よしながふみの『あのひととここだけのおしゃべり』での三浦しをんさんとの対談で、『少女マンガの文法・少年マンガの文法』という一章がある。
これに『SLUM DUNK』は中に少女マンガの文法がある、というよしながさんの言葉があり、なるほど!!と膝を打つ。それはこんな風に続く。
「すぐに過去の話をやるんですよ。キャラの過去の話をやったら、みんなそのキャラを好きになっちゃうにきまっているじゃないですか(笑)。井上先生のギャグの文法もちょっと少女マンガ的でフキダシの外に描いてあるちっちゃい字が面白かったりするんです。やり取りとか楽屋オチみたいなところも少女マンガ的ギャグ」
なるほどー!! だからあんなに面白かったのかー。『バカボンド』は読めなかったけど、『SLUM DUNK』は一気読みだったもんなあ。ちなみに『SLUM DUNK』は友だちに貸してもらって読んだが、小学生だったお兄ちゃんTくんと奪い合うようにして激しく読んだ。『SLUM DUNK』をちらりと見ていた観察力のスルドイ幼児のKちゃんは、人物を描く時、顔からしずくを10個以上垂らした汗だくの人物をよく描いていた(笑) このように我が家では、子どもたちの糧??ともなったマンガである。
ちなみに『ONE PIECE』はかなり高度な少年マンガの文法が使われているので、マンガ読みの三浦さんにして、読み解くのに時間がかかり、なおかつ理解するのが難しいそうである。ちなみに、よしながさんの意見では「それってもしかして『ドラゴンボール』の洗礼を受けていないからでは(この二つのマンガは技法が同じなので)?」ということでした。
あと私がBSの『マンガ夜話』とかで、少女マンガが俎上にあがるとき、なんだかとても後味悪い思いをしていたのを思い出したのが、三浦しをんさんの以下の発言。
「私は一時インテリみたいな男の人が、24年組を語るのが、ホントに腹立たしかったんですよ。しかも彼らはちゃんと読めてないんですよ!」
そうだったのかー、あれは「わかっていない発言」だったから、「ええ??」という割り切れない気持ちで見終えたのかー、とやっと符に落ちた。
それから、よしなが発言でヒットした言葉が
「BLが、今の男女のあり方に無意識的でも居心地の悪さを感じている人が読むものである」というところ。これに三浦発言「でもそうした居心地の悪さも、非常に個人的なものなので、同じように読んでいる人が同じ所に居心地の悪さを感じているのかわからないんです。」が続く。
よしながふみさんは、母親に子どものときから「女は社会にでたら不利だから」「自分の思うとおりの人生を歩むためにはどうするのか(例えば好きな人が経済的に貧しくても結婚するためにはどうするか?」)というのをとことん教え込まれていたので、それへの対処法(「手に職を持つ」とか「女の身体を持っていることへの早い時期からの受容=あきらめ」とか)を子どもながらに考えつつ成長されたので、対談相手の方々よりずっとはやく「大人の女として」生きて来られたように思う。当然「女らしくあるべき」というプレッシャーが比較的なかったわけで、一般の少女たちが思春期に戸惑ったりつまづいたりするところをすっ飛ばしてこられたように思える。
若くして社会の有り様を学習されていたので、男社会のからくりや、女性に待ち受ける落とし穴もどうも予知(笑)されていたらしい。
その分、理解出来ない(自分は女だから男に付き従うみたいな)友だちの言葉を、仔細な観察や理解したいという努力によってわかるという人である。つまり一般人のダブルの分量の、かなり厚みのある人間理解ができるという、表現者にとっては、なかなか貴重な人生を歩まれている。やんわり批判はするけど相手の立場も理解できるし、相手を思いやる婉曲表現もできる。であるので、三浦さんより、さらに一枚ウワテのようにみえる(その分臆病というかストレートに出て行けない部分はあるのだけれど)。そこがよしながさんのすごいところでは?
