「貧困問題について考えたことはあるか?」
・・・と言われても、ほとんどの人にとってどーでもいい話でしかない。
かくいうわたしにとってもそれはだいたい当てはまる。
アフリカの最貧国で感染症で死ぬ子供の話を聞けばかわいそうだとは思うが、それだけだ。
日本でも生活がカツカツで毎月の給料日の前の日に全財産使い切る人の話を聞けばかわいそうだとは思うが、それだけだ。
それだけだ、以上にはどうしてもならない。
しかし。
全く関心がないわけではない。
なぜか?
「貧困層のほうへ行かないようにするにはどうすればいいのか?」
・・・と言われたらどうだい?
わたしが貧困問題について興味がある部分はそこなのだ。
アフリカの貧困問題と日本の貧困問題は状況が異なる。
日本では感染症で死ぬ子供を助けなければならないほど衛生状態が悪いわけでもないし、
餓死する子供を助けなければならないほど食に困っているわけでもない。
日本における貧困問題とは、常に所得の問題である。
最近ちょっとづつ調べてみて1つの仮説がたった。
それは・・・
「現在利益と将来利益を見比べて、どっちにどれだけ重みづけするかどうか」
ということなんじゃないかと思い始めてきた。
たとえば街角で募金しているヤツらのセリフを聞いてみよう。
「アフリカではマラリアにかかって死ぬ子供が1日あたり○人います!
その命を救うためのワクチンはたったの○円で買えます!
ぜひあなたも募金して命を助けましょう!」
と。
これは正しいのか?
嘘ではない。
しかし大変重大なことを言っていない。
それは・・・
ボランティアがマラリアの予防接種キャンプを開いても、受けに来るやつらは少数派だということだ。
冷静に考えれば、マラリアにかかった後に事後的に対処しようとすると、予防接種の1000倍のコストがかかる。
しかし予防接種をしようとしない。
なぜか?
いろんな人がいろんなことを言っている。
わたしが読んだ本の1つにもこの問題を取り上げているものがある。
わたしの見解では、これはめんどくさいからだ。
いかに少額とはいえ、予防接種にはお金がかかる。
たとえボランティアによりタダでできたとしても、そこまで行くのがめんどくさい。
今日支払う(手間もふくめた)コストは確実に発生する。
マラリアにかかったとき支払うコストはその1000倍。
しかし今日やらずに明日やったとしても1000倍のコストがかかるわけではない。
「だったら明日でもいいや」
となる。
明日になったらなったでまた同じことになる。
これは
「最貧国の親は無学で無知だから予防接種の価値をわかっていない!」
とかたづけていいものか?
いや違う。
だいたい我輩だってインフルエンザの予防接種を受けていない。
会社から補助金が出たこともあるが、でもやらない。
なぜか?
インフルエンザにかかって苦しむかもしれない不確実な将来コストよりも、予防接種に行くのがめんどくさいという現在コストのほうが重要であって、
なおかつわたしは比較的健康なこともあってインフルエンザにかかっても高確率で大して苦しみやしないと高をくくっているからに他ならない。
だから、
現在利益と将来利益を見比べて本当のコストよりも現在利益のほうを優先したからそういう結論になるのだ。
日本の貧困問題について考えてみる。
わたしが見たかぎり、貧困層の人は平均を上回るめんどくさがりである。
何かをして現状を変えようという気力がないように見える人がチラホラ。
それは、今からがんばって勉強するなり何なりして何かを得られるかもしれない将来利益よりも、今めんどくさいからやらないという現在利益のほうが勝つからだ。
たとえばわたしの場合。
電験二種を取ったときのこと。
強電関連の職業についているわけではないので、電験二種は人に見せびらかして自慢するくらいの将来価値しかない。
しかし分野が電気なだけに受験生平均を大幅に上回る適正があると考えていたので、それを取るための現在コストはかなり低いと見積もった。
わたしが受かったときは一次×二次での合格率が2%だったにもかかわらず一発合格できたという意味において、この見積もりは正しかった。
宅建を取ったときのこと。
副業で不動産やっているので防御のために宅建はあったほうがいいという意味で将来価値は期待できた。
しかし法律関連の適正は自分にはないと考えていたので、現在コストは人一倍かかると考えていたし、受かった今でも実際そのとおりだったと感じたが、現在コストを払った分は十分ペイすると考えている。
英語。
わたしは嫌いなことは可能な限り避けてとおるタチであり、嫌いなことの筆頭は英語である。
だから上司がやれというのに英語の勉強は全くやっていないし、恐らくこれからもそうだと思われる。
それはなぜかというと、英語の勉強が大変苦痛であり、現在コストが耐えがたいほど高く、にもかかわらずそれをペイするだけの将来利益のビジョンがあいまいだからだ。
わたしは英語ができないと仕事がないような未来が来ると貧困層に落ちるやもしれぬ。
そうなると将来価値を過少に見積もりすぎたと悔やむことになろう。
貧困層の人はどうか?
