たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

認知症高齢者との触れ合い(5) <ユマニチュード・立つこと>を考える

2018-04-14 | 医療・介護・後見

180414 認知症高齢者との触れ合い(5) <ユマニチュード・立つこと>を考える

 

赤ちゃんが初めて立てたとき、親は言いようのない感動を覚えるでしょうね。私もそうでした。何かを発語したときもそうですね。でも人間という生物にとって立つということは、初めて他の生物にない高度な機能を発揮できる機会を得るようになるのでしょうね。人間の歴史が物語っているのでしょう。

 

ユマニチュードでは「立つことは知性の根幹」と言っています。

 

赤ちゃんが立つようになり、成長を重ね、あるとき健康を害した、あるいは高齢化の影響で、立てなくなったとき、ケアする立場の人は立つことの意味を正確に理解しておかないといけないというのです。

 

「立位は骨や関節、呼吸器、心臓などの循環器系、皮膚などに影響を与えています。」と人間の様々な機能への影響を指摘しています。

 

それぞれの器官への影響を丁寧に説明してます。申し訳ないですが、そのまま引用させてもらいます。

 

まず関節の動きをなめらかにする軟骨が取り上げられています。立ったとき膝の軟骨にどのような影響を与えるか次のように述べています。

「軟骨の80パーセントは水分です。そのため膝であれば、立ち上がると軟骨に圧力がかかり、水がギュッと押し出されます。その水はどこへ行くかというと、骨の中です。骨には栄養分が多く含まれており、そこに水が浸透していきます。かかっていた圧力が弱まると今度は水に溶けた栄養分が軟骨に吸引されます。つまり負荷がかかることによって、軟骨に栄養が行き渡るメカニズムなのです。」

 

立つ→軟骨に圧力→その中の水分が押し出される→栄養分が含まれている骨に浸透→圧力が弱まる(座る・寝る?)→水に溶けた栄養分が軟骨に吸引されるメカニズム

 

逆に立たないとか、「動くことがなければ、軟骨は栄養不足に陥ります。」

 

それでは「全身の関節に栄養を行き渡らせたい。さて、どうすればいいでしょうか?立って歩けばいいのです。わずかな時間、ほんの数歩でも立って歩くことは骨や関節に重みをかけることができ、全身の運動になります。」

 

それほど立つと言うことは体の関節一つとっても大切なことなのですね。

 

さらに立つということは、栄養分の供給だけではないというのです。

 

48時間、寝たままでいると靭帯は固まり、関節の可動範囲が狭まってきます。」この理屈もわかるような気がします。

 

「筋肉はどうでしょうか。80歳を過ぎた人が1週間動かないと、筋力は15パーセント低下し、それが3週間になると45パーセント程度低下します。筋肉を維持するには、やはり歩く必要があります。」

 

靱帯や筋肉は定期的に動かし続けていないと、機能低下するのはわかりますね。立つこと、さらに歩くことの重要性はわかります。

 

骨も大きな影響を受けることは予想できますね。

「力が加わったときにその負荷をキャッチするセンサーが骨に備わっています。圧力に応じて骨は自ら強くしようと働きます。やはり固い骨をつくろうと思うなら立って歩かなければいけません。」

 

立位が呼吸機能に影響することもわかりますね。

「寝たきりの状態になると呼吸機能は低下します。立ったり、歩いたりすると肺の容積は広がり、機能が活発になります。そうすることで肺炎のリスクを減らすことができます。」

 

肺の働きも、人間が立っていること、歩いていることを前提に、呼吸機能を十全に働かすことができるように、長い年月を経てできあがっているように思えるのです。

 

循環器系も同じですね。心臓のポンプは基本的なエンジンですが、立つことによって、また歩くことによって、血液の循環がきちんと働くようにできていると思うのです。

 

「血液は心臓によって圧力をかけられて血管を流れていきます。ただし、静脈には圧力はかかっていません。足の裏には静脈網が広がっており、立って歩くと、そこに圧力がかかります。足の裏の静脈のポンプが立って歩くことで押さえつけられ、その圧力によって血液が上がっていきます。さらに脚の筋肉の収縮運動によって下肢の血液は心臓へと環流します。つまり、血流のために立つこと、歩くことは欠かせないのです。」というのです。

 

