雑誌『WiLL』11月号に藤岡信勝氏が「完全に破綻した母・宮平貞子」の証言という評論を書いている。宮平秀幸証言の正しさを証明するために、宮平氏の母・貞子氏が書いた『座間味村史 下巻』所収の手記をとりあげ、その「内在的矛盾」を指摘しているのだが、そうすることによって藤岡氏は、宮平家の家族関係にさえ傷を入れかねない状況を引き起こしている。
もともと大江・岩波沖縄戦裁判は、靖国応援団を自称する弁護士グループや藤岡氏らが画策して起こしたものだ。「集団自決」の軍による強制という教科書記述の削除・書き換えを直接の目的とし、憲法九条の改悪や沖縄の自衛隊強化をも視野に入れた彼らの政治的策動によって、座間味島の人達は親子、親族、住民同士の関係を引っかき回され、傷つけられている。今になって自分の母親の手記を否定している秀幸氏の証言を補強するために、藤岡氏はさらに秀幸氏の妹・昌子氏も巻き込んでいる。「昌子陳述書」が大阪高裁に提出される経過を、藤岡氏は同評論で以下のように書いている。
〈壕を出た秀幸の家族の中に、当時六歳の昌子がいた。私は昌子に証言を依頼した。六歳(より正確には、当時昌子は五歳十ヶ月)の子供でも、家族の服装くらいは記憶しているかもしれないと私は期待した。実のところ、私が期待したのはそこまでだった。
ところが、驚くべきことに、昌子は、三月二十五日夜の出来事の大筋を記憶していて、証言してくれた。子供ながら、印象深い深刻な体験であったのだろう。七月十五日、昌子は自信の体験談をテープに録音し、私あてに郵送してくれた。以下はその中の主要部分を文字に起こしたものである。なお、これと同一の文書を作成し、昌子の署名と捺印を得て、のちに陳述書として裁判所に提出した〉(214ページ)。
これを読むと、裁判所に提出された昌子氏の陳述書は、昌子氏本人が書いたものではなく、昌子氏がテープに吹きこんだ証言を藤岡氏が文字に起こし、文書化したものであることが分かる。同評論ではこのあとに昌子氏の「陳述書」の一部が続いているのだが、実は引用した藤岡氏の文章には大きなまやかしがあるのである。
新しい歴史教科書をつくる会が出している『史』08年九月号に藤岡氏は、「勇気ある証言者・宮平秀幸さんと控訴審」というという文章を発表している。「新たに妹・昌子さんが当時を証言」と副題がついたこの文章には、次のような一節がある。
〈……母と息子の証言がこのように食い違うと、第三の人物の証言なしには審議は確定しない。私は宮平さんの妹・昌子さんが当時六歳だったことを思い出し、昌子さんの証言を依頼した。せめて家族で出かけたときの服装が記憶にあれば決め手になる。晴れ着を着ていたのなら、集団自決のために出かけたのだ。
私の依頼の趣旨を了解した宮平さんは七月十五日、那覇に出てテープレコーダーを購入し、座間味に昌子さんを連れ帰ってその夜に録音、テープを拙宅に送って下さった。ところが、操作を間違ったのか、全く録音されていない。伝えるのも気の毒な次第だったが、今度はテープレコーダーの本体を丸ごと送ってきた。その内蔵ICメモリーに昌子さんの声がきれいに録音されていた〉(12~13ページ)。
いやはやまったく呆れかえるというか、同じ人物が書いたとは思えないほどの違いがある。『WiLL』の文章では、藤岡氏が直接昌子氏に証言を依頼し、それに応えて昌子氏が自分で証言を録音して、テープを藤岡氏に郵送した。そのテープを文字化して藤岡氏が陳述書にしたかのように書かれている。ところが、『史』では藤岡氏が依頼したのは「宮平さん」こと秀幸氏であり、秀幸氏が昌子氏を座間味島に連れ帰って証言を取り、テープを送った。しかし、そのテープには録音されていなくて、次に送られてきたテープレコーダー本体のICメモリーに内蔵された昌子氏の証言を文字に起こしたのだという。
『史』の文章は証言の依頼、録音、発送、再発送などの過程が詳細であり、こちらの方が事実だと思うが、『WiLL』だけを読んだ人は藤岡氏にだまされたであろう。こういうまやかしを平然とやってのける藤岡氏の人格を疑う。
