人気ブログ『内田樹の研究室』(内田先生はご存知、神戸女学院の教授。フランスの哲学者であるレヴィナスを師と仰ぐ方です)より。
「まず隗より始めよ」という5月13日付けの日記に、かなり同感した部分を引用。
私が二十代の終わり頃に「カタギ」の世界に戻ろうと決意したとき自戒としたのは「気をつけよう、暗い言葉と甘い道」という標語であった。
この「暗い言葉」って、わかるわ~~!!(私なりに、だけど)
20歳前後には、難しくて、いかにも深くてかっこよくさえ思えた「暗い言葉」。いまでは撥水加工がほどこされた製品のように、「ええい、うっとおしい」と、表面ではじかなければならないものとなった。
私に一番届くのは、実はとっても悲惨な内容をあくまでライトに述べられている時。これは「暗い言葉好き」な人には届かないかもしれないけれど、2回転くらいして重みを増し、表面的な軽みとは裏腹に、実はずどんと心に響いたりする。
一見軽薄なオトコが、実はものすごい苦労人だったり、不幸な過去を背負っていたりするという、乙女には胸キュンな少女漫画の常套手段キャラみたいだけど、わかっててもこれにはやられちゃいます。
ゲラゲラわらいながら見たコメディが、後々まで「あれはああかな、いやこうかも?」と延々と考えたりするときだってあるし。
ドキュメンタリーだって暗く深刻に造ってあるものより、むしろ淡々と、ときには笑うような場面さえあるものの方が、インパクトがあったりする。
現実に「暗くて真面目で深刻で」という状況は、当たり前にある。そこから目を背けるのでなく、むしろどうやってそこを歩き続け、できることなら好転させるか?を考える時、「暗くて真面目で深刻」なままでは現状を打破できない。結論の出ないずるずるした会議のように。袋小路にゆきまどってしまうのだ。
ところで、いい職場とは、「そこで働く人たち自身が楽しんでいる場所であり、まず何より笑いの絶えないところ」と、会社をリードする方たちが口を揃えていうのを最近読んだ。それに似ている。前進するためには、無理矢理でも嘘でも、明るい方を向かなければ。
一歩でも二歩でも前進するには、なるべく「暗い」に足をとられぬことを、日常的な注意事項としている。仕事であろうが、家庭であろうが。
「まず隗より始めよ」という5月13日付けの日記に、かなり同感した部分を引用。
私が二十代の終わり頃に「カタギ」の世界に戻ろうと決意したとき自戒としたのは「気をつけよう、暗い言葉と甘い道」という標語であった。
この「暗い言葉」って、わかるわ~~!!(私なりに、だけど)
20歳前後には、難しくて、いかにも深くてかっこよくさえ思えた「暗い言葉」。いまでは撥水加工がほどこされた製品のように、「ええい、うっとおしい」と、表面ではじかなければならないものとなった。
私に一番届くのは、実はとっても悲惨な内容をあくまでライトに述べられている時。これは「暗い言葉好き」な人には届かないかもしれないけれど、2回転くらいして重みを増し、表面的な軽みとは裏腹に、実はずどんと心に響いたりする。
一見軽薄なオトコが、実はものすごい苦労人だったり、不幸な過去を背負っていたりするという、乙女には胸キュンな少女漫画の常套手段キャラみたいだけど、わかっててもこれにはやられちゃいます。
ゲラゲラわらいながら見たコメディが、後々まで「あれはああかな、いやこうかも?」と延々と考えたりするときだってあるし。
ドキュメンタリーだって暗く深刻に造ってあるものより、むしろ淡々と、ときには笑うような場面さえあるものの方が、インパクトがあったりする。
現実に「暗くて真面目で深刻で」という状況は、当たり前にある。そこから目を背けるのでなく、むしろどうやってそこを歩き続け、できることなら好転させるか?を考える時、「暗くて真面目で深刻」なままでは現状を打破できない。結論の出ないずるずるした会議のように。袋小路にゆきまどってしまうのだ。
ところで、いい職場とは、「そこで働く人たち自身が楽しんでいる場所であり、まず何より笑いの絶えないところ」と、会社をリードする方たちが口を揃えていうのを最近読んだ。それに似ている。前進するためには、無理矢理でも嘘でも、明るい方を向かなければ。
一歩でも二歩でも前進するには、なるべく「暗い」に足をとられぬことを、日常的な注意事項としている。仕事であろうが、家庭であろうが。
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