今回の江戸城は、平河門から城内に入って梅林坂から天守台までの写真です。
平河門から入って発券所の脇から撮った平河門の渡櫓門です。
同じ場所から左側を見ると、大きく曲がりくねっていて
「下梅林門」跡へとつづく土橋になっています。
クーの推測ですが、此処には高麗門があったと思うのですが、古写真でも見た事がありませんので断定はできませんが・・・。
ここの左側は
「天神濠」になっています。右側は「平河濠」ですね。
では「下梅林門」跡に入ってみましょう。
下梅林門跡の桝形に入って高麗門跡を見たところです。
此処から右側は広い長方形の桝形で、向こうに「下梅林櫓門」跡の石垣が見えています。
江戸城の通路は基本的に門と桝形の連続で、実に守りの堅い造りになっているのです。
写真の櫓門跡の石垣の先も左に曲がる桝形になっています。
先へ進んでみましょう。
下梅林櫓門跡の石垣をくぐると、その先は三差路になっていて
右は「梅林坂」へ、左は「汐見坂」あるいは「二の丸庭園」方面へ行けます。
三差路の真ん中から左側の高石垣が見えますね。
あの高石垣の左方向には「二の丸庭園」へ抜ける道がつづいています。
この高石垣の上には二重櫓の「汐見太鼓櫓」があったそうですが、幕末に焼失してしまったそうです。
この高石垣と「本丸上梅林櫓門」が写った古写真が
こんな風に門があったのですね!古写真では右下手前に番所が建っていたのがわかります。
殆んど同じアングルで撮って見ると
現在梅の木が植わっている三差路には、「二の丸食違い門」とその奥の上には「本丸上梅林櫓門」の櫓が複雑に立ち並んでいたのですね!
さて、また三差路に戻って右側の梅林坂方面の写真を
この梅林坂も、曲がりくねってちょっと勾配がきつく、容易に攻め込まれないように設計されているのが分かります。
坂を上っていきましょう。
良く見ると、上り坂の桝形になっているのが分かります。
坂の途中にある
此処から振り返って、坂の下を見てみると
下梅林門へは左側へ
汐見坂、二の丸方面へは右側へとの写真です。
それでは又上りましょう
此処には立派な渡櫓門がそびえていたのです!
くぐってから振り返って見た「本丸上梅林門」跡です。
此処から「本丸」になります。
天守台に向かって行くと、途中左側に
「皇居東御苑書陵部」があり、現在「昭和天皇実録」特別閲覧を実施しております。(今月いっぱい)
普段絶対に見る事が出来ない貴重な資料を拝見させていただけます。
書陵部を過ぎると
この角度から天守台に向かって行けます。
最後に城内の地図を添付します。赤線が今回のルートです。
本丸御殿の説明をしていただいた、入場券売り場の方から頂いた旧パンフレットの表紙をださせていただきました。
現在では上の絵図ような「お濠」や「土塁」「門と櫓」も殆んど消滅して宅地となっています。
僅かに「中之門」と「濠跡」の一部が再現されているのみです。
川越城は天守をもたず、本丸の南西高台にあった城内で最も大きな櫓の「富士見櫓(三重櫓)」を天守の代わりとしていました。
現在其処(お濠を埋めた場所)は、
の石碑と
この「田曲輪門跡」の石碑があり、その上が高台(約20m)になっていて石段を上っていくと
説明高札が立っていて、そのすぐ上に櫓が建っていたであろう平らな面が
何気なくありました。
その向こうには、御嶽神社と浅間神社が建っていました。
この後、喜多院に行った時に此処に建っていたと言う、撮影禁止の富士見櫓の木造模型があったので、そこの係りの方に「どうしても!」と頼み込み、「商売としてではありませんよね?」と念を押されて、その旨確約してやっと撮らせていただいたのが此の一枚です。
お城は天守だけではないのは良く分かっていますが、やはり天守或いは二重・三重の櫓があったほうが、よりお城らしくて魅力的だと思いませんか?
