思惑があったからかも知れない。
中をのぞいてみると、座るスペースもないほど朝鮮人がびっしり詰められている。歩哨は防衛隊があたり、彼らの食事は、現在の小さなさば罐詰の大きさの器八分くらいであった。
朝鮮人軍夫の食事は、当初から差別されていた。兵隊たちがごはんの時はおかゆ、おかゆの時は粗末な雑炊という具合で、壕に入れられてからは、米粒が入っているかどうかのおかゆであった。彼らは用便の時以外は一切外に出してもらえず、用便を告げた者に対してははしごを下ろし、他の者が登ってこないよう銃剣が向けられた。ある日、軍夫の中でも屈強の男性が一人用便を申し入れた。例のごとく地元出身の防衛隊員が外に出したところ、その軍夫がいきなり逃げ出したのである。大騒ぎとなり、緊急手配して捕まえたが、彼は一晩松の木にゆわえられたあと、兵隊によって処刑されてしまった。朝鮮人軍夫の処刑については、住民の多くが目撃しているが、私が直接見たのはその一例だけである〉(150~151ページ)
阿嘉島では野田隊長の徹底した統制下で、住民は飢えに苦しんでいた。その様子は垣花氏の目に次のように映っている。
〈食糧が底をついたのは六月に入ってからだった。その頃から、軍は住民が勝手に田や畑から稲や芋、野菜を持ち出すのを禁じ、整備中隊の兵隊が監視するようになった。それだけではない〃阿嘉島に生えている木や草の一本とて、軍の命令がない限りは取っていけない、もし見つけたら処刑する〃とまで言うようになっていた。もはや住民にとっての敵は米軍ではなく、友軍となってしまったのである。
ただこの時期には、アメリカの船艇が頻繁に海岸べりから住民の投降を呼びかけていた。絶対に殺すようなことはしないから、安心して下りてくるよう宣伝していたのである。
忘れもしない六月二二日、隊長から全軍隊(義勇隊、防衛隊含む)に対して訓示が与えられた。「きょうより、オレと死ねない奴は投降してよい。ただし、歩哨線を突破するとき、見つけた者は殺す。住民の投降は妨げない」という内容であった。食糧が底をつき、口減らしのための措置と思われるが、それによって住民の半分以上が米軍の保護を求めて山を下りていった〉(151ページ)
垣花氏はそのあとも日本軍と行動を共にする。証言の最後を垣花氏は次のように締めくくっている。
〈とにかく、阿嘉島の戦闘は、米軍との闘いというより、食糧をめぐる住民と日本軍とのトラブルがほとんどであった。米粒ひとつ持っているという情報が軍の耳に入るだけで、ミージョーの夫婦のように、瀕死の状態になるまでメッタ打ちされ、それこそひどい目にあわされたのものである。
戦争というのは、人間を人間でなくす恐ろしいものである。少年のころ抱いた軍隊へのあこがれが、結果的に何をもたらしたのか、私たちのバカげた体験を読んでいただいて、現在の若者たちが真剣に考えてくれることを期待したい〉(151~152ページ)
『座間味村史・下巻』には、座間味村の座間味・阿真・阿佐・慶留間・阿嘉・屋嘉比など各地域の住民の戦争体験記とサイパン・満州での戦争体験記が収められている。
以下に引用するのは阿嘉島の垣花武一氏(当時十五歳)の証言である。垣花氏は昭和十九年四月に那覇市内の開南中学に入学する。しかし、十月十日の空襲によって那覇市内は灰燼に帰してしまう。住む場所を失った垣花氏は島に戻り、住民虐殺を目撃する。
※なお引用文中のまるレは、本来は○の中にレの記号で表記されている。
〈夕方、爆撃が止み、下宿へもどってみると荷物もろとも下宿家はすっかり焼け落ち、後かたもなくなっていた。その日から、私は住む場所を失い、方々を転々とする生活が続いた。島に帰ろうにも、船はすべて軍の統制下に置かれ、自由な行き来ができなくなっていたからである。
