DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

ヒマラヤで眠る友に寄せて- 4

2013-04-14 14:03:26 | 物語


4.峠を越えて

翌朝、1995年元旦である。

門田がこの日のためにバンコックから仕入れておいてくれたお餅で雑煮を作る。

少々だが日本酒もある。

門田の心づくしのもてなしに、熊谷は言葉を失ってしまった。

ゆっくりとした新年の朝食を食べてからシーカに向けて出発する。

逆コースでジョムソンへ向かう藤村たちとタトパニで別れて、河を渡り、標高差800mの急な坂道をひたすら登りつめる。

足元に、タトパニの町が小さくなっていく。

ポーターと門田はどんどん先に行くが、運動不足の熊谷にはつらい登りだった。

12時10分に峠を越えて、13時13分にはガラの村に着く。

ここで1時間ほどの昼食。

14時20分に出発して、大理石を無造作に並べた石段の山道を登っていく。



家畜の糞にまみれた石段を一歩一歩踏みしめながら、この辺には石といったら大理石しかないのか、と思ってしまう。

ものの価値も場所によって違うのだなと、熊谷は感心した。

世界一高価な山道を今、二人は黙々と登っていた。

15時25分、シーカの村に着く。

この村は、川喜田二郎氏らが協力して地域開発を行なっている村で、門田の友人も多い。



そんなネパール人の家に二人は泊めてもらった。

このようなネパールの山奥の村に、日本からボランティアで援助に来ている人もいるのだ。

ランタンの薄明かりの中で、現地の青年と熱心に話をしている門田の横顔を見ていると、日本人も捨てたものではないなという感情が湧いてくる。

ここにも山歩会魂が生きているのだ。

1月2日、昨夜の夜更かしがたたって、10時にシーカを出発。

このあたりの棚田は美しい。

どうやってあんな高台に田んぼを作ったのだろう。

11時16分、チトレィ着。

次第にシャクナゲの密林に入る。

直径1mもある大きなシャクナゲの林をひたすら登りつめると2874mのゴレパニ峠に着く。

13時05分である。

瀟洒なロッジが立ち並ぶこの峠は、日本のアルプス銀座のようににぎやかだ。



俗化した景色に耐えかねて、早々に昼食を取ると14時に出発する。

相変わらず続くシャクナゲの密林は、盗賊が出ることでも有名である。

途中、門田は、アンナプルナ山群へトレッキングに行って行方不明になった日本人女性の話をしてくれた。

彼は、家族に頼まれて捜索へ行ったという。

トレッカーがあまり行かないカリガンダキと違って、簡単にアクセスできるアンナプルナのトレッキングは、盗賊の稼ぎ場所なのかもしれない。

15時35分、バンタンティ着。

少し休んで16時05分に宿泊予定のウレリィに着く。

トレッキング最後の夜を、門田と熊谷は酒を飲みながら語り明かした。

「熊さん、今度、インドの先端から北極海まで踏破しません。中央アジアの東西の踏破は多いけど、南北の探検は、ほとんどやっていないから。」

そう、門田は熱っぽく語った。

「インドを北上して、ネパールへ入って、ムスタンからチベットを越え、モンゴルからシベリア、北極海へ。」

「えーなー、で、何をすんねん。」

「なんでもえーやないすか。僕が森林を調べるし、熊さんが湖を調べればいい。あと、中西先生も誘おうか。」

「そら、えーわ。中西さんは隊長やな。」

「よし、そうと決まったら、乾杯や。」

「そや、アジア大地の旅に、乾杯。」

ロキシーのおかげでわけがわからなくなった二人は、やたらと乾杯を繰り返した。

1月3日、ポカラへ帰る日である。

8時55分にウレリィを発つ。

ひたすら降る道のりは、今までの急坂を忘れさせてくれる。

ティルケドンガに9時35分着。

棚田を下り、11時30分、ビレタンティ到着。

トレッキングもここで終わり、20分も歩くとナヤパルに着く。

ここからは、喧騒な人間の世界である。

二人は疲れきった体をタクシーに預け、ポカラへと向かった。

熊谷は、確かに、ひとつの峠を越えたと思った。

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