先月行った日光の「華厳の滝」です。
日光には何十回と行っていますが、どう言う訳か華厳の滝には行く気がしなくて、数十年ぶりに行ってみました。
真冬の凍てつく空気を切り裂いて、流れ落ちるこう言う景色もなかなか乙なものでした。
滝壺近くまで降りられる有料のエレベーターがかなり前から営業していたのですね!
これ以上凍える水しぶきを有料で浴びる事も無いと意見が合い、コンクリートの階段を二階下りて撮ったのがこの写真です。
昔この滝を見たのは、夏と秋しかなかったかもしれません。
雪景色の華厳の滝を見たのは、定かではありませんが初めてだと思います。
寒風吹きすさび寒かったですが、凛としていて見に来て良かったです。
駐車場脇で売っていた焼きたてのお団子を、皆で車中で頬張り滝を後にしました。
これは川越氷川神社内にある「八坂神社」です。
実は、クーは勘違いをしていまして
3代将軍家光公により、寛永14年(1637年)江戸城二の丸に一時的に「東照宮」として建立されていた社殿を、明暦2年(1656年)川越城内の三芳野神社外宮として移築され、その後明治5年(1872年)に現在の氷川神社の隣りに、1/4に縮小されて再移築された此の社殿(上写真の左下の拝殿の後ろにある赤漆塗りの社殿)が目的の社殿だったのに・・・
氷川神社の本殿を、再移築された東照宮の一部だと思い込んでしまいました。
中には入れませんので、周りの柵の隙間から撮りました。
此の社殿(氷川神社本殿)は、嘉永2年(1849年)松平斉典の寄進により完成しました。
見事な彫り物は、島村源蔵と飯田巌次郎によるもので、江戸彫りの精巧な彫刻が施されています。
きちんと下調べしなかったので、この彫刻を見て勘違いしてしまったのでした。本当の八坂神社社殿を一枚も撮らずに帰って来たのは残念の極みでありました!
これは、本殿の前に建っている拝殿です。
この拝殿の左側にあるのが
かみさんが此処に来たかった目的の、願いが叶う「絵馬のトンネル」です。
勿論願いを書いて奉納させていただきました。
さらに、拝殿の右側には
夏季には、天の川に願いが届くように、江戸風鈴に願いが書かれた短冊を結わう「縁結び風鈴」のトンネルがありました。
境内には
とか
の、こんなアイテムがありましたよ!
御神水の曲水などもあって面白かったです。
この石鳥居の正面奥が拝殿になっています。
この右側には、朱塗りで木製の大鳥居(木製としては日本一大きい)があって、その扁額の字は勝海舟の自筆だと書かれていました。
それも撮らずに川越城に早く行きたくて焦ってしまいました。
もう一度行って撮り直さなくてはと思っています。
つづく
アメリカの砂漠ではありません。
日本にもこんな美しい模様をした岩があるんですね~!
毎年恒例になっている、「夏休み伊豆のシュノーケリングの旅」で今年出会った眺めです。
もう御存じの方も多いと思いますが、
そうです、南伊豆下田・須崎に在る「恵比須島」の岩面の一部ですね!
恵比須島へ渡る高架橋です。
シュノーケリングのあと、かみさんと渡ってみました。
娘は宿でライン中・・・。
橋の正面にあった表示板、写真をクリックして読んでみてください。
島の頂上に鎮座まします「恵比須神社」
古代から此処で、海に対しての信仰とその祭祀を行なっていた場所なのですね。
すぐ隣りには「須崎恵比須島指向燈」が建っていました。
神社を通り過ぎ林を抜けると島の反対側に出て、そこには和山牧水の歌碑がありました。
爽やかな海風に思わずボ~ッと海を眺めていると、太陽が音もなく沈んでゆき、そのさまを又ボ~ッと見つめてしまうのでした。
ここ須崎は民宿発祥の地だったのですね~!
宿では、とにかく食事が素晴らしくて、二泊させていただいたのですが、この内容です。
これが一泊目、船盛りは特別注文ではなく三人前の標準です!
コロッケみたいに見えるのは、アジとかのメンチで、これが凄く美味しくて、もう一つ欲しかったくらいです。
二泊目の船盛りは前日にもまして美味しかったです。
その上にキンメの煮付けとトコブシ(小アワビ?)は最高!!でした。
とにかくオカズが多くてご飯が少ししか入らないと言う贅沢さ!です。
また来年もお願いするつもりです!