この櫓は屋根上に鯱鉾がなく、お寺のような雰囲気があってなかなかユニークな建物になっていますね!
やはり三重櫓は見栄えが良いですね!
つづく
先月末にかみさんが久しぶりに平日休みが取れたので、以前から行きたかった埼玉県にある川越城と氷川神社、それに喜多院へ行ってきました。
クーは勿論、川越にある江戸城と深い関係のある移築建造物群を見たかったのですが、かみさんは氷川神社の開運絵馬に興味があって行きたかったらしいです。
駐車場のすぐ脇にあったこの「川越城本丸御殿」は、御殿としてその場所に当時から現存するものとしては、日本全国で「高知城」と此処「川越城」の二ヶ所のみなのだそうです。
この御殿は、幕末の嘉永元年(1848年)に松平斉典によって建てられました。
当時は16棟・1025坪もありましたが、明治政府の廃城令によって多くの建物は解体されました。
しかし、この大玄関と中の大広間は廃藩置県による県庁舎となり、その後も煙草工場や武道場として使われ、戦後は学校などになりましたが、昭和42年に本来の本丸御殿としての大規模な修理工事を行なって現在に至っています。
当時建っていた御殿のうち、赤い線の2棟だけが現存しているのですが、離れた上の「家老詰所」(現在は玄関御殿に付随して建っています)は、明治初期に現「ふじみ野市」の商家に移築されていたものが、昭和62年に川越市に寄贈され現在地に再移築されたものだそうです。
見事な風格の大きな唐破風屋根は、17万石大名御殿に相応しい威容を誇っていますね!
では玄関に入ってみましょう。
御殿の前にある塀は「櫛形塀」と言うのだそうですが、如何にも御殿の塀という洒落た感じのする塀です。
建物内は撮影禁止ですので、中庭の写真を
家老詰所から大玄関御殿裏の大広間側のお庭を見たところです。
この御殿には、殿様や家老などの身分の高い家臣だけが入れた正面大玄関だけではなく、身分の低い侍の出入り用に、北側にもう一つ「中之口」という一回り小さな玄関があります。
文献によると、元はここも唐破風造りであったようですが、昭和42年の大修理の時にこの様な流れ屋根に造り変えられたそうです。
御殿内では、関係者の方や受付の方がいろいろと御説明くださって、とても良く解りありがたかったです。感謝します!
つづく
図書館で見つけたこの本は、各藩の大名が如何に苦心して江戸城に参勤したかが良く分かる興味あるものでした。
信長・秀吉時代から全国的に行なわれるようになった「参勤交代」は、徳川幕府の安定政権になると「武家諸法度」として法制化され、細かく「作法」として発布されました。
これに背いて参観せぬ者には、厳しい罰がくだされました。
今回は、その大名達が将軍に謁見するために登城した時に必ず通った城内の門を見てみましょう。
江戸城に入ろうとする大名達は、「大手門」あるいは「桔梗門(内桜田門)」の手前で馬から降りて城内に入り、「天神濠」に架かる「下乗橋」の手前で駕籠から下りて橋を渡り、この石垣に建っていた「大手三之門」の高麗門をくぐりました。
上の写真の石垣の手前には、かつては横方向に天神濠が掘ってあり、橋が架かっていましたが、今は濠は完全に埋め立てられ橋もまったく在りません。
幕末から明治初期には、こんな「大手三之門」が建っていました。
桝形の門の中に在った「同心番所」が現存しています。
同心番所から左側の櫓門跡の石垣を出ると、広い空間に出ます。
広場の真ん中から「大手三之門」の櫓門跡を見たところです。
左側(上の写真では右側)には「百人番所」があって大名一行に目を光らせていました。
百人番所には、伊賀・甲賀・根来・二十五騎の四組それぞれ百人が昼夜を問わず詰めていて、城内を監視していました。
百人の目を気にしながらここを通り
ホッとして見る百人番所!
