共同通信の依頼で大江・岩波沖縄戦裁判を傍聴しての感想を書いた。4月14/15日に沖縄タイムス、琉球新報と続けて載ったが、他府県の地方紙にも載っていくことと思う。
文中にC元少尉と書いたのは、「集団自決」の問題にある程度関心のある人ならすぐに分かると思うが、知念朝睦氏のことである。昨年の七月二七日に原告側証人として法廷に立った知念氏は、反対尋問に答えて自らが行った伊江島の女性の殺害について証言した。 その様子を傍聴席で見ていて、知念氏には罪責感がまったくと言っていいほど無いことを感じた。『沖縄県史 第十巻』には知念氏の証言が実名で載っているし、証人尋問に出て『県史』の証言をくり返すくらいだから、実名で書いてもいいかと思った。しかし、子や孫もいるだろうと配慮し、新聞に載せる文章としてはC元少尉という表現にしておいた。ちなみに『沖縄県史 第十巻』には次のような知念氏の証言が載っている。
〈伊江島の女性を私が処刑しました。伊江島の男女四人が、投降勧告文書を持って、陣地に近づき、捕えられ処刑されました。ところが、その中の女性一人が生き還って逃げてしまったのです。基地隊の西村大尉は私を呼びつけ、お前が逃がしたのだろうというので、私は非常にしゃくでした。
今度は捕えたので来てくれというので、行ってみると、女性は首を斬られて、頭がぐきりぐきりと小きざみにふるえていました。破傷風に罹っているのです。破傷風で死んだ高鳥少尉と同じ症状でした。
この女性はすっかり観念し、刀じゃなく銃でやってくれといっていました。銃は敵に向けるべきものなのですが、私は自分の短銃で殺しました〉(773ページ)
〈私がやったことは軍隊でやったことで、命令に従ってやったまでのことです。私には何もやましいものはないと信じています。渡嘉敷の戦争に関する何冊かの本の中には、私に同情的に書かれているものもありますが、「やられたのは沖縄人、やったのは日本軍」という考え方には賛成しません。
私は沖縄県人といっても赤松隊の一兵士です〉(774ページ)
証言には、殺害された女性が知念氏の顔見知りであり、伊江島住民がいた収容所に決死隊として潜り込んだ知念氏をかくまい、食事の世話をしてくれたことも語られている。『県史』の記録者に語った時は戦後二十年以上経っていると思うが、そういう女性を殺害したことへの罪の意識や後ろめたさは証言から感じられない。むしろ後半に語られている自己肯定の論理と心情は、今もまったく同じだろうというのが傍聴しての私の印象だ。
沖縄戦における日本軍の住民虐殺について書かれた文献は数多い。しかし、殺害した当事者が証言した例は限られている。ましてや、殺害の様子を元日本兵の肉声で聞く機会は滅多にないだろう。そういう意味では貴重な体験だったのだが、同時にそれは苦々しい体験でもあった。殺害の様子を淡々と語る知念氏の後ろ姿を見ながら肌寒さを覚えた。
反対尋問が終わったあと知念氏は、法定内で原告側弁護士と笑いながら握手をしていた。しかし、知念氏の証言は、一審においては原告側の意図に反する結果になっただろう。赤松隊長の口頭命令により住民虐殺が行われたことが生々しく証言されたことで、渡嘉敷島の住民が捕虜になることを許されない状況に置かれていたことや、赤松隊長が絶対的な権力を持って住民に対していたことが証明された。
一方で、原告側が狙った副官の立場からの隊長命令の否定はどうだったか。実は主尋問の冒頭でとんでもないミスを原告側は犯していたのだ。原告代理人の若手弁護士が知念氏に、〈「集団自決」で赤松隊長の命令はありましたか〉と尋問した。事前に打ち合わせや練習をやっていたはずで、当然〈ありませんでした〉という答えが返ってくるところだ。だが、知念氏は〈ありました〉と答えたのだ。法廷が凍りついたというか何というか、若手弁護士の呆気にとられた表情は見物だった。主尋問は打ち合わせ通りに進むものと思っていた私も、不意打ちを喰らったというか、思わず笑いそうになったというか、前のめりになって成り行きを注視した。若手弁護士は〈あの、よく聞いてくださいよ。赤松隊長の命令はありましたか、ありませんでしたか〉と尋問し直した。〈さー、あったと思いますよ〉という知念氏の返答に、原告側弁護団の動揺は隠しようがなかった。知念氏は八十代半ばを過ぎていて、高齢のために尋問に対応しきれていないのは明らかだった。
それから二度ばかり同じ問いをくり返して、〈ありませんでした〉という答えを引き出したのだが、そのあとも知念氏の記憶力と判断力が衰えていることが明らかなやりとりが何カ所もあった。傍聴席から見ていて、高齢者を無理に引っ張り出して証言をさせている原告側弁護団に不快感を覚え、少し知念氏が気の毒な気さえした。しかし、伊江島の住民虐殺を語る場面で、知念氏の印象が一変したのはエッセーにも書いた通りだ。伊江島の女性を「処刑」したことを淡々と語る姿は、年老いたといっても知念氏が〈赤松隊の一兵士〉であり、今も皇軍兵士の論理と心性を持って生きていることを示していた。
知念氏の証言はまた、住民の処刑という重要な問題に関しても、赤松隊長の命令は口頭で行われており、文書による命令ではなかったことを示している。それは「集団自決」の命令も口頭で行われたことを示唆している。慶良間諸島の住民たちが「軍の命令」によって「自決」「玉砕」への道を進んだと証言するとき、「軍の命令」とは島の最高指揮官である隊長の発した命令でなければ誰の命令だろうか。一審判決では、「自決命令の伝達経路等が判然」としないことをもって梅澤元隊長の命令に関して明確に認定されなかった。この部分に関してはさらに史実の掘り起こしや論理構築を進めていくことが問われている。