皮膚への影響もわかりやすいですね。

「入院の大きな問題のひとつが褥瘡です。これは血の流れの停滞が原因です。歩いていれば、血液は体をちゃんと巡りますから、褥瘡はできません。」

 

歩かなくても立つだけでも違うでしょう。歩けばさらによいことは確かでしょう。皮膚にとっては褥瘡だけではないでしょうね。歩いたり、走ったりして、汗をかくのも皮膚にとってはいいでしょう。

 

逆に拘束はいけないことと明言しています。徘徊を抑える薬の服用も同様としています。これが意外にできていない介護施設が多いのではと思うのです。

 

さらに重要なことを述べています。

「人間にとって、立って歩くことは知性の要でもあります。」と。さらに「人間であることの証でもあるのです。」とも断言しています。

 

それはどういうことか。この章では明確な指摘はありません。この答えはもう少し先に考えてみたいと思います。

 

立つことについて、もう一つ違った表現をしています。

 

「人は死を迎える日まで、立つことができる」と。

 

「歩ける状態で入院しても、高齢者だと寝たきりになるのに3日から3週間で十分です。私の推測では、病院で寝たきりになっている人のうち8090パーセントは、本来なら寝たきりにならずに済んでいるはずです。」とまで言い切っています。

 

他方で、「これまでの経験から一日のうちで20分立つことができたら、寝たきりには決してならない、言い換えれば亡くなるその日まで立つ機能を保てることがわかっています。」というのですから、すごいですね。

 

たしか日野原重明氏はそれに近かったのではないでしょうか。

 

私の母親などを比較しては失礼に当たりますが、母は自宅療養ですので、ベッドで寝ていません。いまは一人で立ち上がることができませんが、つい最近まで立ち上がろうとしました。それは強い信念というか、本能のようなものでしょうか。両手で支えて、安心と思えば立ちます。それくらい立つことにこだわっていたように思うのです。

 

人間にとっては、立つこと、そして歩くことは人間性に裏付けられる本質的なことで、それができなくなると途端に、体の機能が弱っていくように思います。

 

わが家ではいくら徘徊しても、拘束や薬の服用をすることがないので、いまははいはい歩きをしながら、そして手押し車?を押して少しずつ歩くこともできるようです。本当はいつまでも立つことができ、歩くことができる状態に保つような状況をつくれればよかったのですが、それでも自分で食べることができ、耳をよく聞こえ、話もできます。私が誰かとか、記憶が遠のいていますが、それでも元気に健康であることが助かります。

 

それはいくら認知症になって、妄想や徘徊しても、拘束したり薬の服用で行動制限するような方法をとらないでいるからではないかと思っています。当然のことですが、それが介護施設に入ると、立つことができなくなるようになるのが早いように思うのです。

 

死を迎えるそのときまで、立っていられるようにと、本人はそうありたいとおもうでしょうし、ケアする人もそのつもりでその手助けをすることが必要だと、イブ&ロゼットは述べています。

 

これまでは技術的な面を中心に紹介してきましたが、明日からはもう少し精神面というか、人間性というか、触れ合いの中身について、学んでいければと思います。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


認知症高齢者との触れ合い(4) <ユマニチュード・触れるとは>を考える

2018-04-13 | 医療・介護・後見

180413 認知症高齢者との触れ合い(4) <ユマニチュード・触れるとは>を考える

 

見る、話す、そして今回は「触れる」です。触れるというのは簡単なようで、難しいですね。最近では、セクハラ行為になるリスクもありますね。とはいえ、触れるということは、人間にとって、見る・話す以上に、本質的な行為かもしれないと思っています。そしてそれが的確であれば,真の触れ合いが可能ではと思ったりします。

 

ではユマニチュードではどのような「触れる」ことが求められているのでしょう。

 

「優しさを相手に伝える触れ方」というのです。ここで優しさは心で思うだけでは足りないというか、そうではないというのです。「優しさというのは心がこもっていればいいというものではなく、物理的なものなのです。」

 

赤ちゃんに触れる、そういう触れ方です。

「技術的にいうと、広く、柔らかく、ゆっくり撫でながら包み込むように触れます。このように広範囲に触れるとやさしい触れ方になります。たとえば同じ日キロの力を使うとしても、指先で触るのと、手全体で触るのでは違います。触れる面積の違いは、単位面積あたりにかかる力の違いとなります。そして、それは相手に届く優しさの表現の違いでもあります。」