しかも、『史』に書かれた昌子氏の証言をとる経緯も何とも不可解だ。秀幸氏がわざわざ那覇で新品のテープレコーダーを買い、座間味島で録音したが失敗したらしく、無音のテープが藤岡氏に送られてきたのだという。テープを送る前にちゃんと録音されているかどうか確認するのは常識だと思うが、秀幸氏はそれさえしなかったのだろうか。新品のテープレコーダーの本体を送るくらいなら、もう一度証言をとり直せばいいと思うのだが、わざわざ本体を送らなければならない理由があったのか。もしや、裁判所にテープの提出を求められたらまずい事情でもあったのだろうか。
昌子氏が一人で証言を吹きこんだのではなく、兄の秀幸氏と一緒に吹きこんだのなら、秀幸氏が質問しながら昌子氏の答えを誘導した可能性もある。『WILL』と『史』に引用されている昌子氏の証言は同一のものである。当時五歳十ヶ月だったという女の子の証言としてはかなり詳しい内容だが、昌子氏本人が一人でテープに吹きこんだ証言であるのと、秀幸氏と一緒に吹きこんだ証言であるというのでは、その信用性に大きな差が出てくる。引用された証言は、昌子氏の一人語りによる文体で書かれているが、実際には秀幸氏と昌子氏の対話形式で録音されていたのではないか。録音テープを検証すればそれは明らかになるだろうが、それをさせないため『史』に書いたような経緯を作り出したのではないか。そう疑われても仕方ないであろう。
大阪高裁に提出された昌子氏の陳述書が、本人が書いたものではなく、複雑な過程を経て藤岡氏が文書化したものであることは、藤岡氏自身の文章から明らかになった。『WILL』と『史』でこれだけ違う文章を平然と書く藤岡氏がまとめた陳述書に、どれだけの信用性があるだろうか。昌子氏の陳述書は以上のことを踏まえて読み、判断する必要がある。
もともと大江・岩波沖縄戦裁判は、靖国応援団を自称する弁護士グループや藤岡氏らが画策して起こしたものだ。「集団自決」の軍による強制という教科書記述の削除・書き換えを直接の目的とし、憲法九条の改悪や沖縄の自衛隊強化をも視野に入れた彼らの政治的策動によって、座間味島の人達は親子、親族、住民同士の関係を引っかき回され、傷つけられている。今になって自分の母親の手記を否定している秀幸氏の証言を補強するために、藤岡氏はさらに秀幸氏の妹・昌子氏も巻き込んでいる。「昌子陳述書」が大阪高裁に提出される経過を、藤岡氏は同評論で以下のように書いている。
〈壕を出た秀幸の家族の中に、当時六歳の昌子がいた。私は昌子に証言を依頼した。六歳(より正確には、当時昌子は五歳十ヶ月)の子供でも、家族の服装くらいは記憶しているかもしれないと私は期待した。実のところ、私が期待したのはそこまでだった。
ところが、驚くべきことに、昌子は、三月二十五日夜の出来事の大筋を記憶していて、証言してくれた。子供ながら、印象深い深刻な体験であったのだろう。七月十五日、昌子は自信の体験談をテープに録音し、私あてに郵送してくれた。以下はその中の主要部分を文字に起こしたものである。なお、これと同一の文書を作成し、昌子の署名と捺印を得て、のちに陳述書として裁判所に提出した〉(214ページ)。
これを読むと、裁判所に提出された昌子氏の陳述書は、昌子氏本人が書いたものではなく、昌子氏がテープに吹きこんだ証言を藤岡氏が文字に起こし、文書化したものであることが分かる。同評論ではこのあとに昌子氏の「陳述書」の一部が続いているのだが、実は引用した藤岡氏の文章には大きなまやかしがあるのである。
新しい歴史教科書をつくる会が出している『史』08年九月号に藤岡氏は、「勇気ある証言者・宮平秀幸さんと控訴審」というという文章を発表している。「新たに妹・昌子さんが当時を証言」と副題がついたこの文章には、次のような一節がある。
〈……母と息子の証言がこのように食い違うと、第三の人物の証言なしには審議は確定しない。私は宮平さんの妹・昌子さんが当時六歳だったことを思い出し、昌子さんの証言を依頼した。せめて家族で出かけたときの服装が記憶にあれば決め手になる。晴れ着を着ていたのなら、集団自決のために出かけたのだ。