十一月に入って間もない頃、軍用船が島に向けて出るという情報が入った。喜び勇んで港へ行くと、二〇〇トンほどの機帆船の前に二〇人前後の島の人たちが集まっている。私たちも乗せてもらおうと兵隊に頼み込んだ。ところが、「君たちはなぜ残って戦闘に参加しないか、もう敵が来るかも知れないんだ」と怒鳴られてしまった。ちょうどその頃、沖縄本島では鉄血勤皇隊など学徒動員がはじまっていたため、私たちもそれに参加しろということだったのだろう。しかし私たちは、「島の防衛だって必要です。我々も学徒として島での戦闘に参加するつもりです」と兵隊を説得し、ようやく乗せてもらった。
島に着き、家に帰ってみると、なんと我が家には日本兵が宿泊しているのである。安藤軍曹を班長とする設営隊ということであった。設営隊というのは、※まるレという一人乗りの特攻艇の秘匿壕を掘るための部隊で、この壕にはレールが敷かれ、まるレ艇五隻が収容できるということであった〉(144~145ページ)
阿嘉島では十二月の上旬頃、〈駐屯軍の方から、満十五歳から十七歳までを対象に戦闘訓練に参加するよう命令が下った。これが、いわゆる阿嘉島の少年義勇兵が結成されるきっかけとなった組織である〉(145ページ)。訓練に参加した垣花少年は、その後、少年義勇隊の一員として日本軍の指揮下で弾薬運び、水汲み、食糧運びなどの労務をになう。そういう中で親戚の老夫婦が日本兵によって虐殺されるのを目撃する。以下の証言は米軍が阿嘉島に上陸して以後のことである。
〈義勇隊の仕事は、それからが大変であった。ずっと軍と行動を共にし、主に水汲みや食糧運びが日課となっていた。日課とはいっても、行動は夜だけに限られてくる。米軍は座間味、慶留間をすべて占拠し、阿嘉に向けて追撃をくり返すため、日中はとても出て歩ける状態ではなかったからだ。したがって日暮れを待って、私たちは行動を開始するのである。
そうした日が数日続いた四月初旬のこと。いつものように私と中村仁勇君、中村良信君、金城英次君の四人がに食糧を捜しに行ったときのことである。メーアガイの家の前にさしかかったとき、「仁勇、仁勇」という声が聞こえてくる。一体だれだろう、と暗がりのなか、声のする方向に歩いていくと、そこには後藤松雄じいさん(ウルンメー)と奥さんのタキエばあさんがいるのである。住民は全員山に避難しているはずのものの、老夫婦が米軍に保護されてに残っていたことがわかった。ばあさんの足が悪く、逃げようにも逃げられず、米軍に連れてこられたという。
家の中をのぞいてみると、なんとそこには米軍の食糧が山と積まれているのである。私たちは驚いて、「友軍に見られると危険だから、早く山に逃げなさい」というと、じいさんの方は「その通りだ、今晩にでも山に行くつもりだ」と言ったが、ばあさんは、むしろ「食糧がたくさんあるから、の人たちに山を下りてくるよう言いなさい」という。そんなことができるはずはなく、私たちが拒否すると、おみやげにとのことで、救急用の三角巾にいっぱいの缶詰やらレーション(米軍の携帯用食品)を包んでくれた。
ちょうどその晩であった。ばあさんの耳が遠く、じいさんが大声で話しているところを、斥候の日本軍に見つかってしまったのである。翌朝、本部の壕に行ってみると、じいさんとばあさんが手を後ろにしばられ、兵隊に監視されてしょんぼり座っている姿があった。親戚ということがばれると大変なので、私は知らんふりをして前を通り過ぎていったが、その晩、ある下士官に処刑されたのである。ばあさんは中嶽(ナカタキ)の下の小川に、じいさんは本部とスギヤマの中間あたりに放置され、私が見たときはじいさんの死体はふくれあがり、頭だけ埋められた状態で捨てられていた。