この反対側には「中之門(大手中之門)跡」が立ちはだかっています。
諸大名に威厳を見せつける為に、石垣は大石を隙間なく積み上げ、その上には櫓や多聞を連ねて建てていました。
幕末から明治初期の古写真では、こんなふうになっていました。
せめて櫓門だけでも復元できないものでしょうか?
この中之門跡に入ってまた、「大番所」があるのです。
この番所には、身分の高い武士(与力)が詰めていました。
長旅の疲れも癒えぬうちに何度も緊張を強いられ、大名達も疲れ切った事でしょうね!
中之門跡内からの外の景色。
この石垣上に渡櫓が建っていれば、全く違う景観になるでしょうね!
ここからは結構きつい上り坂になっていて、文字通りの「登城」になります。
この上り坂の右側奥に、本丸へ入る表門であり、最後の門であった「中雀門(書院門)」跡があります。
上写真の左側の石垣上には、重箱櫓と呼ばれた総二階建ての「書院出櫓」が建っていて、その奥の高い石垣上には、やはり二階建ての「書院二重櫓」が建っていました。
中雀門が建っていた石垣は、火災による熱で黒く、そして石の表面が割れて剥がれています。
本丸も数度焼け落ちていますので、この中雀門も火焔からは逃れられなかったのでしょうね!
本丸内からの中雀門跡の写真です。
この後ろには本丸御殿の玄関にあたる、「遠侍」がありました。
此処まで来た大名は刀を従者に預け、丸腰で御殿に入って行きました。
幕末の文久になるまで、各大名は毎年江戸と自藩を往復しなければならず、その莫大な費用の負担は、かなり藩の財政を圧迫したのでした。
それが幕府の狙いであり(最近では参勤させる事が目的であって、大名達に大金を使わせたのは結果であったとの説が有力だと言う事です)、それによって江戸幕府は幕末までは安泰を保てたのですけど(現に文久以降、参勤交代は「3年に一回で良い」となり、薩摩藩や長州藩・土佐藩などは余裕の出来たお金で最新式の鉄砲や大砲・軍艦を買い込み、その武器によって討幕出来たのですから。)ね・・・!
つづく
今回の「和田倉門」は、現在は橋のみ復元されていて、門は存在しません。
しかし、門跡の石垣はほぼそのまま現存していて、江戸城が復元できたらと願うクーとしては、門として是非この和田倉門の復元をお願いしたいと思っています。
東京駅から新丸ノ内ビルを過ぎ、日比谷通りを渡ると在る和田倉門跡は、
幕末当時は
こんな状況でしたが、撤去されずに明治になって修復され
門として存在していましたが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で倒壊し、以後復元されず石垣だけの姿となっています。
和田倉橋の向こうにはパレスビルが迫り、「今」と言う時間を思い知らされます。
では和田倉橋を渡ってみましょう。
この石垣には「高麗門」が建っていました。その中は小さいながら桝形になっていて
桝形の中から橋を見ると、門がないのでビルだらけの画になって、とても寂しく感じます。
桝形内から櫓門跡を見たところです。
左右の石垣上に渡櫓があるとないとでは、この空間がまったく違うものになってしまいますね!
櫓門跡の中から高麗門跡を見たところです。
城内側から見た櫓門跡の石垣です。
江戸時代にあった蔵の跡地の現在は、
・・・のように、「和田倉噴水公園」になっています。
公園の正面から、巽櫓(桜田二重櫓)とその向こうの富士見櫓が良い感じに臨めて、お気に入りの眺めの一つとなっています。
左右にこんな噴水が
楽しめます。
そして、「皇太子殿下御結婚記念の碑」があります。
今回は、江戸城内「二の丸」の二の丸庭園にある「菖蒲田」に行ってきました。
上の写真は、明治末に吹上御所に建てられていた、御休所の茶屋を移築したものです。
なんとも上品な佇まいではありませんか!
