咲とその夫

 思いもよらず認知症になった「咲」の介護、その合間にグラウンド・ゴルフを。
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日本一の兵・・・・幸村

2010-10-13 22:01:11 | レビュー
 先日、駅の構内にある書店でちょっとうれしい雑誌を見つけて、早速購入し隅々まで読み耽っている・・・・・実に面白くて。

 雑誌名「歴史人」、今月の特集“真田幸村”と“伊達政宗”の戦国武将。サブタイトルがいい・・・・・戦国2大人気武将を徹底的に解剖。


 前者は、日本一の兵(ひのもといちのつわもの)と謳われた幸村。後者は、独眼流と呼ばれた政宗。

 真田一族大好き人間の私、知っていることが多く書かれているが、知らなかったことも多数掲載されており・・・・・いいね



日本一の兵」(抱角の兜だきづののかぶと)の幸村)


 ところで、この雑誌「歴史人」の読者や「gooランキング」武将投票などを実施して、さまざまな角度から集計整理し“人気武将総合ランキング”を算出した結果。

 1位 真田幸村  2位 伊達政宗  3位 織田信長  4位 上杉謙信  5位 石田三成・・・・・10位 徳川家康

 とのこと。

 小和田哲男静岡大学名誉教授にとっては、意外な結果であったとのこと。
 「今まで見てきたさまざまなランキングの中で、信長が1位から転落したものは初めてです。関ヶ原の負け組、すなわち真田幸村、石田三成、大谷吉継がトップ10にランクインするのも特徴的ですね」と、コメントされたらしい。

 これは近年のドラマなどの影響だろうと評価されている。また、「真田幸村は悲劇的な最期を遂げたということで、人気が高いのでしょうか。一方、伊達政宗は力のあった武将ですので上位にランクインもうなずけます。・・・・・」と、まとめられている。


 伊達政宗大好きの娘が、小学校から中学校に上がる頃、東北旅行(山形・宮城・福島)に家族で出かけ青葉城址や政宗ゆかりの地を歩いたとき・・・・・大変喜んでいた。

 我が家の戦国武将好きの娘、嫁いでいるのでゆっくり話す機会もないが、先日、娘が言うには「真田大好きな父は上田から真田の庄へ。私は仙台の伊達政宗ゆかりの地に行きたいと言って、仙台にしてもらったのでいつか真田ゆかりの地に行くといいね」と、言ってくれた。


 「そうだね、20数年前から上田方面を夢見ているが、北海道にすっかりハマッてしまったので、行く機会がなかったけど、いつかきっと行ってみたいものだね」と、戦国武将や歴史好きの娘との会話が久しぶりに弾んだ。


 さて、真田幸村であるが、この「幸村」の名前について、生きていた時代の史料にこの名前は登場することはないとのこと・・・・すべて、信繁の名前で書かれているとある。

 幸村は、第1次上田合戦勃発の際、上杉景勝の元で人質となっていたが、真田一族の一大事でもあり父の元に帰って共に戦えと・・・・・義を重んじる上杉景勝の計らい。

 真田太平記にもこの件(くだり)は、読者を引きつけるように書かれている。

 そして、関ヶ原の戦いでの第2次上田合戦では、徳川家康に呼応して上杉討伐に真田昌幸・幸村(信繁)、沼田城の兄信幸と共に出陣するが、石田三成の挙兵により犬伏で親子(父と弟、兄)は談合し敵味方となる・・・・・有名な犬伏の陣。

 このあたりも真田太平記では、詳細に記載され東軍と西軍に別れた真田一族、そして、権謀術数の父昌幸の駆け引きや戦さぶり・・・・・感動する場面も多数、いいね。



「犬伏の陣」


 関ヶ原の敗戦後、紀州九度山に配流されるまでは、幸村は昌幸の影にいて多くの戦ぶり、駆け引きを学んでいる。

 そして、関ヶ原の戦いから14年後、父昌幸は既に亡くなっているので、やっと真田幸村(信繁)が歴史の表舞台に登場。負け戦と知りながらも豊臣家に忠節を尽くし、真田の兵法を世に知らしめる大阪の役が始まる。

 この大阪冬の陣と夏の陣の戦いのみで、一躍戦国のヒーローとなった真田幸村(信繁)、敵方の武将が「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称賛しており、戦国最期の戦いを象徴している。

 なお、真田を興した祖父幸隆、大名まで上り詰めた父昌幸、明治まで家を守る礎を築いた兄信之(関ヶ原後、信幸から改名・・・徳川に気を使い)、義の元に戦い没した弟幸村(信繁)とその子大介幸昌。


 戦国の小豪族真田一族が、武田信玄没後、戦国乱世で戦いに明け暮れ権謀術数の真田昌幸とその子たちの物凄い生き様に・・・・・・感服しながら読んでいる。

 丁度、真田太平記も“大阪の夏の陣”終盤を読んでいる最中でもあり、双方から読むことができたので良かった・・・・・本当に。

 改めて、真田太平記をドラマ化してもらいたいものだ・・・・今一度、是非にも(夫)


[参 考]
 現在では「真田幸村」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め、信繁が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しない。従って実在の人物の名としては「信繁」が正しい。

 「幸村」の名が見られるようになったのは江戸時代で、寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』がその初出であると考えられる。その『難波戦記』が人気を博し、広く読まれたため「信繁」ではなく「幸村」とすることのほうが一般的となったと言えるであろう。時代が下るにつれ「幸村」の名があまりにも普遍化してしまったため、幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで「幸村」が採用されている。

 「幸」は真田家(厳密には真田家の本家にあたる海野家)の通字であり、「村」については信繁の姉の村松や、信繁の子孫が仕えた伊達家当主の伊達綱村、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとする説がある。

 「幸村」という名は信繁の死後100年以内で広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったのではないかとの推測もあるものの、現在のところ「幸村」という名が記された史料は見つかっておらず、立証されていない。



 参考資料:歴史人、真田太平記、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか



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