このような場面を見ても、同情の余地もなかったのだから、戦争というのは、それほど人間を醜くしてしまうのである〉(148~149ページ)
垣花氏は阿嘉島で働かされていた朝鮮人軍夫の虐殺も目撃している。
〈五月に入った頃だっただろうか。本部と二中隊の壕の中間あたりに、朝鮮人軍夫たちが縦、横五、六メートル、深さ二メートルほどの穴を、二ヵ所に掘っているのである。何をするのかと思っていたら、そのうちに壕を掘っていた彼らがその中に入れられ、上から丸太棒数本が格子状に組まれて穴を塞ぐ格好で横たえられた。逃げられないように閉じ込めてしまったのである。それまで、軍夫が多数米軍の方に投降しており、これ以上投降を許さないという、日本軍の思惑があったからかも知れない。
中をのぞいてみると、座るスペースもないほど朝鮮人がびっしり詰められている。歩哨は防衛隊があたり、彼らの食事は、現在の小さなさば罐詰の大きさの器八分くらいであった。
朝鮮人軍夫の食事は、当初から差別されていた。兵隊たちがごはんの時はおかゆ、おかゆの時は粗末な雑炊という具合で、壕に入れられてからは、米粒が入っているかどうかのおかゆであった。彼らは用便の時以外は一切外に出してもらえず、用便を告げた者に対してははしごを下ろし、他の者が登ってこないよう銃剣が向けられた。ある日、軍夫の中でも屈強の男性が一人用便を申し入れた。例のごとく地元出身の防衛隊員が外に出したところ、その軍夫がいきなり逃げ出したのである。大騒ぎとなり、緊急手配して捕まえたが、彼は一晩松の木にゆわえられたあと、兵隊によって処刑されてしまった。朝鮮人軍夫の処刑については、住民の多くが目撃しているが、私が直接見たのはその一例だけである〉(150~151ページ)
阿嘉島では野田隊長の徹底した統制下で、住民は飢えに苦しんでいた。その様子は垣花氏の目に次のように映っている。
〈食糧が底をついたのは六月に入ってからだった。その頃から、軍は住民が勝手に田や畑から稲や芋、野菜を持ち出すのを禁じ、整備中隊の兵隊が監視するようになった。それだけではない〃阿嘉島に生えている木や草の一本とて、軍の命令がない限りは取っていけない、もし見つけたら処刑する〃とまで言うようになっていた。もはや住民にとっての敵は米軍ではなく、友軍となってしまったのである。
ただこの時期には、アメリカの船艇が頻繁に海岸べりから住民の投降を呼びかけていた。絶対に殺すようなことはしないから、安心して下りてくるよう宣伝していたのである。
忘れもしない六月二二日、隊長から全軍隊(義勇隊、防衛隊含む)に対して訓示が与えられた。「きょうより、オレと死ねない奴は投降してよい。ただし、歩哨線を突破するとき、見つけた者は殺す。住民の投降は妨げない」という内容であった。食糧が底をつき、口減らしのための措置と思われるが、それによって住民の半分以上が米軍の保護を求めて山を下りていった〉(151ページ)
垣花氏はそのあとも日本軍と行動を共にする。証言の最後を垣花氏は次のように締めくくっている。
〈とにかく、阿嘉島の戦闘は、米軍との闘いというより、食糧をめぐる住民と日本軍とのトラブルがほとんどであった。米粒ひとつ持っているという情報が軍の耳に入るだけで、ミージョーの夫婦のように、瀕死の状態になるまでメッタ打ちされ、それこそひどい目にあわされたのものである。
戦争というのは、人間を人間でなくす恐ろしいものである。少年のころ抱いた軍隊へのあこがれが、結果的に何をもたらしたのか、私たちのバカげた体験を読んでいただいて、現在の若者たちが真剣に考えてくれることを期待したい〉(151~152ページ)