 

そして相手の体のセンシティブさを理解して、順序ややり方を考えないといけないというのです。相手の感受性をしっかり受け止めながら、対処する必要があるのでしょう。

 

「手や顔は感覚のセンサーの数が多い部位です。神経が豊富にあり、少し触れただけでも大量の情報が脳に送られます。「ちょっと触っただけなのに患者が叫び出した」といった場合、そうした敏感なところに触れてしまった可能性があります。本人にとって、「すごくたくさん触られた」という感覚になっています。つまり「触れる」と「触れられている」という事実にズレがあるかもしれないということです。」とそのずれをなくす、最小化するような繊細な注意と技能が必要なのでしょう。

 

相手のために行っている介護サービスであっても、その感受性をしっかり受け止めないと、攻撃されていると受け止められ、爪を立てられたり、叩かれたり、といった自分を守るための正当防衛行為が無意識的に行われるのかもしれません。

 

「話しかけない、瞳を合わせない、力尽くで腕を掴んで上げさせる。これは相手を罰しようとするときの行いです。」というのはまさに正鵠を射ているでしょうね。

さらに「まして女性に近づき、おむつを確認しようと脚を聞かせたらどうでしょう。そのとき相手が閉じようとしたら、それは「嫌だ」という表明です。それでも無理やり聞こうとしたら、それはレイプです。 つまり彼女にとってはオムツ交換のたびに毎回レイプされているのと同じなのです。」ここまで意識できる方はどのくらいいるでしょうか。でも私は納得させられました。

 

また「体に触れることは、脳に触れること」ともイブ&ロゼットは指摘しています。

 

このことを意識した上で、触れる順番があるというのです。

 

「相手とよい関係を築くためには、一定の手順があります。そのために知っておくべきは、最初は顔や胸、陰部といったプライベートゾーンにいきなり触れてはいけない、ということです。」

 

「それは、私たちが触れているのは皮膚ではなく、ある意味では「脳」だからです。皮膚を通じて脳が理解し、「この相手は危険なのか。それとも身を預けてもいいのか」を判断しています。」皮膚が脳神経と直結しているから、皮膚の中でもあまり敏感でないところから、挨拶をはじめて、慣れてきてから次第に触れる対象を広げていくというのです。

 

それは「実際、体の部位と脳の領域はつながっており、特に顔や手からの情報はその他の部位からの情報量もより多くの脳細胞が使われています。つまり、感覚が鋭いのです。感覚が鋭いために、馴染みのない誰かがいきなり顔を触ることに対して拒絶反応が起きるのです。一方、背中や肩は単位面積あたりの神経が少ない。つまり、顔や手に比べると鈍いのです。」とそれぞれの部位の感受性の違いを理解する必要があるのですね。

 

その上で、触れる順番は

「相手からの信頼を得るために段階を置いて触れるにあたっては、まず背中からはじめて肩、腕、腹、胸と進み、最後は手、顔というふうに進んだほうがいいのです。」ということです。

 

そして「「触れる」の3つの意味」を理解しておくことも大切です。

 

まずは「認証」です。「相手に受け入れられ、意味や喜びを分かち合う触れ方です。」

 

次は「攻撃」です。こういう受け止め方がされる触れるものがあるということです。「怒りに任せて掴んだり、ゆさぶったりするなど、相手からの同意を得ずに粗暴に扱います。」とんでもないことですが、これは触れるとは言わないかもしれませんね。私は別のところで書かれている順番を誤った触れ方、たとえば最初に顔を触れるといったことが攻撃にあたるように思うのです。

 

3つめは「必要性のある」触れ方というのです。「病院へ行けば医師に体を触れられます。触られたくない部位でそれを不快に感じても、「必要なのだ」と思えば合意はできます。」ここで、余計な話ですが、合理性のある節度を持ったものとの制約付きで賛成します。いくら医師でも、必要性があったとしても、触れ方が節度がなかったり、合理的根拠を欠いていたり(乳がんを確認する場合にでも合理性が常にあるとは限らないと思うのです)すれば、アウトでしょう。

 

必要性があっても、今度は触れる技術が求められています。

 

