貧困とは何か?
この問いにはいくつかの模範解答が用意されている。
もし日本国憲法の精神から解釈するならば「健康で文化的な最低限度の生活を送れない人」となるかもしれない。
たしか古い判例では、何日かに1回くらいは新聞を買える程度の所得は健康で文化的な最低限度の生活であるということになっていたのがあった。
世界なんとか機関的なところは「1日あたり1ドル以下で暮らす人」などと定義しているところがある。
この定義であることを示すために、あえて絶対的貧困ということもある。
(購買力平価で規定したり1年あたりで規定したりと、いくつかビミョーに違うものも見たことがある)
それとは別に、相対的貧困というのもある。
「可処分所得の平均値の半分以下の世帯」というのが相対的貧困の定義である。
この定義にしたがえば、貧困を根絶するのはほぼ不可能といって差し支えない。
これはどうなのか?
たとえばアメリカの貧困層の生活を取材したようなドキュメンタリーでも見ると、おもしろいことがわかる。
TV的にテンプレなアメリカの貧困層というと、居住地域はデトロイト、ホームレスで道ばたに寝ていてめっちゃヒマそう、食べるものは教会の炊き出しの施し、最終学歴はハイスクール中退、黒人のジジイかティーンで産んだシングルマザー、そんなところだろう。
これは
「アメリカは大変なのねー」
なんて煎餅でもかじりながら主婦がヒマつぶしに見るたぐいの内容である。
実はそうではないものもある。
わりかしきれいな戸建住宅に住んでいて、自家用車を所有し、両親と子供というちゃんとした世帯で、朝食はふつうにコーンフレークみたいなのを食っており、世帯主には定職があり、それでも貧困層だというのもある。
これ見たら
「おまえどこが貧困層なんだよwww 俺の大学時代のほうがよっぽど貧困層じゃねえかwww」
と言いたくなるようなヤツだ。
では貧困とはどう定義すればいい?
・・・と、その前にだな。
そもそも貧困とはどういう状態なのかというのを説明したい。
貧困とは所得の問題であることがほとんどであるが事はカンタンではない。
たとえばAさんは貧困にあえいでいるので満足にカロリーを摂取できておらず、そのせいで比較的かせぎのよい建設作業員や農作業員などの力仕事につくことができずにおり、どうしても食事が不十分で、カロリーの摂取が・・・という状況である。
このAさんを貧困から救うにはどうすればいいか?
お金を渡して
「これで腹いっぱいメシ食ってこい!」
と言えばいいだろうか?
実はこれではダメらしい。
お金を渡したらどうなるかというとだな。
もっと高価でうまい飯を買って食べてしまい、摂取カロリーは増えなかったのだとか。
それとは別に同じく貧困にあえいでいるBさん。
Bさんも満足にカロリーを摂取できていないのだが、Bさん宅には液晶TVもあればディスクプレーヤーもあるという生活のご様子。
別のCさん。
Cさんは場所代や果物代を日割りで借金して路上で売る零細商店主である。
そのCさんが貧困から脱出するには、自分の屋台を持ち、借金せずに仕入れをを行えることであるが、Cさんにお金をわたした瞬間に家で使い込んでお金は消えてなくなっていたという。
「どういうことだってばよwww」
と誰でも思うだろう。
実はこの事例は↓この本に買いてあったことだ。
貧乏人の経済学―もういちど貧困問題を根っこから考える
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784622076513
どうしてこうなる?
これもこの本のテーマの1つである。
いくつか解釈があるが、その1つを紹介するとだな。
貧乏人は、いったん所得が下がる方向に動くともっとん所得が下がる方向に行くという悪循環を自分で作ってしまいやすい。(貧困のS次カーブと表現していた)
↓
どうして悪循環になってしまうかというと、毎日の生活ですごいストレスを受けているので、目の前に消費できるものがあったとしたら、それを将来のためにガマンして取っておくということがすごく難しくなるからだ。
↓
だから援助はムダになってしまいやすい。
とまあ、こんな説明だ。
この状況を最も端的に描いているのはカイジの地下チンチロではなかろうか。
帝愛王国の地下土木作業でくたくたに疲れたところに目の前にビールと焼き鳥があれば、どうしてもその誘惑に勝てない、あれだ。
ここでようやく「貧困とはどう定義すればいい?」という話に入る。
貧困とは「人間が心に生来持っている何かが理性的な損得勘定に基づいた判断を狂わせるほどに日々の生活に高負荷がかかっており、それは所得が人なみにありさえすれば解決できるものであること」と定義してみたらどうだろう。
実は先の本の例よりもっとひどいのを読んだことがある。
Dさんたちの村には井戸がなかった。
毎日すごく遠いところにまで水をくむに通っていた。
それを見た日本人ボランティアはかわいそうに思い、日本で募金をあつめたお金で井戸を掘った。
女子供では井戸の底から水をくむのが大変だろうと思い、ポンプまで設置した。
Dさんたちは大喜びした。
ボランティアは「私はいいことをしたわ」と満足して帰った。
しばらくしてボランティアが村を訪ねた。
ポンプが無かった。
「ポンプはどこへいったんだ?」
Dさんに聞いたところ、
「ポンプは売ったよ」
と返ってきた。
「そのお金はどこへ?」
と聞いたところ、
「もう使っちゃったから残ってないよ」
と返ってきた。
「井戸はちゃんと使えてるの?」
と聞いたところ、
「使ってない」
と返ってきた。
「水はどうしてるの?」
と聞いたところ、
「前みたいに遠くの川まで通ってるよ」
と返ってきた。
ボランティアは絶望して岐路についた。
これはカイジの地下チンチロそのまんまだと思わないだろうか?
