紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

『ちりとてちん』最終回

2008-04-01 11:04:19 | テレビ
 私が昨日までの職場で働き出した頃は「女も経済力を持たなくちゃ」「仕事はやめちゃだめ」的な風潮が、わりかし女社会に漂っていた。

 そんな頃の私の疑問は「じゃ、私の母(=一度も「お勤め」をしたことのない専業主婦、のようなもの)の評価はどうなるんだろう?」ということで、まだ20代(後半とはいえ)だったこともあり、激しく悩んでいた。

 私自身の気持としては「ぜんぜん問題無し」だったのだけれど、もしかして私自身がどっか間違ってるのか?というところで壁に突き当たっていたのだ。

 で、『ちりとてちん』の喜代美の「おかあちゃんみたいになりたい」発言で、実にシンプルな答えが出された。「一生懸命自分の人生をちゃんと歩いて、自分自身の価値観で見つけた『なりたいもの』になればいい」(経済活動に参加するかどうかは無関係に)。 何てシンプルな答え。でも意外と見落とされがち。

 「おおきくなったら何になるか?」というのは、オトナになるまで、いやなってからも、実に切実な自分自身への問いなのだ。華やかだから、金儲けできる、有名になりたい、贅沢ができる、ラク出来る、と様々な理由で「なりたいもの」を決めたり、単純に「好きなので」(できることなら)なりたいものを夢見たりする。そしていつまでも見つけられないと、焦り始めたりする。でも、きっと「一生懸命いきてさえいれば、なりたいものになれる」のだ。なぜなら答えは自分自身の中にしかないから。

 ちょっと夢みたいな遠い職業(社長夫人も含む)に憧れたりして(妄想シーンのあれこれ)、身近にいる「おかあちゃん」の素晴らしさに、なかなか気付くことができなかった喜代美。他人は直ぐわかるんだけどね、おかあちゃんとしてでなく第3者が見た「糸子」さんは、大人気だったし(ドラマの中でも視聴者も)。

 仕事に没頭していても(奈津子さん、後のA子=清海ちゃんなど)、自営で働いていても(魚屋食堂のひとたち、咲ちゃん、菊枝さん)、主に主婦でも(糸子さん、後の喜代美)どんな立場もOK。ただし、「いやいや」「ムリムリ」はバツになる、「それじゃ人生幸せではないし、もったいない」という理由で。けれど今の世の中そうじゃない人の方が、やむを得ない理由もあり断然多いはず。

 自分さえ納得ずくなら「なりたいものになれる」。ひとりで「最後の高座」宣言をした喜代美を皆が反対するのだけど、そのときの喜代美は私には初めて見るような態度を示した。「えっ?」「あの、えっと」「ほやかて」「どないしょ」というのが口癖でいつもグラグラだった彼女が、全く動じなかったのだ。視聴者の反感買うくらいにね(笑)

 一方、彼女の夫、草々は、最終回で「そない落語好きやったら、やめへんかったらええのに」「冗談や」と妻に語りかけた。これは「別にずーっと『おかあちゃん』してなあかんていうこともないんやで。また気が変わったら、いつでも落語家に戻りや」という寛容で自由な職業(人生)観を示したような気がする。

 それと、この結末には、ものすごーいアイロニーも含まれているのだ。

 はたして現在なんの不安なく、経済活動に参加しないで「おかあちゃん」がやれる社会なのか? その前にあかちゃんが産める社会なのか? 子どもが産まれて手放しで喜べるような社会なのか? 子どもにとって幸福な社会なのか? というのも、反語として問われているような気が。ほら、古典の時間に習った「これは◯●なのだろうか?いや、◯●ではない」みたいなね。

 落語の世界を置き換えたドラマは、「こういう世界も『あり』なんだよ!」というイッツ・ワンダフル・ワールドを提示してくれた。

 『ちりとてちん』は理想と夢を語るドラマだったのかもしれない。ときに理想や夢を語ることは、鼻であしらわれることが多いが、このドラマでどれだけの人たちが、勇気と生きる力と感情とつながりを取り戻したか。高度なテクニックを持って、理想や夢を語ることの素晴らしさを、まざまざと見せていただいた思いだ。『ちりとてちん』に関わった全ての方々に感謝したい気持。