文中にC元少尉と書いたのは、「集団自決」の問題にある程度関心のある人ならすぐに分かると思うが、知念朝睦氏のことである。昨年の七月二七日に原告側証人として法廷に立った知念氏は、反対尋問に答えて自らが行った伊江島の女性の殺害について証言した。 その様子を傍聴席で見ていて、知念氏には罪責感がまったくと言っていいほど無いことを感じた。『沖縄県史 第十巻』には知念氏の証言が実名で載っているし、証人尋問に出て『県史』の証言をくり返すくらいだから、実名で書いてもいいかと思った。しかし、子や孫もいるだろうと配慮し、新聞に載せる文章としてはC元少尉という表現にしておいた。ちなみに『沖縄県史 第十巻』には次のような知念氏の証言が載っている。
〈伊江島の女性を私が処刑しました。伊江島の男女四人が、投降勧告文書を持って、陣地に近づき、捕えられ処刑されました。ところが、その中の女性一人が生き還って逃げてしまったのです。基地隊の西村大尉は私を呼びつけ、お前が逃がしたのだろうというので、私は非常にしゃくでした。
今度は捕えたので来てくれというので、行ってみると、女性は首を斬られて、頭がぐきりぐきりと小きざみにふるえていました。破傷風に罹っているのです。破傷風で死んだ高鳥少尉と同じ症状でした。
この女性はすっかり観念し、刀じゃなく銃でやってくれといっていました。銃は敵に向けるべきものなのですが、私は自分の短銃で殺しました〉(773ページ)
〈私がやったことは軍隊でやったことで、命令に従ってやったまでのことです。私には何もやましいものはないと信じています。渡嘉敷の戦争に関する何冊かの本の中には、私に同情的に書かれているものもありますが、「やられたのは沖縄人、やったのは日本軍」という考え方には賛成しません。
私は沖縄県人といっても赤松隊の一兵士です〉(774ページ)
証言には、殺害された女性が知念氏の顔見知りであり、伊江島住民がいた収容所に決死隊として潜り込んだ知念氏をかくまい、食事の世話をしてくれたことも語られている。『県史』の記録者に語った時は戦後二十年以上経っていると思うが、そういう女性を殺害したことへの罪の意識や後ろめたさは証言から感じられない。むしろ後半に語られている自己肯定の論理と心情は、今もまったく同じだろうというのが傍聴しての私の印象だ。
沖縄戦における日本軍の住民虐殺について書かれた文献は数多い。しかし、殺害した当事者が証言した例は限られている。ましてや、殺害の様子を元日本兵の肉声で聞く機会は滅多にないだろう。そういう意味では貴重な体験だったのだが、同時にそれは苦々しい体験でもあった。殺害の様子を淡々と語る知念氏の後ろ姿を見ながら肌寒さを覚えた。
反対尋問が終わったあと知念氏は、法定内で原告側弁護士と笑いながら握手をしていた。しかし、知念氏の証言は、一審においては原告側の意図に反する結果になっただろう。赤松隊長の口頭命令により住民虐殺が行われたことが生々しく証言されたことで、渡嘉敷島の住民が捕虜になることを許されない状況に置かれていたことや、赤松隊長が絶対的な権力を持って住民に対していたことが証明された。
一方で、原告側が狙った副官の立場からの隊長命令の否定はどうだったか。実は主尋問の冒頭でとんでもないミスを原告側は犯していたのだ。原告代理人の若手弁護士が知念氏に、〈「集団自決」で赤松隊長の命令はありましたか〉と尋問した。事前に打ち合わせや練習をやっていたはずで、当然〈ありませんでした〉という答えが返ってくるところだ。だが、知念氏は〈ありました〉と答えたのだ。法廷が凍りついたというか何というか、若手弁護士の呆気にとられた表情は見物だった。主尋問は打ち合わせ通りに進むものと思っていた私も、不意打ちを喰らったというか、思わず笑いそうになったというか、前のめりになって成り行きを注視した。若手弁護士は〈あの、よく聞いてくださいよ。赤松隊長の命令はありましたか、ありませんでしたか〉と尋問し直した。〈さー、あったと思いますよ〉という知念氏の返答に、原告側弁護団の動揺は隠しようがなかった。知念氏は八十代半ばを過ぎていて、高齢のために尋問に対応しきれていないのは明らかだった。
それから二度ばかり同じ問いをくり返して、〈ありませんでした〉という答えを引き出したのだが、そのあとも知念氏の記憶力と判断力が衰えていることが明らかなやりとりが何カ所もあった。傍聴席から見ていて、高齢者を無理に引っ張り出して証言をさせている原告側弁護団に不快感を覚え、少し知念氏が気の毒な気さえした。しかし、伊江島の住民虐殺を語る場面で、知念氏の印象が一変したのはエッセーにも書いた通りだ。伊江島の女性を「処刑」したことを淡々と語る姿は、年老いたといっても知念氏が〈赤松隊の一兵士〉であり、今も皇軍兵士の論理と心性を持って生きていることを示していた。
知念氏の証言はまた、住民の処刑という重要な問題に関しても、赤松隊長の命令は口頭で行われており、文書による命令ではなかったことを示している。それは「集団自決」の命令も口頭で行われたことを示唆している。慶良間諸島の住民たちが「軍の命令」によって「自決」「玉砕」への道を進んだと証言するとき、「軍の命令」とは島の最高指揮官である隊長の発した命令でなければ誰の命令だろうか。一審判決では、「自決命令の伝達経路等が判然」としないことをもって梅澤元隊長の命令に関して明確に認定されなかった。この部分に関してはさらに史実の掘り起こしや論理構築を進めていくことが問われている。