眺めているだけで、「侘び寂」が理解できてしまう気がします。
そうそう、菖蒲でしたね!
ちょうど盛りだったようで、とても綺麗に咲いていました。
こんなに沢山品種があるのですね!
一輪だけアップしても美しい・・・!
まさしく、いずれがアヤメかカキツバタって言うところですね!
クーには見分けがつきませんが、すごく綺麗です!
ここの隣りの庭園は
・・・で、石灯籠や池が、いい感じにあるのです。
松などの木々も手入れが行き届いていて
いかにも江戸時代の日本庭園なんです。
もしかすると、ここが最も旧江戸城の空気がする空間なのかもしれません。
その当時にあった庭園とほぼ同じに再現されていますので、大奥のお女中達が一時の息抜きに歩いていたのかと思うと、タイムスクープハンターにでもなったかの様な錯覚をおぼえてしまうのでした。
それから、菖蒲田に流れ込む小川を辿って行くと、
石の井戸があり、汲み上げているのでしょうが綺麗な水が
滾滾と湧いていて、井戸の中から炭酸水のように泡が白く見えていました。
手を清めると、良い事が起こりそう!?でしたよ。
前回の「清水門」から「牛ヶ淵」を廻って「旧九段会館」を過ぎ、地下鉄九段下駅を左に曲がると、左手の上り坂の「土橋」の上に重要文化財の「田安門」が見えます。
この門は人の出入りが多く、とくに春の桜の時期には、北の丸内の「武道館」での大学の入学式や会社の入社式などが毎日のようにあり、その他、コンサートやなにかで、昼間、人が写らないように撮るのはちょっと難しいですね!
桜の時期に、ここから右側の「千鳥ヶ淵」を見ると
大勢花見に来るのが分かります。で、左側の「牛ヶ淵」は
こちらも、なかなかの景色ですよ!
では「高麗門」をくぐってみましょう。
くぐってからの高麗門です。
桝形の中はゆったりと広く、徳川家 御三卿の「田安家」の余裕を感じます。
桝形内の石垣は、各大名の普請が今でも分かります。
石垣の所々に、石を運んだ大名の印しが彫ってあるのが残っているのです。
桝形の奥から見たところです。
桝形から櫓門をくぐって「北の丸」に入って見た櫓門です。
この櫓門の石垣の右側を入っていくと、上に登っていく石段があり、上には「昭和天皇御野立所」の記念碑と祠があります。
恐る恐る入っていくと、
・・・との事で、
この奥に
この石碑が建っていました。
ここからは、桝形を見渡せるようになっています。
上から見ると、まさに「桝形」でした。
前回、清水門の櫓が保管してあったと書きましたが、この田安門の渡櫓も、破損して撤去されていたものを修理して復元したもので、江戸時代の江戸城完成当時の部材のままの櫓を修復して組みたてた、貴重な櫓でありました。
ただの通路のように、大勢の人達が毎日普通に通っているこの門が、江戸城のなかでも現存する最も貴重な、江戸時代を代表・象徴する(国宝でもおかしくない)門だというのが奇妙な事実としてクーには思えてきて、江戸城がまた面白く感じられてしまうのでした。
つづく
前回の「竹橋門」からの続きで、歩いて行くと石垣の陰から突然こんなふうに「清水門」が見えてきます。
途中、竹橋方面を振り返ると
「北の丸」を横断する首都高速の橋げたが無残にも貫いています。
土橋の入り口にある標識。
土橋を渡る途中で右を見ると、「武道館」の屋根が見えます。ここから「田安門」までの濠は「牛ヶ淵」と呼ばれます。
左側の石垣と「清水濠」
土橋入口の右側のビルの壁にある説明板です。
端正な門構えの「重要文化財」の清水門が目前に!
