『父の戦記』より一年ほど前に出された本に菊池敬一・大牟羅良編『あの人は帰ってこなかった』(岩波新書)がある。夫を戦争で失った「戦争未亡人」への聞き取りの記録で、妻・母の銃後の体験を記したものとして、戦後二十年という同じ時期に出された『父の戦記』と内容も対応しているかのようだ。二部構成になっていて、第一部は岩手県和賀郡横川目村(当時)の通称「北どおり」とよばれるの九名の「戦争未亡人」に、地元の菊池敬一氏が聞き取りを行った記録である。第二部は岩手県の「戦争未亡人」が戦後の二十年をどのような困難を抱えて生きてきてか、その内実を分析しながら彼女たちの悩みや苦しみ、葛藤などについて大牟羅氏が論評している。
〈あの人と一緒に暮したのは、たった五ヶ月だったモ。オレ、嫁に来たのは昭和十七年の春、十八になる時だったモ。そして秋の十月に召集来て征ったのだからナス。
五ヶ月一緒に暮らしたといっても、まるで夢中で暮した五ヶ月だったからナス。春さきの忙しい田植え時に来て、百姓の仕方もまるっきりで知らないもんだから、ただあの人さ、くっついてばかり働いて、どうやらあの人の気心もわかって来たな、と思ったころすぐ別れてしまったようなもんだったナス。たった五ヶ月一緒に暮したきりだったんだが、それでもその時、運が良かったか、悪かったんだか、もう腹さ子供入って二カ月になっていたったモ〉(2ページ・文末の「モ」は原文では小文字表記、以下同じ)
〈明日たつという前の晩、みんな集まって出征祝(たちぶるまい)してくれた時、あの人急に座敷から見えなくなってしまったノス。オレ、どこさ行ったべ、と思ってさがしたれば、暗い部屋(寝所)の床の上さ黙ってあぐらかいて座っていたノス。オレのところ見たれば、「俺なあ……」っていったきり黙って動かないで座っていたっけモ。今でも、オレ、ハ、その気持ちわかるマス。だれェナッス、喜んで行く人、どこの世界にあるべナッス。酒のんだって、騒いだって、なんじょしてその気持消えるべナッス。オレもハ、泣いてばかりしまって、ろくな力付けも出来ないでしまったったモ〉(4ページ)。
そうやって送り出した夫が戦死した時、遺骨が帰ってくるのはまだましだった。階級と名前が記された紙切れが入った白木の箱を渡されても、夫が本当に死んだという実感は持てないまま、残された妻は子どもや義理の両親を養うために身を粉にして働かなければならなかった。「戦争未亡人」として身を清く保て、という圧力が加えられる一方で、男達からは誘惑やからかい、暴力の対象とされ、女達からは疑惑の目を向けられる。力仕事でどうしても男の手を借りる必要があり、知り合いの男に頼み事をしただけで有らぬ噂を立てられ、狭い村の中では四六時中監視の対象となった。貧困に苦しむなか国から遺族への補償金が出て、やっと少しは楽になるかとかと思うと、まわりからは妬まれ、皮肉が投げつけられる。そして、必死で育てた子どもたちは、やがて集団就職で故郷を離れていく。
「戦争未亡人」という言葉も死語になって久しい。しかし、一九六〇年代半ばには、まだ「戦争未亡人」が抱える問題は切実なものとしてあった。日々の生活に追われ、自らの思いを書き記す余裕も術もなかった庶民の埋もれていた声を、岩手県の女性が語る生の言葉で聞き取った本書は貴重な記録である。
本書に収められているのは、まさに戦後二十年を迎えた当時の庶民の声である。当時でも、帝国軍人の手柄話のような戦争記事は子供雑誌などに溢れていたと大牟羅氏はいう。そういう華々しい「戦記」に対して、最前線で戦った兵士達が書いた『父の戦記』や菊池・大牟羅氏らが編んだ『あの人は帰ってこなかった』には、戦争で苦しんだ庶民の声が伝えられている。おそらく週刊朝日編集部と菊池・大牟羅氏には、かつて職業軍人・将校らの書く「戦記」に対して、市井の民の視点から戦争をとらえ返し記録していくという、共通の問題意識があったのではなかろうか。
『あの人は帰ってこなかった』には、「戦争未亡人」だけでなく、息子を亡くした母の声も記されている。
