野村浩也編『植民者へーポストコロニアリズムという挑発』(松籟社)の書評を書き、2008年5月17日付沖縄タイムス朝刊に掲載された。以下に紹介したい。
読み応えのある八本の論考が並ぶ味クーターの一冊である。最近の書店の沖縄本コーナーは、観光客向けに作られたような、見かけは派手だが中味は薄味の本が、回転寿司のサビ抜きメニューみたいに並んでいる。そこに殴り込みをかけたアグーのラフティーといったところか。
沖縄の歴史と現状を考える上で、どの論考も刺激に富んでいる。本書を手にした「沖縄大好き」を自称する人の中には、『植民者へ』という本の題名に眉をひそめ、野村浩也氏が書いた「はじめに」や「日本人という植民者」という最初の論考を読んだだけで、その刺激に耐えられずページを閉じる人もいるかもしれない。
だが、そこで「不快」を感じるとしたら、なぜなのか。それは、これまで目を向けてこなかった沖縄と日本の関係が、赤裸々に書かれているからではないか。そう自問しながら、さらに先を読んでいけば、表向きは植民地支配が終わったかのように見える現代において、むしろより深く支配の根が沖縄に食い込み、がんじがらめにしている現実が見えてくるだろう。
日米安保体制の軍事的負担を沖縄に集中させていることだけではない。開発と貧困、増加する観光客と移住者、沖縄戦をめぐる歴史認識の問題や切り売りされる芸能・文化など、現在も続く植民地支配は、政治・経済・軍事はもとより、沖縄人、日本人の意識をも縛りつけ、支配を継続させようとしている。
その支配の根は、日本社会において「在日」や「狂気」という存在とも結びつき、取り込みと排除をくり返している。支配を見えなくする管理の技術は高度化され、抵抗を「狂気」へとすりかえ、自発的隷従へと追い込む「精神の植民地化」が進んでいる。
本書に収められた八本の論考と知念ウシ氏の対談・インタビューは、沖縄・日本において継続する植民地支配の構造を分析し、それをいかに打破していくかという実践的な構えで書かれている。本書は「知の遠近法」を楽しみ、競い合う、ただの学術書ではない。植民地支配を脱するための実用書でもある。
読み応えのある八本の論考が並ぶ味クーターの一冊である。最近の書店の沖縄本コーナーは、観光客向けに作られたような、見かけは派手だが中味は薄味の本が、回転寿司のサビ抜きメニューみたいに並んでいる。そこに殴り込みをかけたアグーのラフティーといったところか。
沖縄の歴史と現状を考える上で、どの論考も刺激に富んでいる。本書を手にした「沖縄大好き」を自称する人の中には、『植民者へ』という本の題名に眉をひそめ、野村浩也氏が書いた「はじめに」や「日本人という植民者」という最初の論考を読んだだけで、その刺激に耐えられずページを閉じる人もいるかもしれない。
だが、そこで「不快」を感じるとしたら、なぜなのか。それは、これまで目を向けてこなかった沖縄と日本の関係が、赤裸々に書かれているからではないか。そう自問しながら、さらに先を読んでいけば、表向きは植民地支配が終わったかのように見える現代において、むしろより深く支配の根が沖縄に食い込み、がんじがらめにしている現実が見えてくるだろう。
日米安保体制の軍事的負担を沖縄に集中させていることだけではない。開発と貧困、増加する観光客と移住者、沖縄戦をめぐる歴史認識の問題や切り売りされる芸能・文化など、現在も続く植民地支配は、政治・経済・軍事はもとより、沖縄人、日本人の意識をも縛りつけ、支配を継続させようとしている。
その支配の根は、日本社会において「在日」や「狂気」という存在とも結びつき、取り込みと排除をくり返している。支配を見えなくする管理の技術は高度化され、抵抗を「狂気」へとすりかえ、自発的隷従へと追い込む「精神の植民地化」が進んでいる。
本書に収められた八本の論考と知念ウシ氏の対談・インタビューは、沖縄・日本において継続する植民地支配の構造を分析し、それをいかに打破していくかという実践的な構えで書かれている。本書は「知の遠近法」を楽しみ、競い合う、ただの学術書ではない。植民地支配を脱するための実用書でもある。