続 写真は心

お気に入りの写真に気ままな独り言を書き込んでいるブログです。

高島城

2016-06-08 | お城・史跡


松本城に行く前に、此処「高島城」に寄ってきました。
なかなか長野県まで来る事がないので、今回は思いっきり足を伸ばそうと、老体に鞭打ってあちこちに行きました。
実は此処に来る前には「諏訪大社の上・下社」に詣でてきたのでした。
それは後日に!

ところで此処の高島城は、江戸時代から旅の名所として有名なスポットになっていました。
「諏訪の浮城」として浮世絵に何枚も描かれています。
しかし、270年近く続いた諏訪氏の居城も、明治政府の廃藩置県によって、封建制のシンボルとみなされ、天守や櫓類は明治8年には破却されてしまいました。

明治9年に「高島公園」として一般に開放されたようですが、石垣だけの姿は諏訪市民としては、なんとも物悲しかったようで、昭和45年に天守が、後に「冠木門」と「隅櫓」が復興されました。

上の古写真とほぼ同じ場所から撮ったのが下の写真です。
どうですか?天守や長塀などがあるのと無いのとでは、お城としての趣きがまったく違ってしまいますね!
勿論あったほうが断然すばらしいです!!

同じく、天守も破却前に撮られていた写真が下の写真です。

復興天守は、外観は忠実に正確に再現されていますが、三階の「華頭窓」が3ヶ所に増えています。

本丸に入るには、「冠木橋」を渡っていきます。
その前に、橋の左側の「隅櫓」の景色を見ましょう。

では、橋を渡ります。

木橋の先には「冠木門」と言う名の「渡櫓門」が構えています。

其処の説明板には

と書いてあり

冠木門をくぐると、嘗ての城内の図があって、今は無き本丸御殿を想像しながら天守を目指しました。

本丸内から冠木門の渡櫓を見たところです。
本丸には、大きな「人の字型の池」がありました。



との事です。
天守に行く前に、左側の隅櫓を見にいきました。

下は、天守内の展示物などを見学し天守から出てきた写真です。
写真を撮っている此の場所は本来は「小天守」があって、天守への出入りは写真右側からしていたようです。

天守のすぐ近くにある「川渡門」の手前の埋門のような石門(石垣を下りると当時は前がすぐ諏訪湖だったようです)から、城外の駐車場にでました。

最後に、駐車場から仰ぎ見た「高島城天守」です。


松本城

2016-06-03 | お城・史跡



約40年ぶりに松本城に行く事ができました。

本来の目的は、「ある人のお見舞いに諏訪へ行く事」でしたが、会話を交わす事もままならず、あまり長居をして疲れさせてもいけませんでしたので、早々にお暇させてもらいました。でも、クーの名前を大きな声で言った時、動かせない顔の目を見開き、分かってもらえたのが嬉しかった!

なんとか奇跡的に回復して、もう一度話をしたいと念じたクーなのでした。

駐車場から城内に入って行くと、以前にはなかった二の丸から本丸の「埋門(うずみもん)」へ渡る朱塗りの「埋橋」が架かっていました。本来の橋はどのようなものであったのか、良く分かっていないそうです。

松本城は、天守も櫓(月見櫓は別)も黒が基調ですので、朱塗りの橋もアクセントになって良い景観となっていました。

二の丸に沿って、本丸入口までの内濠ごしに見る天守群は、400年の本物の迫力と気品がスレートに伝わってくるのです。

上写真の右端に本丸に入る「黒門」が見えます。そこまでぐるっと歩いて行きます

さらに近づいて行くと、黒門の「高麗門」があり、高麗門から中の桝形と櫓門を撮ってみると

この桝形内で入場券を買い、本丸内へ入ります。

本丸内から黒門の渡櫓門を見たところです。

時間がありませんでしたので、小走りで天守の入り口へ急ぎました。
なにせ入場券を買ったのが、入城制限時間の数分前でして・・・

この道の先の、「大天守」と「乾小天守」をつなぐ「渡り櫓」に入城口があります。

近づくとはっきり見える、天守左側の赤い手摺りの「月見櫓」は、三代将軍家光公がおみえになるとの事で、時の城主であった松平直政公が平和な時期に増築させた櫓ですが、家光公は一度も来る事はなかったそうです。

真下から仰ぎ見る大天守はドスが効いて、戦の為のお城の迫力に圧倒されます!