「まず、親指をかけて鷲掴みにしない。指先だけで触れない。」というのです。前者はすぐわかりますね。後者はたしかにそうだなと理解できます。要は「強制力を感じさせ、圧力が高くなるような、攻撃を意味する触れ方はしてはいけません。」

 

次は順番です。「ついで最も敏感ではないところから順に触れます。清拭は背中からはじめて、次に腕そして脚へと移ります。」と。

 

その上で肝心なことがあるのです。「常に触れていることです。人というのは、感覚的な関係を結んだときにそれが断絶されるのが好きではありません。ずっと継続してほしいと思うのです。」触れる側は、岩登りのときに安全を確保する三点確保ではないですが、そのような意識で触れ続けることを肝に銘じるのですね。

 

「広く、ゆっくり触ることが肝心です。」ということも大事なのですね。

 

「触れる場所を選ぶ口とにかく優しく、広く触れる。これがユマニチュードの触れ方です。」

 

この「触れる」という項目で、最後に「触れることが自由をもたらす」というタイトルがありますが、いまひとつ理解できていません。

 

「触れたら相手が喜んでいるのか痛がっているのか、わかるようになった」という話が組み込まれていますが、それ自体はわかるような気がします。ただ、このような触れることで相手の気持ちがわかるようになることが、「看護師や介護士の人たちはすごく自由に感じているのです。」ということになると、ちょっと飛躍を感じてしまいます。が、そうかもしれないとも思うのです。それが自分の行っていることに、その影響・成果を気づくことで、真の自由を得られるのかなと、今のところ思っています。ただ、実践してみないとどうでしょうね。

 

途中で仕事の電話が入り、一時間を経過しました。今日はこれでおしまい。また明日。


古墳設計とピタゴラス <大山古墳 40メートル長かった>などを読みながら

2018-04-13 | 古代を考える

180413 古墳設計とピタゴラス <大山古墳 40メートル長かった>などを読みながら

 

今朝の毎日社会面で<仁徳陵40メートル長かった 宮内庁、周濠部分を測量し判明>と大きく扱っていました。

 

考古学の世界では「大山古墳」とされていますが、仁徳陵というほうが私の世代に限らず一般受けするのでしょう。

 

それにしても全長468mとされてきたのが、今回の宮内庁による測量40mも長い、525mであることがわかったというのですから、大きな話題でしょうね。モリ・カケ問題と比較するのもなんですが、まさに事実に基づく正確な話でしょう。

 

とりあえず記事を引用します。

<宮内庁書陵部が水に覆われた周濠(しゅうごう)部分の地形を初めて測量し、判明した。>ということで、いままで周濠部分の深層部分まで測量していなかったのですね。信じられないというとまた問題になりそうです。

 

ともかく毎日記事では、従来の測量が墳丘部(水面上?に出ている部分)だけの全長にとどまり、墳丘が周濠の基底に到達している部分を測量していなかったというのですね。絵入りで紹介していますが、ほとんかいなと思ってしまいます。

 

というのは、ちょっと別の話と言えば別なんですが、土地の境界でよく問題になる一つが、石垣部分です。石垣はお城などでもそうですが、一定の角度をもっていますね。それぞれのお城特有(中にはいくつもの石垣の種類がありますが)の形状となっていて,城郭専門家の講釈がでそうな領域です。

 

その石垣の基底部というのは、外部から見える地点からはかなり下まで延びていて、つまりは土地境界で言えば、小さな石垣でも30㎝くらい張り出していて、そこが境界線となるのです。

 

元に戻って、墳丘もまた、傾斜を持ち、基底部は水面上に現れているところから、周濠の深さに応じて、その基底地盤の下まで延びていないと安定を保てないはずです。つまりは墳丘の大きさを測る場合に、基底部を考えないで測量するなんてことは正確でないというのは常識的な話ではないかと思うのですが、これはいままで考えなかったのか、あるいは墳丘は別扱いと考えてきたのか、どうでしょうね。

 

ともかく記事に戻ってみますと、

<486メートルとしている現在の全長は、大正時代の測量に基づく。>というのです。

 

そして<約1600年の月日で堆積(たいせき)したヘドロの下には、さらに墳丘が広がっている可能性もある。また3重になっている周濠のうち、一番内側だけでも、標準的な25メートルプール700杯分に当たる約34万立方メートルの水があることも分かった。>と余分な話まで提供してくれています。