先の「人間が心に生来持っている何かが理性的な損得勘定に基づいた判断を狂わせる」とはそういう状況のことだ。
もしDさんに我々と同じだけの所得があり、
「うげー、今日も水くみうぜー」
と思うくらいしか日々の生活の不自由がなかったとしたら、こんなことにはなっていない。
わたしでいうと、この定義にしたがえば中学校時代は間違いなく貧困だった。
直接的にはお金がなかったわけではない。
親の庇護下で暮らしていたので金銭的に貧困だったわけではない。
しかし今にしてみれば精神的には非常に追い詰められていた。
一生そこで暮らさないといけなかったとしたら、恐らくわたしは殺人事件を犯していただろう。
自分が殺人事件を起こしそうな生活というのは、どんだけ理性を欠くほど日々の生活に高負荷がかかっているかをふつうの人は想像できまい。
しかし!
これは自分が1人で生きていけるほど(親にではなく)自分自身に所得があればカンタンに解決する。
貧困とは、広義にはそういう状況なのだろうとわたしは思っている。
最近はやりのピケティの著作「21世紀の資本」でも貧困にトラップされるリクツが書かれている。
しかしその本は、超裕福層がますます裕福になり、中流以下が貧乏になる、そのリクツが書かれているだけだ。
ピケティは超裕福層と中流以下の断絶の壁を書いたが、中流と貧困層の間にも断絶の壁はある。
しかしそれは経済学の問題ではなく、人間の行動分析の問題、ひょっとしたら心理学の分野なのかもしれない。
ちょっと前にわたしは、貧困問題とは現在コストと将来価値を天秤にかけられるかどうかだと言った。
しかし「なぜ人は貧困層に落ちると天秤にかけたら答えは明らかなことに反するアホな行動をするのか?」ということのほうが本質な気がしてきた。
たとえばわたしでいうと、中学校で殺人を犯しかねないほどだったというのはこれ以上ないほどアホなことの典型だろう。
だがその疑問に対する考察はまだできていない。
この問いにはいくつかの模範解答が用意されている。
もし日本国憲法の精神から解釈するならば「健康で文化的な最低限度の生活を送れない人」となるかもしれない。
たしか古い判例では、何日かに1回くらいは新聞を買える程度の所得は健康で文化的な最低限度の生活であるということになっていたのがあった。
世界なんとか機関的なところは「1日あたり1ドル以下で暮らす人」などと定義しているところがある。
この定義であることを示すために、あえて絶対的貧困ということもある。
(購買力平価で規定したり1年あたりで規定したりと、いくつかビミョーに違うものも見たことがある)
それとは別に、相対的貧困というのもある。
「可処分所得の平均値の半分以下の世帯」というのが相対的貧困の定義である。
この定義にしたがえば、貧困を根絶するのはほぼ不可能といって差し支えない。
これはどうなのか?
たとえばアメリカの貧困層の生活を取材したようなドキュメンタリーでも見ると、おもしろいことがわかる。
TV的にテンプレなアメリカの貧困層というと、居住地域はデトロイト、ホームレスで道ばたに寝ていてめっちゃヒマそう、食べるものは教会の炊き出しの施し、最終学歴はハイスクール中退、黒人のジジイかティーンで産んだシングルマザー、そんなところだろう。
これは
「アメリカは大変なのねー」
なんて煎餅でもかじりながら主婦がヒマつぶしに見るたぐいの内容である。
実はそうではないものもある。
わりかしきれいな戸建住宅に住んでいて、自家用車を所有し、両親と子供というちゃんとした世帯で、朝食はふつうにコーンフレークみたいなのを食っており、世帯主には定職があり、それでも貧困層だというのもある。
これ見たら
「おまえどこが貧困層なんだよwww 俺の大学時代のほうがよっぽど貧困層じゃねえかwww」
と言いたくなるようなヤツだ。
では貧困とはどう定義すればいい?
・・・と、その前にだな。
そもそも貧困とはどういう状態なのかというのを説明したい。
貧困とは所得の問題であることがほとんどであるが事はカンタンではない。
たとえばAさんは貧困にあえいでいるので満足にカロリーを摂取できておらず、そのせいで比較的かせぎのよい建設作業員や農作業員などの力仕事につくことができずにおり、どうしても食事が不十分で、カロリーの摂取が・・・という状況である。
このAさんを貧困から救うにはどうすればいいか?
お金を渡して
「これで腹いっぱいメシ食ってこい!」
と言えばいいだろうか?
