夕刻の備忘録 さんより転載です。
総選挙の年である。
二年半の鬱々たる気分を一掃し、明るい国家を取り戻す最後のチャンスである。これを逃すと次は無い。これだけの悪政を続けながら、曲がり形にも信任されたとなれば、何をしでかすか分からない。「過半数割れ」に追い込む程度ではダメなのだ。
麻生太郎のネタ話ではないが、「我々を取り巻く状況は厳しい」。どんなに好景気でも、年頭挨拶となれば、必ずこの台詞から始める経営者連中を揶揄した「掴みネタ」であるが、現状は実際に厳しい、特に政治環境に限定していえば、経済よりも厳しいと思える。
何故なら、「偏向五割、捏造三割、煽り二割で、正しいのは時報だけ」というマスコミが、常に彼等の味方をするからである―地デジになった為に、最近では時報までずれている。不況は誰の目にも明らかであるが、その責任が誰にあるかが誤魔化されている。いや犯人を捏造されているのである。
麻生内閣以降のマスコミの狂乱振りを、時系列で冷静に分析すれば、それは明らかに「犯罪行為」であることが分かるだろう。自民党を倒す為にあらん限りの策謀を巡らせ、今は民主党を護る為になけなしの知恵を出している。この期間に日本で暮らし、テレビを見て新聞を読んでいた人で、今なお「マスコミが中立公正だ」と言い張る人が居たなら、その人は何処かに致命的な欠陥のある人である。
そんな人物を上司に持つ人にはお悔やみを申し上げる。先生と呼ばねばならぬ学生諸君には同情申し上げる。親・兄弟に持つ人には、一粒の涙を贈りたい。兎にも角にも、こうした人達と係わり合いを持たねばならぬ人は不幸である。何しろ違う世界を見て、違う世界に生きているのだから。そして、自分こそ正しいと信じているのだから。
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一方で、この選挙に勝利したらどうなるか。民主党を根絶やしに出来たらどうなるか。その時は、マスコミも同時に滅びるであろう。卑怯が背広を着ているような連中である。政権与党が交代すれば、権力側に寝返るのは眼に見えている。その時こそ、本物のチャンスが訪れるのである。寝返り、媚びを売ってきた瞬間に叩き潰すのだ。油断させておいて、徹底的に潰すのだ。
それが「戦後体制からの脱却」への狼煙になる。
安倍内閣の中心テーマであった「戦後レジームからの脱却」。これを実現する本格的な闘いが始まるのである。多くの人が感じている戦後体制の矛盾といかがわしさ。そこから抜け出て「当り前の国家」「普通の国家」になる最大にして、最後かもしれぬチャンスがやってくる。
こう書くと、「憲法改正」或いは「無効」論議が始まり、再軍備の問題に繋がり、事は大きく複雑になってくる。ここでは、こうした「大きな話」は出来る限りしないことにする。何故なら、こうした問題は全て「他人に頼った話」だからである。自分の力だけでは、どうにもならない。周囲の者と議論をし、意見交換の輪を拡げていく地道な活動をも否定していうのではない。「さらに地道な活動がある」と言いたいだけだ。
それは人の「内心の問題」である。
あなたにも、私にも、今や誰の心にもある「戦後体制」の問題である。この問題さえ解決すれば、いや解決などという大きな事を言う前に、こうした見方が普通のものになれば、マスコミの問題も憲法も、何もかも動き出すのである。
その答は、少なくともその答の一端は、戦前・戦中・戦後と続く歴史の中にある。図書館に行けば、誰でも目にすることが出来る普通の資料の中にある。いやいや、そんな面倒なことをしなくてもいい。「昨日のことを今日思い出して見れば」、誰もが気付くはずである。「歴史に学ぶ」とは、簡単なことなのだ。
「そんな昔の話は知らない」と若者は言う。
ならば「昨日の話ならどうか」と持ち掛けてみる。
「東北の震災の話」は当然知っている。
「兵庫の震災の話」なら、聞いたことはあると言う。
鍵はこの辺りにある。
復旧であり復興である。
戦後、日本は復興した。
復旧のレベルを遙かに超える一大復興を成し遂げた。
しかし、本当に我々日本人は「戦後を乗り越えた」のか。
戦後を克服したのだろうか。鍵はこの辺りにあると思う。
是非一度考えて頂きたい。
憲法改正が出来ないからダメだとか、靖國参拝が叶わないからダメだとかいう話の前に、果たして我々は、戦後を克服したのか否か、社会システムの話ではなく、心の問題として考えて頂きたい。あなたは、あなたの両親は、祖父母は、本当に戦後を克服したのかと。