〈和賀町のからへ通ずる道端に、道路に面して戦死者の墓石が一つ建っています。これは一人息子、千三(二十五歳、ニューギニヤで戦死)のため、その母親ーー高橋セキさん(現在七十一歳、全くの一人ぐらし)が建てたものだとのことです。「戦争体験を語る集い」の際セキさんが道端に墓石を建てたわけをつぎのように語ってくれました。
「ーーベコ(牛)や犬の死んだようにしたくねェと思って、ながい間すこしずつためたお金で墓作ってやったンス。オレ死ねば、戦死した千三を思い出してくれる人もなく、忘れられてしまうべ、と思って、人通りの多い道端に建てたノス。その道通った人たち、墓石みて、戦死した息子、千三を思い出してけるべェ。知らねェ人でも、戦死者の墓だと思えば、戦争を思い出すべナス。そして、お念仏となえてくれる人もあるかもしれねェと思ってナス、そうすれば供養にもなるし、お念仏の願力で、念仏となえた人たちも救われるから、世の中のためにもなると思うノス。
墓へ行くつもりでなくとも、墓のそば通れば、なんとしても足よどまるナス。誰だか知らねェども、草花コなど上げてくれてあるのみると、わが子さ、お菓子もらった時よりもありがたく思うもんだナス」〉(190~191ページ)。
こう語ったセキさんは、夫の病死とともに婚家を追い出され、母一人、子一人の暮らしを送ってきたという。昭和十七年、その息子が二十二歳の時、召集令状が来る。
〈「杖とも柱ともしていた子供を連れて行かれるのは、ずいぶんつらかったもんだス。千三は親一人、子一人で育ったもんだから、オレのこと案じて案じて、俺兵隊に征ったらなじょにして暮らす、というノス。そういわれてオレ、涙みせたくなくて、だまって便所さ立って行って、便所の中で涙ながして泣いたもんだス。気がおさまるまで泣いたもんだス。」
昭和二十年の春四月、息子、千三戦死、やがて遺骨が届けられた日のことをーー
「息子の遺骨来たとき〃おまえこんな姿になって来たってか〃って、箱さかぶりついたス。箱の中さ、小指ぐらいの骨ッコがたったひとつ入ってたったんス。ほんとうに息子だべか?そうだんべか?と思って、その骨ッコなめてみたったんス……」〉(192ページ)。
このセツさんも今はもう亡い。ただ、その思いは記録された声として残り、読む人に伝えられていくだろう。今あらためて読み返されてほしい一冊だ。
〈あの人と一緒に暮したのは、たった五ヶ月だったモ。オレ、嫁に来たのは昭和十七年の春、十八になる時だったモ。そして秋の十月に召集来て征ったのだからナス。
五ヶ月一緒に暮らしたといっても、まるで夢中で暮した五ヶ月だったからナス。春さきの忙しい田植え時に来て、百姓の仕方もまるっきりで知らないもんだから、ただあの人さ、くっついてばかり働いて、どうやらあの人の気心もわかって来たな、と思ったころすぐ別れてしまったようなもんだったナス。たった五ヶ月一緒に暮したきりだったんだが、それでもその時、運が良かったか、悪かったんだか、もう腹さ子供入って二カ月になっていたったモ〉(2ページ・文末の「モ」は原文では小文字表記、以下同じ)
〈明日たつという前の晩、みんな集まって出征祝(たちぶるまい)してくれた時、あの人急に座敷から見えなくなってしまったノス。オレ、どこさ行ったべ、と思ってさがしたれば、暗い部屋(寝所)の床の上さ黙ってあぐらかいて座っていたノス。オレのところ見たれば、「俺なあ……」っていったきり黙って動かないで座っていたっけモ。今でも、オレ、ハ、その気持ちわかるマス。だれェナッス、喜んで行く人、どこの世界にあるべナッス。酒のんだって、騒いだって、なんじょしてその気持消えるべナッス。オレもハ、泣いてばかりしまって、ろくな力付けも出来ないでしまったったモ〉(4ページ)。
