先週の日曜のことだが、お台場痛車天国2018に行ってきた。
なかなか思いもよらぬことを思ったので書いていきたい。
そもそもなぜ人は痛車にするのか?
それは、愛ゆえに、である。
みずからの内に秘めた愛情を何らかの形で表現したいからだ。
ある人は、たとえばキャラの動画を作ってニコニコに上げることでそれを表現する。
またある人は、それがたまたま痛車の形をとったというだけのことだ。
それに意味があるのか?
彼らは、それの意味を理解できない人とはそもそも分かち合いたいと思っていない。
したがってそれを問う事そのものが自己矛盾していることに気付いてほしいところだ。
痛車に乗ること、それはロックな生き方である。
他人の目線などクソくらえ。
俺様は俺様の目指す道へ突き進む。
課長になったからそろそろマークX……、いつかは部長になったらレクサスを……、などとしか考えられない旧世代の遺物に対する全く新しい美学。
これがロックな生き方と言わず何と呼ぼうか!
……とまあ、こんなことを思っていただけだが。
実際にこれだけの物量の痛車を見たのは今回が初めてになるのだが。
実際見ないとわからないことがいくつかあった。
まず1つめ。
実はだな。
痛車ばっかりこれだけいると、逆に痛車であることが目立たないという本末転倒な事態に陥る。
痛車はだいたいやたらパステルカラーでカラフルなのだが、まわり全員がパステルカラーでカラフルだと全く目立たない。
ところがどっこい。
ベース車体のモノトーンの塗装が映えるようにシックに決めた車はその中でやたらカッコよく見える。
これするのは単なる痛車よりもっと難易度が高いかもしれん。
ただキャラのシールを貼りつけたら痛車化するというのではなく、そこではカラーコーディネートに対する美的感覚が問われるからだ。
2つめ。
ゲーム画面のキャプチャをそのまま使うのは実はあんがい難しい。
なぜなら。
痛車くらいのスケールにひっぱると、画素数が少なすぎてアラが目立つからだ。
もちろん多くの痛車オーナーはその問題に気がついている。
1つの解決策として、アラが目立たないギリギリのスケールまでに拡大を制限した絵を手前に配置し、
そのバックにボカシを入れてアラが目立たないようにした最大寸法のキャラを配置、
写真の世界でよく使われる技法を取り入れて解決している人も多くいた。
こればっかりは先人の工夫を直に見てみないとわからんからなぁ。
3つめ。
この手の催し物はたいがい見物客のほうが圧倒的に多い。
コミケをイメージしてもらえれば当然かと思われるが。
しかし。
お台場痛車天国では人間は車と同じくらいなんじゃないかというほど空いていた。
つまりこの催し物は、人の痛車を見に行くものではなく、人に自分の痛車を見せびらかしに行くものだったということだ。
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