 

もう一つの記事<大山古墳40メートル大きかった 築造当時、全長525メートル 宮内庁測量 周濠の水面下にも墳丘>によりますと、

 

<調査は2016年12月に実施した。宮内庁は、将来的に周濠の水を全部抜き、浸食が続く墳丘の護岸工事をする方向で検討しており、排水計画を立てるため、ボートに載せた機器から音波やレーザーを発する方法で水面下の地形を調べ、水量も計測した。水に覆われた部分にも、墳丘の裾部分が広がることを確認した。>

 

どうやら水抜き前ですので、音波やレーザー測量で、墳丘の基底部地形の位置を確認したようですね。水抜きして、改めて実測するのでしょうか。

 

ま、長さが40mも長くなったことがどういう意味を持つのか、それはこれからまた検討されるのでしょうけど、他方で、他の周濠付き古墳でも同じような問題というか、全長が延びる可能性を含んでいることが示唆されますね。

 

ところで、この40m大きかったという記事を見て、NHK「歴史への招待12」で古墳を扱った中で、古墳設計図について考古学研究家として椚国男さんが登場していたのを思い出したのです。椚(くぬぎ)さんは城郭研究家で、各地の城郭を研究されていて、八王子城趾については著作もあり、現地でいろいろ教えを受けたことがありますが、古墳まで研究していたのかと驚いたものでした。この書物では椚さんも若々しい姿ですが。

 

で椚さんが紹介しているのは「日本の巨大古墳の中にもこの四十五度、三十度、二十二・五度、十五度の角が使われているんです。」と述べられて、自作のコンパスを用意してそれを実証するのです。そしてこの古墳時代にピタゴラスの定理がわが国にも導入されて使われていた可能性を指摘するのです。面白いですね。

 

さて大山古墳の被葬者についてはどのように考えられていたのでしょうか、椚さんに伺ってみたいものです。


認知症高齢者との触れ合い(3) <ユマニチュード・話すこととは>を考える

2018-04-12 | 医療・介護・後見

180412 認知症高齢者との触れ合い(3) <ユマニチュード・話すこととは>を考える

 

今日は、午前中はメールなどで時間を使い、午後はある裁判書面を検討、作成したり、交通事故の事故解析を考えたりした後、会議で出かけて、いま事務所に帰ってきましたので、もうとっくに帰宅する時間を過ぎています。

 

30分くらいでなんとか見出しのテーマをまとめることができればと思っています。ほんとはゆっくり丁寧に問題を見つめ考えることこそ、ここで求められているのだと思いつつ、なかなか人間の行動は思うようにならないものです。

 

さて、ユマニチュード第2の柱、「話す」については、「話す理由は、言語情報を伝えるためだけではない」とイブ&ロゼットは述べています。

 

ここでイブ&ロゼットは何を意図しているのでしょうか。赤ちゃんに話しかける場合を想定したり、あるいはけんかをするときのことを取り上げたりしています。

 

それぞれ話しかけ方が違いますね。でもここで問題にするのは「最も残酷なのは相手を無視することです。」というのです。そしてその状況は「認知症高齢者が置かれているのも同じ状況です。」というのです。

 

介護の現場では、まじめに黙々と多種多様な多くの介護サービスの作業を行っているでしょう。そのとき少なからず、相手に話しかけないまま行っていることがあるように思うのです。

 

これに対し、イブ&ロゼットは「相手に話しかけないのはなぜなのでしょう。」と本質的な問いかけをしています。

 

ここでイブ&ロゼットは「認知症の人との関係性は、このようなものです。「よく眠れましたか?」と聞いても反応はありません。そうなると、こちらは話しかけなくなります。エネルギーがなくなってしまったからです。」と話しても反応がないため、触れ合いによるエネルギーが切れてしまうと言うのです。

 

ここでイブ&ロゼットは赤ちゃんを例に出します。「たとえ問いかけへの答えが返ってこなくても、私たちは赤ちゃんには話しかけます。何もわからないということはわかっているけれども、それでも話しかけ続けます。」でも赤ちゃんと認知症高齢者とは違いますと誰もが思いますね。

 

