鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

横堂・赤瀧・大澤神社

2021年06月02日 | 鳥海山

 先日の赤瀧は登山ガイドのAさんと一緒だったのですがそこでのいろいろの疑問を今日、蕨岡の昔を知る神職の方に伺ってきました。以下まとめたものを記しておきます。

 「御神体の赤瀧とは一つの瀧を指すのではなくソブ山を流れ落ちる瀧全体を言う。

読み上げる祝詞は横堂の小屋まで聞こえたものだ。それは良い声だった。拝殿は参拝季節が終わると解体した。大澤神社とはその拝殿を言う。ただし、横堂では箸王子神社と大澤神社を一緒に祭っていた。絵図にはいくつか拝殿があったように書かれている拝殿は一つだ。

 横堂前から右へ向かって赤滝へ降りる道は写真のもので間違いない。綱と鎖を伝って降るというのは、鎖は永久のもで、その隣に綱を一緒に下げたのだ。

 大宮、熊野田、上田などの集落には綱講というものがあり、講では綱を編んで箸王子神社で御祈祷をあげてもらいその綱を鎖の側に下げてそれを伝って拝所まで降りたのだ。そして拝殿に着くとそこまで来た証として側のソブに入り、足袋を赤く染めたのだ。その綱は大物忌神社に収めたのだ。現在吹浦の下拝殿の右奥の上に飾ってあるはずだ。

 綱講のほかに餅講というものもあり、尺五寸ほどもある餅を持ってお参りにきたものだ。

 湯ノ台からの登山道というのは後にできたものだが湯ノ台では石油が出たこともあり多くの人が入るようになった。蕨岡でも湯ノ台に杉本屋という宿を持っていた、山本坊でやっていた。

 

 横堂の小屋の水場は小屋の前から右に向かい下れば赤滝だが途中で別れてしばらく登ると大木がありそこから湧き出ている水を汲んでいたものだ。そこは赤瀧の湧き出る最初のところ。

 後にそこまで行くのが難儀だということで鳳来山のやや下からチョロチョロ湧き出る水を使うようになった。そこも神社の所有地、社地しゃじとなっている。また、横堂を抜けて西物見まで行くと、西物見の真下には梵天瀧という立派な滝がある。横堂のすぐ手前、下から上がってくる道があるがそれも蕨岡の人の開いた道だ。

 さて、山頂へ行くためにはこの横堂の小屋で山役料(入山料)を支払いお札を購入しなければならない。それを山頂で証として提示するのである。写真の小屋の左側が神官の詰め所でそこで山役料を徴収した。戦後山役料は確か三百円だったと思う。写真右手が箸王子と大澤両神社を祀るところで参拝者は真ん中の通路となっている土間に並んで御祈祷してもらった。そのころ横堂には神職が五人ほど詰めていたものだ。吹浦大物忌神社でいえば御浜参篭所にあたるものだ。たまに神職が御祈祷していると、その目を盗んで山役料を支払わずすり抜けようとするものがあり、それを見つけた神職が追いかけるということもあったなあ。

 横堂の小屋を抜けると道はやや右へ向かっているが以前はまっすぐ上っていたものだった。その道があまりに急なために右を巻く道に付け替えられたのだ。今も注意してみれば人の歩いた道はわかると思う。

 その先河原宿の手前八丁坂にも茶屋があったがそれは今の瀧の小屋のところではなくまったく八丁坂の入り口で白糸の滝を望む場所だった。雨が降るとぬかるみになるような場所で今となっては藪の中だろうし場所を見つけるのは無理だと思う。

 それにしても河原宿の小屋のなくなったのは全くもって惜しいことだ。」

 読みやすいように書いてありますが会話はすべて方言ですし普段の口調です。最後によく熊に出会わなかったものだといわれました。鳳来山、横堂周辺も訪れる人は少なく熊にとっては住みやすいところになっているようです。

 

 横堂・赤滝・大澤神社に関するいろいろな調査・報告書も一番そのことを知る人に話を聞いていなかったことがわかりました。おそらく文献だけを拠所としたのでしょう。文献だけではだめなのですね、せっかく知る人が現存しているし、また今しか直接話を聞くことが出来ないのに。私が最後の問合せ者になるかもしれません。


2 コメント

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Unknown (ひろの元気村男)
2021-06-03 09:10:20
赤瀧、大澤神社にまつわる貴重な情報を掲載してくださいましてありがとうございます。
私も中学の時だからもう50年ほど前になりますが、家族で河原宿で一泊した帰り、横堂から沢追分に下ったことがあります。そのとき鎖と奉納された綱が巻かれた大澤神社へ下りる急な山道があったのをはっきりと覚えています。父親はその時「この下には赤瀧があって綱を奉納する神社がある」と言っていました。当地区にも綱講があったようです。ちなみに最近その時のことを尋ねたら、「おれは赤瀧に下りたことはない。代参の他の方が綱を奉納しに下りていったのを、横堂で待っていた」ということでした。親父が若いころなので昭和30年前後と思われます。
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Unknown (ayasiiojisann)
2021-06-03 09:33:46
新たなる貴重な情報ありがとうございます。別途メールさせていただきましたのでそちらもご覧ください。
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