そうやって送り出した夫が戦死した時、遺骨が帰ってくるのはまだましだった。階級と名前が記された紙切れが入った白木の箱を渡されても、夫が本当に死んだという実感は持てないまま、残された妻は子どもや義理の両親を養うために身を粉にして働かなければならなかった。「戦争未亡人」として身を清く保て、という圧力が加えられる一方で、男達からは誘惑やからかい、暴力の対象とされ、女達からは疑惑の目を向けられる。力仕事でどうしても男の手を借りる必要があり、知り合いの男に頼み事をしただけで有らぬ噂を立てられ、狭い村の中では四六時中監視の対象となった。貧困に苦しむなか国から遺族への補償金が出て、やっと少しは楽になるかとかと思うと、まわりからは妬まれ、皮肉が投げつけられる。そして、必死で育てた子どもたちは、やがて集団就職で故郷を離れていく。
「戦争未亡人」という言葉も死語になって久しい。しかし、一九六〇年代半ばには、まだ「戦争未亡人」が抱える問題は切実なものとしてあった。日々の生活に追われ、自らの思いを書き記す余裕も術もなかった庶民の埋もれていた声を、岩手県の女性が語る生の言葉で聞き取った本書は貴重な記録である。
本書に収められているのは、まさに戦後二十年を迎えた当時の庶民の声である。当時でも、帝国軍人の手柄話のような戦争記事は子供雑誌などに溢れていたと大牟羅氏はいう。そういう華々しい「戦記」に対して、最前線で戦った兵士達が書いた『父の戦記』や菊池・大牟羅氏らが編んだ『あの人は帰ってこなかった』には、戦争で苦しんだ庶民の声が伝えられている。おそらく週刊朝日編集部と菊池・大牟羅氏には、かつて職業軍人・将校らの書く「戦記」に対して、市井の民の視点から戦争をとらえ返し記録していくという、共通の問題意識があったのではなかろうか。
『あの人は帰ってこなかった』には、「戦争未亡人」だけでなく、息子を亡くした母の声も記されている。
〈和賀町のからへ通ずる道端に、道路に面して戦死者の墓石が一つ建っています。これは一人息子、千三(二十五歳、ニューギニヤで戦死)のため、その母親ーー高橋セキさん(現在七十一歳、全くの一人ぐらし)が建てたものだとのことです。「戦争体験を語る集い」の際セキさんが道端に墓石を建てたわけをつぎのように語ってくれました。
「ーーベコ(牛)や犬の死んだようにしたくねェと思って、ながい間すこしずつためたお金で墓作ってやったンス。オレ死ねば、戦死した千三を思い出してくれる人もなく、忘れられてしまうべ、と思って、人通りの多い道端に建てたノス。その道通った人たち、墓石みて、戦死した息子、千三を思い出してけるべェ。知らねェ人でも、戦死者の墓だと思えば、戦争を思い出すべナス。そして、お念仏となえてくれる人もあるかもしれねェと思ってナス、そうすれば供養にもなるし、お念仏の願力で、念仏となえた人たちも救われるから、世の中のためにもなると思うノス。
墓へ行くつもりでなくとも、墓のそば通れば、なんとしても足よどまるナス。誰だか知らねェども、草花コなど上げてくれてあるのみると、わが子さ、お菓子もらった時よりもありがたく思うもんだナス」〉(190~191ページ)。
こう語ったセキさんは、夫の病死とともに婚家を追い出され、母一人、子一人の暮らしを送ってきたという。昭和十七年、その息子が二十二歳の時、召集令状が来る。
〈「杖とも柱ともしていた子供を連れて行かれるのは、ずいぶんつらかったもんだス。千三は親一人、子一人で育ったもんだから、オレのこと案じて案じて、俺兵隊に征ったらなじょにして暮らす、というノス。そういわれてオレ、涙みせたくなくて、だまって便所さ立って行って、便所の中で涙ながして泣いたもんだス。気がおさまるまで泣いたもんだス。」
昭和二十年の春四月、息子、千三戦死、やがて遺骨が届けられた日のことをーー
「息子の遺骨来たとき〃おまえこんな姿になって来たってか〃って、箱さかぶりついたス。箱の中さ、小指ぐらいの骨ッコがたったひとつ入ってたったんス。ほんとうに息子だべか?そうだんべか?と思って、その骨ッコなめてみたったんス……」〉(192ページ)。
このセツさんも今はもう亡い。ただ、その思いは記録された声として残り、読む人に伝えられていくだろう。今あらためて読み返されてほしい一冊だ。