大天守内の色々な展示物を見学しながら、急な階段を上りきった最上階の梁には、このような



なのだそうです。

天守群から出て、本丸内北側から天守群を眺めると

本丸内をなお東側に回って見た天守群です。

真東からの天守群、雲が面白かったのでシルエットみたいに絞って撮ってみました。
何時までも眺めていたかったです!

黒門から退出して、左側から撮ってみたのが下写真です。

黒門から出て更に左側に歩いて行くと、二の丸の玄関にあたる「太鼓門」があります。
平成11年に復元された門です。

二の丸内から見た太鼓門で、この渡り櫓が一の門で、桝形の外にある高麗門が二の門となっています。
上写真の左側の赤松の石垣上に「太鼓楼」がありました。ぜひその櫓も再建してほしいものです。

桝形内から二の丸を見た写真が下の写真です。

この後ろにあるのが、三の丸へ出る高麗門です。

また、この桝形内にある渡り櫓の石垣には「玄蕃石」と言う巨石があり、本当に大きいので目につきます。

先に書きましたが、此処は本来、門の脇に太鼓と鐘で時を知らせる櫓があったので、この名がつきました。

この門が破却された直後に此処から写された古写真が下の写真で

門や櫓などが取り払われていると、石垣の向こうに天守がまる見えになっています。
大八車の人を中心に、同じ場所から今の此処を撮ってみました。

やっぱり、こうでなくてはいけません!

二の丸内に戻って右側には、当時は「二の丸御殿」が建っていました。
その入り口にある「冠木門」です。

二の丸御殿は平面復元されていて、本当の復元がまたれます。
さらにその奥に、三の丸へ出る木橋が架かっています。

今、こうして国宝の松本城を見られるのは、

このお二人の尽力があったればこそ!なのですね!

最後に、在りし日の松本城の画を



おまけの一枚です。

本物のお城は、とにかくすばらしい!!


西新井大師

2015-04-20 | お城・史跡


先日、足立区にある「西新井大師」(正式には、五智山遍照院總持寺と称する真言宗豊山派の寺院です。)に、かみさんと行ってきました。

江戸時代、幕府の御朱印寺として栄えたそうです。
特に、八代将軍吉宗公が鷹狩りの時に、此処で休息をとったところから御膳所となり、将軍家の尊崇する寺となりました。

上の写真は、門前通りの正面にある山門(江戸後期建立の入母屋造りで総檜材の楼門造り)です。
くぐってから見た山門は、

門内の両側には、かなり傷んでいますが金剛力士(仁王像)があり、楼上には見る事はできませんが、五智如来像が安置されているそうです。
山門をくぐってすぐ右側にあった石柱には

厄除け弘法大使と!
西の「川崎大師」に対して、東の「西新井大師」と呼ばれています。

左側には有名な「塩地蔵」があったのですが、真ん前で作業していらしたので撮らずにスルーしました。
その先には「六角観音堂」が

後ろ(右側)には、満開の八重桜とコデマリが

その脇の手水舎(ちょうずや)で身を清め
進むと、右側に「鐘楼堂」が建っています。

戻って正面にあるのが、

「大本堂」です。
江戸時代の本堂は、昭和41年に焼失してしまいましたが、昭和47年に再建されました。

この寺の創建は、天長年間(824~834)に干ばつ飢餓にくるしんでいたとき、弘法大師が立ち寄り、十一面観音菩薩と自身の像を刻み、悪疫除去を祈願しました。
すると、悪疫はなくなり、枯れていた井戸に大師像を投げ入れたところ、清水がこんこんと湧きだしたそうです。

本堂の西の井戸から新たに水が湧いたところから「西新井」の地名がつき、そこの大師(弘法様)堂となったそうです。
その井戸が、この「加持の井戸」です。

更にその左奥にあるのが、

都内には此処にしか残っていない三匝堂(さんそうどう)です。
「さざえ堂」とも云い、江戸時代に流行った仏堂形式のひとつで、内部が螺旋状になっている階段がありました。