ここでそれに応じた技術が必要だというのです。「沈黙のケアの現場に言葉をあふれさせるための技術「オートフィードバック」」です。ひらめいたのが手だということです。「自分の手が何をしているかを言葉で表現しようということでした。」つまり、手の動きとそれを表現する言葉です。

 

具体的にはまず、相手の反応の有無を確認することから始めるのです。

「まずは質問します。そのときに返事がないか、意図した反応や答えが返ってこないときは、オートフィードバックをはじめます。

 

では「オートフィードバック」はどのようにしておこなうのでしょう。

「言葉ではなく、私の手が語ります。「いまから背中を洗いますよ」とか、「いま、右腕を触っています」といった内容です。自分のすることを実況中継のようにしゃべるのは、独り言のように見えます。けれども、この行為は相手がいないと成立しません。相手に行うことを言葉にするのですから、私と相手とのあいだで起きているコミュニケーションなのです。」

 

「このようにしていけば、沈黙することなく言葉を発し続けることで、ケアの場に言葉をあふれさせることができます。」この言葉をあふれさせることが大事なのですね。

 

ただ、この「オートフィードバック」にはふたつの原則があるというのです。

「まず最初に、まったく反応をしない人であっても、自分で動くように依頼します。たとえば、「腕を上げてください」と言って3秒待ちます。これを「老年医学の待ち時間」と、私は呼んでいます。脳が反応するまでの時間は平均して3秒ぐらい必要だからです。」

 

勝手に動かないと判断せず、まずは自分で動いてもらうように頼むのですね。そして3秒待つことが大事なのですね。

 

その後も手順がしっかりあるのです。

これを2回繰り返すのです。それでも反応がないと、違う表現を試すのですね。

「今度は、「私の頬を触ってください」「天井のほうに手を上げください」と言葉を換えてみます。」

 

それでもだめなら、今度は次の段階に入るのだと思います。自分から動くのです。

「「これから腕を洗いますね」と予告し、「腕を上げます。左腕からです。 手の甲から洗いますね」とケアを行う手の動きを実況していきます。」と。

 

この実況中継のような語りこそ、工夫・技術がいりそうです。

「実況は、認知症高齢者の感情記憶に働きかけるようなポジティブな言葉で手の動きを表

現します。」

 

それは次のように流れるように、細やかに、感情を込めてなんですね。

「腕を上げてください」「ほっペたを触ってみてください」「私があなたの腕を優しく上げせっけんてみます」「肩を撫でています。気持ちがいいですね」「では、石鹸を取ります」「お湯をかけますね。お湯って気持ちがいいでしょう」「今度はタオルで拭いて乾かしますね」

 

こんなことまで言葉をかけている人がいるでしょうか。私も母親にでも話しかけるのはためらいます。

 

でも反応が現れてくるのだそうです。すぐに現れる人もいれば、一年以上かかる人もいるようですが。でもその原因は解明されていないのだそうです。

 

「確かなことは、最初に出会ったときとまったく眼差しが違ってきたことです。空虚だった瞳に光が宿り、生き生きとしています。反応がないからといって聞こえていないわけではなかったのです。この技術を使うことで、あなたを大切に思っている、というメッセージをケアのあいだ中ずっと伝え続けることができ、そのメッセージに相手が反応してくれたのです。」

 

この技術はきちんとした訓練を受けないと身につけられないというのです。そうでしょうね。ここで書いていても、この言葉を使っても、それでできるほど、簡単なら、認知症高齢者の多くが話しかけても反応するようになるでしょう。

 

でも話すということの奥深さの一面を知ることができただけでもいいです。いつかこの研修を受けたいとも思うのです。

 

今日は30分の駆け込みでしたが、おしまいです。また明日。


認知症高齢者との触れ合い(2) <ユマニチュード・見ることとは>を考える

2018-04-11 | 医療・介護・後見

180411 認知症高齢者との触れ合い(2) <ユマニチュード・見ることとは>を考える

 

今日、ある老健に私が後見人を担当している方を訪ねて出かけてきました。この方は認知症ですが、ある程度のことは理解できます。といって私がどの程度この方を理解できているか、いつも会うたびに気になっています。

 

それでも最初に目を合わして挨拶すると、にっこりしてくれるので、私のことはだいたいわかってくれているのだろうなと思って、一安心です。いま私はユマニチュードを学びながら、この方と接したり、たまに実家に帰ったときに母親に接していこうかと思っています。