 さあ、次はみなさんの出番だよ、と鹿がしゃべる空耳が聴こえるようである。 

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4 コメント

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Unknown (れんくみ)
2008-04-02 11:02:34
夜の2チャンネルが最近とても楽しいことになっているので、ときどき思い出したように拝見しています。爆笑問題の討論番組とか。
昨晩は、好きな茂木さんの番組『プロフェッショナル・仕事の流儀』の中村勇吾さんバージョンを見ていました。感性のすばらしいウェブデザイナーです。東大の建築科を卒業したものの、建築の世界で超劣等生だったそうで、紆余曲折を経て趣味のWEBの世界で花開いた方です。『なりたいものは自分自身の中にあり、それは向こうからやって来る』っていうのが、紙魚子さんのブログそのものでした。そしてその考えは、とても私の生き方と通じる所があり、息子と二人そのすばらしいインタラクティブな画面と、ものすごく重い口から発せられる、重いひとこと噛み締めるように聞いていました。息子もこれから来る新しい未来について、すごく感じる所があったみたいです。『心地いいものをつくる・・そのための苦悩と苦労はすればするだけその心地よさに比例する』ってのもわかる気がしました。
どんな仕事でも、それがやりたい事であれば、苦労を惜しまないでいれば、向こうから近づいて来るってのが、みんなを勇気づけ、これからの時代を盛り上げてくれる、大きな力になると思いました。
そんな、若い大きな力、女性(主婦ももちろんそうです)の底力を『盛り下げる』原材料になっているのが、社会の規制・経済の規制ですね。
大きなひとしごと終えた中村勇吾さんが、満たされた笑顔でカップラーメンをすすってる姿が、印象的でした。
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Unknown (紙魚子)
2008-04-02 13:49:22
上記の文章は練れてはいないけど、思いは詰まっているので、うまく伝わってくれたらいいな、とあまり凝らずに検索にひっかかりやすいタイトルをつけてみました。もくろみ通り100アクセス越えました(笑)

 表面的にみたら、表面的にみればがっかりかもしれないけど、決してがっかりな結末ではないと私には思えたので、そこのところをどうしてもね。

 そんなプロフェッショナルな方と同じことを言っていたなんて・・・いや、実は私じゃ無くてそう言ってたのは喜代美ちゃんのおじいちゃんで、そもそもは脚本家の藤本有紀さんですよね。

 「自分の中にあるもの」ってすぐ手が届きそうなんだけど、実はかなり苦労したり回り道したりしないと見えて来ない部分もあって。逆にいえば「自分の中にしかない」から、代用できないんですよね。

 そこがとても難しいけど、親はそれに関しては何もできないので、人間としてのベースだけはつくってあげて、彼らが「自分の中にある宝」を発見できるよう信じたり、祈ったり、応援したりするしかないですよね。「○○のなりたいものに、なれる!」と。
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Unknown (brary)
2008-04-03 06:37:48
私も紙魚子さんの受け取り方に賛同します。
「男女共同参画」みたいなことがいつもうつろでいる中で、藤本さんの視点は本当に新しかった。

「ちりとてちん」のメッセージは、生き方の価値観があまりにもわかりやすいステレオタイプで描かれることへのアンチテーゼであったように思います。
喜代美だけでなく、ここに出てくる人たちの誰ひとりとして、順風満帆な人生を送った人はいません。みんながそれぞれ、何かをめざしたり、何をめざしたらいいのかわからなかったりする中で、挫折を繰り返してゆく。正典も小次郎も、あの秀臣や順ちゃんですらそうでした。

そして誰かがそのように、自分の中にあるものを避けてしまおうとするとき、誰かがそのことに気づく。

朝の連続テレビ小説は、女子の生き方というものを常にテーマにしてきたので、女子の職業観がシナリオを形作ってきたと思います。しかし「ちりとて」は、これをはじめて個人に相対化したのではないか。

「ちりとて」の中に、専業主婦は糸子しかでてきません。しかし、彼女を誰よりも評価している姑の小梅が手に職を持つ人であったことも重要です。何が「あり」なのかは、仮想の世の中が決めるのではなく、現実の世の中が決める。それは、実は落語がもっている価値観そのものなのではないかとも思ったのでした。
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Unknown (紙魚子)
2008-04-03 10:16:00
う~ん、私の舌足らずな感想に同意していただけ、おまけにコメント欄にはもったいないような素晴らしい「ちりとて評」を読ませていただき、大感激です。
 
 私は落語については全くの素人なので、直感と憶測でしか書けませんでしたが、やはり落語世界の価値観が反映されていたのですね。改めて落語の価値観の凄さを感じました。

 どきどきするような鋭いご指摘が満載の「ちりとて評」ありがとうございました!こんな素晴らしい「ちりとて評」を読めて幸せです!
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