以前行った会津の白虎隊のお墓の下にあった「さざえ堂」を思い出しました。

それから本堂にお参りして、また西側にある庭園を回りました。

四国行脚されているお姿の「弘法大師立像」です。

池に架かる石橋は「大願成就橋」です。

池の周りには色々なお堂があります。
引き返して

クーの好きな屋根の「不動堂」です。
関東三十六不動霊場の二十六番札所です。

それから本堂の東側に移動し、やはりクーの好みの建物の「書院」を撮りました。
いいですね~!
この建物の左の建物も気に入りました。


当寺はまた、「西の長谷寺、東の西新井」と呼ばれる花の寺なのです。
牡丹が有名なのですが、ちょっと早かったようで、ちらほら咲いている程度でしたので写しませんでした。

そのまま本堂の脇を通り裏門から駐車場へ向かいました。

今回行かなかった「宝照殿」と「東門」は次回撮りに行こうと思います。


江戸城・北桔橋門

2015-03-23 | お城・史跡

今回は本丸の北口にあたる「北桔橋門(きたはねばしもん)」の2回目です。
上の写真は、下の明治4年頃に撮られた古写真とほぼ同じ位置(もう少し右側に行きたいのですが木々が生い茂っていて入って行けません)から撮った現在の姿です。

古写真では、門の右側の石垣上に「乾二重櫓(いぬいにじゅうやぐら)」がまだ建っています。
橋も木橋のままで、高麗門の中には石垣と櫓が桝形にガッチリ囲ってあり、現在のように高麗門をくぐったら正面に天守の石垣がまる見えと言う事はありませんでした。
写真でも見えているように、高麗門の左側には「北桔橋櫓門(きたはねばしやぐらもん)」が入城者を見張っていました。

それでは、現在の「北桔橋(きたはねばし)」を渡ってみましょう。

現在の橋は、おそらく鉄筋コンクリート造りになっていると思いますが、橋の向こうにある「高麗門」に行ったら門の下から梁を仰ぎ見てください。

江戸時代、木橋だった頃に敵が攻めよせて来た時、滑車で橋の途中から吊りあげて渡れないように橋を留めた金具が今もそのまま装備されています。
行った時には必ず見てくださいね!

それから本丸内に入りますが、古写真では・・・

写真の左側は「渡櫓門(わたりやぐらもん)」で、右側の侍達がいる建物は「岩岐多聞(がんぎたもん)」と言い、地下から水を汲み上げていたそうで、二本の木樋(もくひ)装置が斜めに櫓に掛けられています。

明治になったばかりの時に、この様な荒れ方なのは、幕末の江戸幕府には金銭的にも精神的にも、まったく余裕などなかった事が分かりますね!

古写真とほぼ同じ角度で現在の位置から撮ってみると

櫓どころか石垣さえも完全に撤去されてしまっていて、古写真が残っていなければ初めから此処には何もなかったと思ってしまいます。
この右には、何時見てもりっぱな天守台の石垣があります。

今度は、天守台から渡櫓門があった方角を見ます。

此処にあった石垣や櫓を思い描きながら、逆に高麗門を出ます。
出てすぐの橋の上から、左側の来た方角(乾門)の乾濠(いぬいぼり)を撮ってみました。

それから、橋の反対側の「平河濠」も撮ってみました。

此処からの石垣と平河濠の景色は、クーのお気に入りの一ヶ所になっています。
濠の正面奥の飛び出た石垣は、平河門の脇にある「不浄門」から竹橋門へつづいていた門のあった石垣です。

桔橋(はねばし)からつづく土橋を渡り、平河濠に沿って竹橋門跡方面へと歩いて行くと

こんな風に北桔橋門が見えます。
この場所の正面にある石垣が下写真で、これまたクーのお気に入りの景色なのです。

この台形のカーブを描いた高石垣は、何度見ても立ち止まって眺めてしまうのです。
この石垣上には五十三間多聞と右端に二重櫓も建っていました。

もう少し竹橋門跡近くに行った処からの、此の高石垣もまた良い景色なのですよ!