 

で、今日はまず、ユマニチュードの一つの柱、「見る」ということを丁寧に学んでいこうかと思っています。

 

イブ&ロゼット(『「ユマニチュード」という革命』の著者であり、実践者です、略称で呼ばせてもらいます)は、見るということを、なぜ見ることが重要で、見るとはどういうことかなど、多面的に解説しています。

 

見ることについて、端的な解説では「水平の視線は相手に平等な関係性を伝える。また、正面からしっかり見ることで正直さが伝わる。近くから、水平に、正面から、長いあいだ、瞳と瞳を合わせるという見方が、ポジティブさ、愛情を表現する。」という風に技術的な、また哲学的な意義づけをしています。

 

ここでは「見ることは愛の表現」であることを強調されているように思います。その見るとは、垂直から視線ではなく、水平の視線であることとしています。それは、ベッドの上から、車いすの上から、テーブルいすの上からの垂直の目線ではいけないというのです。あなたと私は平等の関係ですという表現方法だというのです。何かをしてあげるとかではないのです。認知症高齢者の人間性、尊厳を尊重し、その自由意思を大事にすることを、この目線を通じて、見ることを通じて表すというのです。

 

その見る目線の角度を意識して、水平に保ち、平等の関係性を理解してもらうのです。その上で、正面からじっと見るというのです。

 

イブ&ロゼットは、「瞳を合わせて正面からしっかり見たとき、正直だということを示しています。自分が大好きだ、大切だ、と思う人には、近くから長いあいだ見つめています。」

 

ま、自分の母親でもこれはなかなか難しいかもしれません。ましてや他人に対してとなるとどうでしょう。でも気持ちはなんとなくわかります。

 

その時間まで言及しています。「アイコンタクトはユマニチュードでは05秒以上必要だと考えています。」と。ま、0.5秒ならなんとかできるでしょうか。

 

その理由もあるのです。「これは相手に見られていることを自分が認識するのに必要な時間です。」と。そうなのです。多くの認知症高齢者は、自宅介護でも、デイケアでも、介護施設でも、しっかり自分を見てもらっていないと思うのです。介護施設職員などに話を聞くと、多くの施設利用者に対して介護サービスのメニューが決まっていて、その作業をすることで大変で、一人に時間をかけていると、ほかの人が待ってくれないというか迷惑を受けると感じているようです。おむつを替えるときは下肢を中心に、口腔ケアをするときは口周辺を見るだけで、精一杯なのかもしれません。それは介護職だけでなく、医療関係者も同じでしょう。

 

それでは介護を受ける人を見る、人間として見ることにはつながらないというのです。

 

イブ&ロゼットはきっぱりと「見ないとは、「あなたは存在しない」と告げること」と断言しています。

 

とくに認知症高齢者のなかで、暴言を吐いたり、暴力を振るったりする人がいたりすると、見ることを怠ってしまうのが自然の意識かもしれません。

 

イブ&ロゼットは「特に、非常に攻撃的な認知症高齢者を相手にするような厳しい状況では、ケアをする人は相手の瞳を見つめることはありません。入浴のケアでも視線を合わせようとはしません。それどころか無意識のうちに爪先立ちになり、体を伸ばして「上から目線」にしようとしているのです。相手の攻撃性に対して、自然とそのような姿勢を取ってしまっています。」と指摘します。

 

そしてそういう高齢者は実は攻撃しているのではない、防御しているのだというのです。これは驚きですが、なんとなく同感します。

 

「ケアを受ける高齢者は長年瞳を合わせられていません。「あなたは大切だ。価値ある人だ」と言われていないのと同じです。裸にされても、なお瞳を合わせられていないのです。こういう攻撃的なケアをされたと感じた体験が感情記憶に残るのですから、ケアを受ける側も攻撃的になります。しかし、それは攻撃ではなく、自分を守っているだけなのです。」

 

だからこそ、上記に述べたような方法で、また気持ちを投入して見ることが不可欠なのですね。「私は何者で、眼前の人は誰なのか。私たちの関係はどういうものか。」という問いかけをしながら見ることで、初めて両者の絆が生まれ、触れ合いがようやくできるといえるのではと思うのです。そして本当の触れ合いはさらなるステップが必要です。

 

それはまた明日。