紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

許せないからこそ。

2008-07-13 23:32:20 | ノンジャンル
 秋葉原の事件に限らず、加害者が被害者については「誰でもよかった」というような「無差別殺人」については、その事件の性格上、事件については歯をくいしばって口にせず、それ(犯人や犯罪)とは真逆のベクトルに「自分がなんらかの行動」をすることでしか、こんな社会や事態を反転させられないのではないか、と思っていた。

 それをどう言えばいいのかは、わからなかったけれど、本日の内田樹先生の憂い溢れる文章に、私の思いと繋がるものがあったので、もしよければお読みください。
以下が一部引用です。

彼が秋葉原で人を殺したのは、人を殺すことを目的としてではない。(無差別殺人というのは、「殺すことが目的ではない」ということである)。
そうではなくて、「この殺人はいったい何を意味しているのでしょうか?」という問いを人々が立てることである。
つまり、「この殺人はいったい何を意味しているのでしょうか?」という問いを立てた人々は自動的に「事後従犯」となるように犯行は構成されているのである。
私はそれを「悪魔的」なものだと思う。
その「悪魔性」は犯人に内在するものではなくて、私たちの社会そのものが分泌している、ということが私をいっそう気鬱にさせる。


 『私たちの社会そのものが分泌している』! そのことがなにより恐ろしい。 

 たとえば、病気の本として以前はよく借りられていた「糖尿病」や「高血圧」や「がん」に並ぶかそれ以上に「うつ」や精神疾患の本の需要が目につく。「悪魔的なもの」は犯罪以外でも、人を精神的に痛めつけているという事例は、いたるところにある。

 だからこそ、その暗い思いを相殺できるベクトルを探して、身直な社会(人)に対して自分にできることをして行かなくては、と思うワケです。「(仕事を通して、もしくは人とのささやかな交流を通して)社会(人)に貢献する」ということは、なにより自分のためなのだと、最近つくづく身に染みます。

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