ね!お城してるでしょ!!

今回の地図はこれです。

江戸時代の空気を感じにお散歩がてら歩いてみませんか?
クーは、行くと1万歩前後歩くので、同じ門でも何度でも行ってしまいます。

また行こうっと!


那須・芦野城(芦野氏陣屋跡)

2015-01-06 | お城・史跡


明けまして おめでとうございます!

今回は、正月にかみさんの実家のお墓がある「建中寺」にお参りに行った時
クーだけ一人で(かみさんを車内に残して)「芦野城(芦野氏の陣屋跡)」に駆け足で上ってきました。

那須北部を支配した芦野氏の居城跡です。
建中寺の山門下にこう言う標識がありました。
今まで何度も建中寺に来ていましたが真っ直ぐ帰ってしまい、この看板には気付かず今回初めて見ました。

今日も他に用事があったのですが、芦野氏の墓地(新墳墓)がすぐ隣りにあったので、「ちょっと撮ってすぐ戻るね!」と言って、独りでカメラを持って行ってしまいました。
この看板の先に代々の碑塔(墓碑)が並んでいました。
殆んどが奥方様の墓碑のように見えました。
その中でも、石柵に囲まれてあったのがこの碑塔で、此処建中寺に葬られている芦野氏19代資俊(すけとし)公のものかは分かりませんが、当主のどなたかの墓碑のようでした。

かみさんが待っていたので、これで帰ろうとした時に、墳墓の反対側に遊歩道と標識を見てしまったのです。
えっ?歴史探訪館?御殿山?4~500mじゃん(^v^)
待っているかみさんには悪いけど、車の中で寒くはないし・・・
「御殿山って芦野城だよなぁ」行かないわけにはいかないでしょ!

・・・で、
ここまで来るのに日ごろの運動不足がタタリ、息があがってフーフー言ってしまいました。
このすぐ先に歴史探訪館はあったのですが・・・
「5日まで正月休みです」と張り紙があって、次回にはかみさんと一緒に中を見るぞと硬く心に誓ったのでありました!
時間もないので、早々に御殿山へと向かいました。
ここから「芦野城二の丸跡」へ真っ直ぐ上って行きます。

平山城なのですが、これがまた結構きつかったです。
此処には、陣屋(二の丸御殿)があったそうで今は更地になってしまっていますが、当時はクーが写真を撮っている足元には「二の丸裏門」が建っていて、現在もその門は近くに移築されて現存しているそうです。

時間が無く残念でしたが、次回は絶対見に行きます。

看板には説明が詳しく書かれていました。
二の丸からまた看板脇の階段を上ると、狭いながらも「本丸跡」があります。
西側に休憩所があり、そこからは周囲と那須連山が遮るものも無く良く見えていました。
江戸時代を通じ無役ながら旗本(交代寄合)として三千十六石のこの地を治めていた芦野氏のお殿様も、今クーが眺めている同じ此の景色を、どんな気持ちで眺めていたのかと、思いを巡らせると楽しくて、わくわくしてしまったクーなのでした。

今回のルートは、二の丸さえ全部見て回れませんでしたが、このようです↓

ふっと我に返り、大急ぎで元来た山道をぜーぜー言いながら駆け下りまた上り、かみさんの待つ車が見える所まで来た時、
フロントガラスの奥からカエルを狙う蛇の如き鋭い眼が・・・
「ちょっと行ってくる」が、これだけ(小一時間)車で待たせたのだから、怒るわな~。

でも、行って良かったぁ!