実はこれではダメらしい。
お金を渡したらどうなるかというとだな。
もっと高価でうまい飯を買って食べてしまい、摂取カロリーは増えなかったのだとか。
それとは別に同じく貧困にあえいでいるBさん。
Bさんも満足にカロリーを摂取できていないのだが、Bさん宅には液晶TVもあればディスクプレーヤーもあるという生活のご様子。
別のCさん。
Cさんは場所代や果物代を日割りで借金して路上で売る零細商店主である。
そのCさんが貧困から脱出するには、自分の屋台を持ち、借金せずに仕入れをを行えることであるが、Cさんにお金をわたした瞬間に家で使い込んでお金は消えてなくなっていたという。
「どういうことだってばよwww」
と誰でも思うだろう。
実はこの事例は↓この本に買いてあったことだ。
貧乏人の経済学―もういちど貧困問題を根っこから考える
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784622076513
どうしてこうなる?
これもこの本のテーマの1つである。
いくつか解釈があるが、その1つを紹介するとだな。
貧乏人は、いったん所得が下がる方向に動くともっとん所得が下がる方向に行くという悪循環を自分で作ってしまいやすい。(貧困のS次カーブと表現していた)
↓
どうして悪循環になってしまうかというと、毎日の生活ですごいストレスを受けているので、目の前に消費できるものがあったとしたら、それを将来のためにガマンして取っておくということがすごく難しくなるからだ。
↓
だから援助はムダになってしまいやすい。
とまあ、こんな説明だ。
この状況を最も端的に描いているのはカイジの地下チンチロではなかろうか。
帝愛王国の地下土木作業でくたくたに疲れたところに目の前にビールと焼き鳥があれば、どうしてもその誘惑に勝てない、あれだ。
ここでようやく「貧困とはどう定義すればいい?」という話に入る。
貧困とは「人間が心に生来持っている何かが理性的な損得勘定に基づいた判断を狂わせるほどに日々の生活に高負荷がかかっており、それは所得が人なみにありさえすれば解決できるものであること」と定義してみたらどうだろう。
実は先の本の例よりもっとひどいのを読んだことがある。
Dさんたちの村には井戸がなかった。
毎日すごく遠いところにまで水をくむに通っていた。
それを見た日本人ボランティアはかわいそうに思い、日本で募金をあつめたお金で井戸を掘った。
女子供では井戸の底から水をくむのが大変だろうと思い、ポンプまで設置した。
Dさんたちは大喜びした。
ボランティアは「私はいいことをしたわ」と満足して帰った。
しばらくしてボランティアが村を訪ねた。
ポンプが無かった。
「ポンプはどこへいったんだ?」
Dさんに聞いたところ、
「ポンプは売ったよ」
と返ってきた。
「そのお金はどこへ?」
と聞いたところ、
「もう使っちゃったから残ってないよ」
と返ってきた。
「井戸はちゃんと使えてるの?」
と聞いたところ、
「使ってない」
と返ってきた。
「水はどうしてるの?」
と聞いたところ、
「前みたいに遠くの川まで通ってるよ」
と返ってきた。
ボランティアは絶望して岐路についた。
これはカイジの地下チンチロそのまんまだと思わないだろうか?
先の「人間が心に生来持っている何かが理性的な損得勘定に基づいた判断を狂わせる」とはそういう状況のことだ。
もしDさんに我々と同じだけの所得があり、
「うげー、今日も水くみうぜー」
と思うくらいしか日々の生活の不自由がなかったとしたら、こんなことにはなっていない。
わたしでいうと、この定義にしたがえば中学校時代は間違いなく貧困だった。
直接的にはお金がなかったわけではない。
親の庇護下で暮らしていたので金銭的に貧困だったわけではない。
しかし今にしてみれば精神的には非常に追い詰められていた。
一生そこで暮らさないといけなかったとしたら、恐らくわたしは殺人事件を犯していただろう。
自分が殺人事件を起こしそうな生活というのは、どんだけ理性を欠くほど日々の生活に高負荷がかかっているかをふつうの人は想像できまい。
しかし!
これは自分が1人で生きていけるほど(親にではなく)自分自身に所得があればカンタンに解決する。
貧困とは、広義にはそういう状況なのだろうとわたしは思っている。
最近はやりのピケティの著作「21世紀の資本」でも貧困にトラップされるリクツが書かれている。
しかしその本は、超裕福層がますます裕福になり、中流以下が貧乏になる、そのリクツが書かれているだけだ。
ピケティは超裕福層と中流以下の断絶の壁を書いたが、中流と貧困層の間にも断絶の壁はある。
しかしそれは経済学の問題ではなく、人間の行動分析の問題、ひょっとしたら心理学の分野なのかもしれない。
ちょっと前にわたしは、貧困問題とは現在コストと将来価値を天秤にかけられるかどうかだと言った。
しかし「なぜ人は貧困層に落ちると天秤にかけたら答えは明らかなことに反するアホな行動をするのか?」ということのほうが本質な気がしてきた。
たとえばわたしでいうと、中学校で殺人を犯しかねないほどだったというのはこれ以上ないほどアホなことの典型だろう。
だがその疑問に対する考察はまだできていない。