私の依頼の趣旨を了解した宮平さんは七月十五日、那覇に出てテープレコーダーを購入し、座間味に昌子さんを連れ帰ってその夜に録音、テープを拙宅に送って下さった。ところが、操作を間違ったのか、全く録音されていない。伝えるのも気の毒な次第だったが、今度はテープレコーダーの本体を丸ごと送ってきた。その内蔵ICメモリーに昌子さんの声がきれいに録音されていた〉(12~13ページ)。
いやはやまったく呆れかえるというか、同じ人物が書いたとは思えないほどの違いがある。『WiLL』の文章では、藤岡氏が直接昌子氏に証言を依頼し、それに応えて昌子氏が自分で証言を録音して、テープを藤岡氏に郵送した。そのテープを文字化して藤岡氏が陳述書にしたかのように書かれている。ところが、『史』では藤岡氏が依頼したのは「宮平さん」こと秀幸氏であり、秀幸氏が昌子氏を座間味島に連れ帰って証言を取り、テープを送った。しかし、そのテープには録音されていなくて、次に送られてきたテープレコーダー本体のICメモリーに内蔵された昌子氏の証言を文字に起こしたのだという。
『史』の文章は証言の依頼、録音、発送、再発送などの過程が詳細であり、こちらの方が事実だと思うが、『WiLL』だけを読んだ人は藤岡氏にだまされたであろう。こういうまやかしを平然とやってのける藤岡氏の人格を疑う。
しかも、『史』に書かれた昌子氏の証言をとる経緯も何とも不可解だ。秀幸氏がわざわざ那覇で新品のテープレコーダーを買い、座間味島で録音したが失敗したらしく、無音のテープが藤岡氏に送られてきたのだという。テープを送る前にちゃんと録音されているかどうか確認するのは常識だと思うが、秀幸氏はそれさえしなかったのだろうか。新品のテープレコーダーの本体を送るくらいなら、もう一度証言をとり直せばいいと思うのだが、わざわざ本体を送らなければならない理由があったのか。もしや、裁判所にテープの提出を求められたらまずい事情でもあったのだろうか。
昌子氏が一人で証言を吹きこんだのではなく、兄の秀幸氏と一緒に吹きこんだのなら、秀幸氏が質問しながら昌子氏の答えを誘導した可能性もある。『WILL』と『史』に引用されている昌子氏の証言は同一のものである。当時五歳十ヶ月だったという女の子の証言としてはかなり詳しい内容だが、昌子氏本人が一人でテープに吹きこんだ証言であるのと、秀幸氏と一緒に吹きこんだ証言であるというのでは、その信用性に大きな差が出てくる。引用された証言は、昌子氏の一人語りによる文体で書かれているが、実際には秀幸氏と昌子氏の対話形式で録音されていたのではないか。録音テープを検証すればそれは明らかになるだろうが、それをさせないため『史』に書いたような経緯を作り出したのではないか。そう疑われても仕方ないであろう。
大阪高裁に提出された昌子氏の陳述書が、本人が書いたものではなく、複雑な過程を経て藤岡氏が文書化したものであることは、藤岡氏自身の文章から明らかになった。『WILL』と『史』でこれだけ違う文章を平然と書く藤岡氏がまとめた陳述書に、どれだけの信用性があるだろうか。昌子氏の陳述書は以上のことを踏まえて読み、判断する必要がある。
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta/old/136/index.html
こんにちは
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=757&file=p326-2.jpg
こちらのほうがいくらか鮮明です。
「白い帽子」ということなら、右端日光があたっているあたりが秀幸家族でしょうか?5歳ぐらいの幼女もいますね。
また、「戦争の様相」「戦闘概要」、赤松「陣中日誌」などの基礎書証ものせました。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/5.html