今年も楽しい夏休みの海を堪能する事が出来た幸せを感じつつ、今度は那須へと車を走らせたのでした。
三島のバイパスから遠くに見えた、蒼い富士山を眺めつつ東名に入って行きました。
NHKの大河ドラマ「八重の桜」に、会津藩家老の西郷頼母(さいごうたのも)と言う人物がいますが、先日やはりNHKで、その西郷頼母を取り上げた「歴史秘話ヒストリア」と言う番組を見ました。
西郷頼母は会津藩を興した家系の由緒ある家に生まれ、幕末当時は筆頭家老職に就いていました。
新しく城主として来た松平容保(まつだいらかたもり)公を補佐すると同時に、この会津藩を存続繁栄させる重要な役割を担った人物でした。
黒船来航以後の、尊皇攘夷とかの騒動には出来る限り係わらずにいたいと言う彼の思いは、容保が京都守護職に就いてしまった事で崩れ始めるのでした。
謹厳実直な容保は、ときの孝明天皇に尽くし信任厚く優遇されました。
しかし突然孝明天皇は崩御され、瞬く間に反対派の標的にされてしまうのでした。
反対派の薩摩・長州藩は、自分達こそが天皇を戴く尊皇派と称し、新しい政府を創り徳川幕府を倒しました。倒された徳川幕府に絶対服従を家訓としてきた会津藩は、朝敵の汚名をきせられ戦わざるを得なくなってしまうのでした。
頼母は始め、新政府軍に屈服して戦を避けようと容保公と重臣達を説得しますが、多数派の開戦論に敵わず、シブシブ、だがしかし、一旦戦うと決めると自身の死は言うに及ばず、家族全員に覚悟をさせるのでした。
新政府軍が会津領内の城下に進軍すると、頼母の母・奥方・幼い子供達の女性一族21人は、全員自害して果てると言う悲惨な結果になってしまいますが、
(ヒストリアでは、)城内にいた頼母と一人息子は、今度は負け戦で絶対勝てないと分かった家臣らからの停戦案に激怒し「最後の一兵まで戦うのみ」と聴かず、逆にお城から放りだされてしまうのです。
(「八重の桜」や他の文献では、頼母は終始、容保公に「新政府軍に恭順し停戦を!」と進言したので、容保に疎まれて城から出された。となっていますが…)
その後、会津藩は陥落、自分の屋敷も城下も殆んど焼け落ち、帰る所さえなく、父子で新撰組の残党と北海道の箱館(現在の函館)まで行き、そこでの戦にも生き残り、それから(幽閉解放後)は放浪の旅に出るのです。
その日暮らし(知人の紹介で子供達に勉学を教えたり)の日々を送り、西郷家の最後の跡取り息子も22歳くらいで病死、たった一人また彷徨う放浪の日々・・・。
なぜ、なにが、彼を、彼の人生を、こうさせたのか?
ほんの少し前まで、お城のすぐ前に大豪邸を構え、何不自由のない生活をしていた真面目な人間が、
今、ホームレス同様の、たった一人の人生を、お迎えが来るまでの一時を・・・・ただ淡々と送っている
人生って、運命って、生きて行くって、なんなのだろうって、
自分の人生に重ねて、考えてしまいました。
これは先月末に家族で行った、伊豆・下田の「青い海」と言うペンションのベランダから撮った写真です。
国道沿いにあるので、見知っている方も多いと思います。
此処は何と言っても、食事の美味しさとボリュームでしょう!
一泊目は、洋食のフルコースでしたので、写真は食べてばかりで撮りきれずUP できませんが、肉とソース類が本格的で素晴らしかったです!
二泊目は和食で、お刺身の盛り合わせが、これです!
イサキなどが美味しかった。あとキンメの煮つけも!!
最後の朝食がまたまた これです。
アジの一夜干しは何処でも出ますが、更にアジ一匹のお刺身と、小振りながら伊勢海老のお味噌汁まで出てきちゃって、美味しくって朝からご飯おかわりしちゃいました。
デザートのパイナップルやメロン・スイカなども質の良いもので、大変美味しく頂けました!
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海のコンデションも最高で、家族全員大満足の夏休みでした!!
「青い海」さん、お世話になり ありがとうございました。