二回読んで、より理解できる『あのひととここだけのおしゃべり』。三回読んだら、どんなことになるのか? おそるべし、よしながふみ。
これに『SLUM DUNK』は中に少女マンガの文法がある、というよしながさんの言葉があり、なるほど!!と膝を打つ。それはこんな風に続く。
「すぐに過去の話をやるんですよ。キャラの過去の話をやったら、みんなそのキャラを好きになっちゃうにきまっているじゃないですか(笑)。井上先生のギャグの文法もちょっと少女マンガ的でフキダシの外に描いてあるちっちゃい字が面白かったりするんです。やり取りとか楽屋オチみたいなところも少女マンガ的ギャグ」
なるほどー!! だからあんなに面白かったのかー。『バカボンド』は読めなかったけど、『SLUM DUNK』は一気読みだったもんなあ。ちなみに『SLUM DUNK』は友だちに貸してもらって読んだが、小学生だったお兄ちゃんTくんと奪い合うようにして激しく読んだ。『SLUM DUNK』をちらりと見ていた観察力のスルドイ幼児のKちゃんは、人物を描く時、顔からしずくを10個以上垂らした汗だくの人物をよく描いていた(笑) このように我が家では、子どもたちの糧??ともなったマンガである。
ちなみに『ONE PIECE』はかなり高度な少年マンガの文法が使われているので、マンガ読みの三浦さんにして、読み解くのに時間がかかり、なおかつ理解するのが難しいそうである。ちなみに、よしながさんの意見では「それってもしかして『ドラゴンボール』の洗礼を受けていないからでは(この二つのマンガは技法が同じなので)?」ということでした。
あと私がBSの『マンガ夜話』とかで、少女マンガが俎上にあがるとき、なんだかとても後味悪い思いをしていたのを思い出したのが、三浦しをんさんの以下の発言。
「私は一時インテリみたいな男の人が、24年組を語るのが、ホントに腹立たしかったんですよ。しかも彼らはちゃんと読めてないんですよ!」
そうだったのかー、あれは「わかっていない発言」だったから、「ええ??」という割り切れない気持ちで見終えたのかー、とやっと符に落ちた。
それから、よしなが発言でヒットした言葉が
「BLが、今の男女のあり方に無意識的でも居心地の悪さを感じている人が読むものである」というところ。これに三浦発言「でもそうした居心地の悪さも、非常に個人的なものなので、同じように読んでいる人が同じ所に居心地の悪さを感じているのかわからないんです。」が続く。
よしながふみさんは、母親に子どものときから「女は社会にでたら不利だから」「自分の思うとおりの人生を歩むためにはどうするのか(例えば好きな人が経済的に貧しくても結婚するためにはどうするか?」)というのをとことん教え込まれていたので、それへの対処法(「手に職を持つ」とか「女の身体を持っていることへの早い時期からの受容=あきらめ」とか)を子どもながらに考えつつ成長されたので、対談相手の方々よりずっとはやく「大人の女として」生きて来られたように思う。当然「女らしくあるべき」というプレッシャーが比較的なかったわけで、一般の少女たちが思春期に戸惑ったりつまづいたりするところをすっ飛ばしてこられたように思える。
若くして社会の有り様を学習されていたので、男社会のからくりや、女性に待ち受ける落とし穴もどうも予知(笑)されていたらしい。
その分、理解出来ない(自分は女だから男に付き従うみたいな)友だちの言葉を、仔細な観察や理解したいという努力によってわかるという人である。つまり一般人のダブルの分量の、かなり厚みのある人間理解ができるという、表現者にとっては、なかなか貴重な人生を歩まれている。やんわり批判はするけど相手の立場も理解できるし、相手を思いやる婉曲表現もできる。であるので、三浦さんより、さらに一枚ウワテのようにみえる(その分臆病というかストレートに出て行けない部分はあるのだけれど)。そこがよしながさんのすごいところでは?
二回読んで、より理解できる『あのひととここだけのおしゃべり』。三回読んだら、どんなことになるのか? おそるべし、よしながふみ。
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