「俺の人生なんかつまらんなー」
「どーせやったって(ry」
と言ってる感じがする。
これは現在コストを払って何かをしようという発想が無いからだと思われる。
本来的には、いろんなことにたくさん挑戦して、たくさん失敗して、でもそのうちの何かで現在コストをペイすれば、それでいい。
あとで
「あれは大失敗だったなー、はっはっはー」
とでも笑って流せる人生が最高だろう。
わたしの好きな言葉。
「人生はリセットできる。何度でもコンティニューして立ち上がるのだ!」
これはファミ通の広告にあったキャッチコピーだ。
本記事の趣旨に翻訳するならば、
「将来価値を過少に見積もりすぎるな! それは感情が判断した値より高い! 将来価値が現在コストを上回るものは今からでもやれ!」
とでもいうところだろうか。
たとえ最終的にうまくいかない結果になったとはいえ、気に入らない職場を辞めて専門学校に入り直すことで自分の人生をリセットしコンティニューして立ち上がろうとする、某氏のそのバイタリティーには敬意を表する。
じゃあ我輩はこれから何をしよう?
将来価値が現在コストを上回る目先の目標にすげるモノは何か?
・・・むしろそれがもっと大きな課題かもしれないんだがね。
・・・と言われても、ほとんどの人にとってどーでもいい話でしかない。
かくいうわたしにとってもそれはだいたい当てはまる。
アフリカの最貧国で感染症で死ぬ子供の話を聞けばかわいそうだとは思うが、それだけだ。
日本でも生活がカツカツで毎月の給料日の前の日に全財産使い切る人の話を聞けばかわいそうだとは思うが、それだけだ。
それだけだ、以上にはどうしてもならない。
しかし。
全く関心がないわけではない。
なぜか?
「貧困層のほうへ行かないようにするにはどうすればいいのか?」
・・・と言われたらどうだい?
わたしが貧困問題について興味がある部分はそこなのだ。
アフリカの貧困問題と日本の貧困問題は状況が異なる。
日本では感染症で死ぬ子供を助けなければならないほど衛生状態が悪いわけでもないし、
餓死する子供を助けなければならないほど食に困っているわけでもない。
日本における貧困問題とは、常に所得の問題である。
最近ちょっとづつ調べてみて1つの仮説がたった。
それは・・・
「現在利益と将来利益を見比べて、どっちにどれだけ重みづけするかどうか」
ということなんじゃないかと思い始めてきた。
たとえば街角で募金しているヤツらのセリフを聞いてみよう。
「アフリカではマラリアにかかって死ぬ子供が1日あたり○人います!
その命を救うためのワクチンはたったの○円で買えます!
ぜひあなたも募金して命を助けましょう!」
と。
これは正しいのか?
嘘ではない。
しかし大変重大なことを言っていない。
それは・・・
ボランティアがマラリアの予防接種キャンプを開いても、受けに来るやつらは少数派だということだ。
冷静に考えれば、マラリアにかかった後に事後的に対処しようとすると、予防接種の1000倍のコストがかかる。
しかし予防接種をしようとしない。
なぜか?