江戸時代の大火直後の再建からは、大戦中の戦火にも遭う事が無く、今現在までここに建ち続けている高麗門なのです。
桝形の中から見た高麗門。
この清水門は、江戸城中に数多く在る門のなかでも特に用心深く良く出来ています。
まず、高麗門をくぐったら「一つ目の桝形」、
桝形の奥から逆に見たところです。
この桝形の櫓門をくぐったら、また「二つ目の桝形」があるのです。
城内からの櫓門
そして桝形がここにも・・・。
更に、その桝形の櫓門をくぐった左側に歩幅の大きな登りづらい石階段があり、城内奥へは容易に走り入り込めないような設計になっているのです。
石階段の途中に、櫓門の石垣の脇から一つ目の桝形を見下ろせる場所に登れる石段があり、そこからは
高麗門を破って始めの桝形に侵入してきた敵を、どこからでも攻撃できる構造になっているのです。
石階段を登りきる手前にある石柱。
登ったその右側からは二番目の桝形を見渡せる所にでます。
侵入者としては、こんなに防御が堅いと入れませんね!
ところで、この櫓門の櫓は、いつの頃か解体されて保管されていたものを、そのまま復元したと言うことです。
重機の無い時代に、石垣は勿論ですが櫓門のこんな大木もよく組み揚げたものだと、クーは何時も感心して見上げてしまうのです。
つづく
今回の「竹橋門」は・・・
残念ながら門としては存在していません。
明治初期に殆んどが撤去されてしまいました。
橋だけがその後2回架けかえられて現在のこの橋になっています。
前回の「平河門」の桝形内から「帯曲輪門(不浄門)」を経て、この竹橋門の向こう岸の左岸に続いていました。
橋を渡って、その場所に行ってみると、
こんなプレートが張り付けてある「記念碑」だけがありました。
その記念碑の上から、逆に平河門方面を撮ってみました。
やはり「高麗門」や「櫓門」がなくなっていると、とても寂しく感じるのはクーだけでしょうか?
橋を戻って、九段方向に歩いていって撮った竹橋です。
右端に櫓門が乗っていた石垣が残っていますね!
そのまま濠に沿って修復の終わった「清水門」へ歩いていきました。
つづく
この「平河門」は前出の「江戸城を知る・大手門」から左回りに歩いて行くと在る門です。
幕末から明治初期に撮られた古写真には、ボロボロになりながらも存在していた当時の姿そのままに今も在り続けていて、「たかが門、されど門」な門なのです!
内堀通りから、この木橋を渡ると、
右手に「高麗門」があるのですが、当時は閉門時間がそれは厳しくて、「三代将軍家光公」の乳母であった、あの「春日局」が時間に遅れ入れてもらえず、この門前で一夜を明かしたとの言い伝えは有名です。
これをくぐると桝形に入ります。
桝形内から振り返って見た高麗門です。
桝形左手には、美しく積まれた石垣の「櫓門」が堂々と建っています。
この櫓門の右端に小さめの門が造られています。
この平河門は「本丸」からは北東に位置し、「鬼門」に建っています。
その為か、城内で死人や病人あるいは罪人が出た時には、それらの人を城外に出す、この特別な門が造られ「不浄門」(帯曲輪門)と呼ばれました。
「松の廊下」で刃傷沙汰を起こした「浅野内匠頭」もここから出され、即日切腹させられたとの事です。
桝形から城内へ入って見た櫓門です。
その左端には、「不浄門」(帯曲輪門)が松の枝葉に隠れるように見えています。
更にその左方に、「竹橋門」へとつづく堤防のような「帯曲輪」が
まるで松林のようになっているのが見えます。
「江戸城・乾通り 1」の富士見櫓のところでも書きましたが、櫓などの手前の木々が成長しすぎていて全体が見えなくなってしまっている事と、台風や大雪などで倒れて櫓を損傷しないともかぎりませんよね?!
若木に更新するか、低木に植え替えるか、出来ませんですかね~!
航空写真だと位置関係が分かりやすいですね!
つづく