いろんな人がいろんなことを言っている。
わたしが読んだ本の1つにもこの問題を取り上げているものがある。
わたしの見解では、これはめんどくさいからだ。
いかに少額とはいえ、予防接種にはお金がかかる。
たとえボランティアによりタダでできたとしても、そこまで行くのがめんどくさい。
今日支払う(手間もふくめた)コストは確実に発生する。
マラリアにかかったとき支払うコストはその1000倍。
しかし今日やらずに明日やったとしても1000倍のコストがかかるわけではない。
「だったら明日でもいいや」
となる。
明日になったらなったでまた同じことになる。
これは
「最貧国の親は無学で無知だから予防接種の価値をわかっていない!」
とかたづけていいものか?
いや違う。
だいたい我輩だってインフルエンザの予防接種を受けていない。
会社から補助金が出たこともあるが、でもやらない。
なぜか?
インフルエンザにかかって苦しむかもしれない不確実な将来コストよりも、予防接種に行くのがめんどくさいという現在コストのほうが重要であって、
なおかつわたしは比較的健康なこともあってインフルエンザにかかっても高確率で大して苦しみやしないと高をくくっているからに他ならない。
だから、
現在利益と将来利益を見比べて本当のコストよりも現在利益のほうを優先したからそういう結論になるのだ。
日本の貧困問題について考えてみる。
わたしが見たかぎり、貧困層の人は平均を上回るめんどくさがりである。
何かをして現状を変えようという気力がないように見える人がチラホラ。
それは、今からがんばって勉強するなり何なりして何かを得られるかもしれない将来利益よりも、今めんどくさいからやらないという現在利益のほうが勝つからだ。
たとえばわたしの場合。
電験二種を取ったときのこと。
強電関連の職業についているわけではないので、電験二種は人に見せびらかして自慢するくらいの将来価値しかない。
しかし分野が電気なだけに受験生平均を大幅に上回る適正があると考えていたので、それを取るための現在コストはかなり低いと見積もった。
わたしが受かったときは一次×二次での合格率が2%だったにもかかわらず一発合格できたという意味において、この見積もりは正しかった。
宅建を取ったときのこと。
副業で不動産やっているので防御のために宅建はあったほうがいいという意味で将来価値は期待できた。
しかし法律関連の適正は自分にはないと考えていたので、現在コストは人一倍かかると考えていたし、受かった今でも実際そのとおりだったと感じたが、現在コストを払った分は十分ペイすると考えている。
英語。
わたしは嫌いなことは可能な限り避けてとおるタチであり、嫌いなことの筆頭は英語である。
だから上司がやれというのに英語の勉強は全くやっていないし、恐らくこれからもそうだと思われる。
それはなぜかというと、英語の勉強が大変苦痛であり、現在コストが耐えがたいほど高く、にもかかわらずそれをペイするだけの将来利益のビジョンがあいまいだからだ。
わたしは英語ができないと仕事がないような未来が来ると貧困層に落ちるやもしれぬ。
そうなると将来価値を過少に見積もりすぎたと悔やむことになろう。
貧困層の人はどうか?
「俺の人生なんかつまらんなー」
「どーせやったって(ry」
と言ってる感じがする。
これは現在コストを払って何かをしようという発想が無いからだと思われる。
本来的には、いろんなことにたくさん挑戦して、たくさん失敗して、でもそのうちの何かで現在コストをペイすれば、それでいい。
あとで
「あれは大失敗だったなー、はっはっはー」
とでも笑って流せる人生が最高だろう。
わたしの好きな言葉。
「人生はリセットできる。何度でもコンティニューして立ち上がるのだ!」
これはファミ通の広告にあったキャッチコピーだ。
本記事の趣旨に翻訳するならば、
「将来価値を過少に見積もりすぎるな! それは感情が判断した値より高い! 将来価値が現在コストを上回るものは今からでもやれ!」
とでもいうところだろうか。
たとえ最終的にうまくいかない結果になったとはいえ、気に入らない職場を辞めて専門学校に入り直すことで自分の人生をリセットしコンティニューして立ち上がろうとする、某氏のそのバイタリティーには敬意を表する。
じゃあ我輩はこれから何をしよう?
将来価値が現在コストを上回る目先の目標にすげるモノは何か?
・・・むしろそれがもっと大きな課題かもしれないんだがね。