江戸城・内桜田門(桔梗門)

2014-12-29 | お城・史跡

前回の「富士見三重櫓」が右奥に見えています。
今回は、富士見櫓から歩いて右方向に行くとある「内桜田門(桔梗門)」です。
城内から出るには、右回りのカギ型にぐるっと回らないとなりません。
石垣に駆け登る石段(武者走り)が見えます。
石垣の向こう側は桝形内で、攻撃を加えるには最適な構造になっています。
回り込むと渡櫓がこんなふうにあります。
石垣は見事に隙間なく積まれ、見ていて安心感があります。
近寄ってみます。
門の向こうに桝形と「蛤濠」が、
上を見ると大木を渡した天井が見えます。
くぐって行きましょう。
この櫓門を造った人の名が蝶番に彫られています。
櫓門から桝形と「高麗門」を見ます。
この右側は
蛤濠へと落ちています。
後ろを振り返ってみました。
鉄枠で頑丈に補強されていますね!
右の高麗門を見ましょう。
桝形内の石碑です。
高麗門からの渡櫓門を見ました。
もう少し下がってもう一枚
高麗門の外にあった石碑です。
蛤濠の向こうに小さく富士見櫓が見えています。
さらに土橋を出て行くと
蛤濠側にある標識です。
土橋の右側(上写真の後ろ側)は「桔梗濠」になります。
桔梗濠に映える桔梗門です。
普段なかなか入れない「内桜田門(桔梗門)」に入れて、満足したクーなのでした。

地図はこうです。


これで今年はお仕舞いとさせていただきます。
皆様には来年も良い年でありますように願っています。
では、また来年見に来てくださいませ!!


江戸城・富士見三重櫓(富士見櫓)

2014-12-26 | お城・史跡

今回は天皇陛下のお誕生日の記帳と言う事で、普段は入れない「坂下門」から入り記帳を済ませ、やはり立ち入れない「富士見櫓」下をぐるっと回って、これまた普段は通れない「内桜田門(桔梗門)」から出る事が出来ましたので、そのうちの「富士見櫓」を集中的に見る角度を変えて撮る事が出来ましたのでUP してみました。

午前中の「一般参賀」に参加出来ませんでしたので記帳のみとなりましたが、参賀に参列出来ていれば、「正門石橋」を渡り「皇居正門(西の丸大手門)」をくぐってぐるっと回り、「正門鉄橋(二重橋)」の処で「伏見二重櫓とそれに続く多門櫓」を近くで観られ、その先の「書院櫓門」の石垣を通れたのに・・・
次の機会には必ずと思っています。
この古写真では「富士見櫓」の右下奥に「二の丸寺沢二重櫓」、その右に「弓矢多聞」、またその右手前に「蓮池御門」(現在は全く存在しません)がまだ存在しています。
クーが撮った此の上の写真は、古写真の左下の番所のあたりから撮っていると思われます。

現在の「蛤濠」の円い土手には、松の木が沢山大きく伸びていて、全体を見る事は出来ません。
こう言う古写真を見て、その場所に立ってみると、あの当時の侍達と同期して時代を瞬時に遡ってしまった感覚を覚えてワクワクしてしまうのでした!
それでは「蓮池濠」から長く続く石垣に沿って、「八方正面の櫓」と呼ばれた「富士見三重櫓」をぐるっと観賞しましょう!

ほぼ西面の姿です。一番端正な正面だと思います。

やや南側に回った姿です。

南西面の石垣の、算木積の綺麗な直線に沿って、三重の屋根も揃っています。

もう少し回りました。確かにどこから見ても美しいですね~!

ほぼ南面の姿です。
ちょっと東側から見た所です。ワイドで撮ってみると
石垣が右端でいったん途切れています。
本丸の「上埋門(かみうずみもん)」から下りてくる「下埋門(しもうずみもん)」があった跡が見えます。
芝生にはテニスコート跡が見え、侍達もテニスを楽しんだのでしょうか?
冗談ですよ~!

南東からの姿です。なるほど、どの面から見ても正面のようだと言われたのは理解出来ました。
石垣上の「富士見三重櫓」は確かにどこから見ても美しかったです。

江戸時代265年のうち、江戸初期の三代将軍家光公が建てた五層の天守閣が大火で燃えてからは、以後、徳川安定政権に「ただの五層の物見櫓は不必要」との家老の一声で再建案はなくなり、この「富士見三重櫓」が天守代わりとなっていました。
江戸城が三重櫓のままなのにと、近隣の川越藩や関宿藩など多くの藩は、この富士見櫓を真似て皆「御三階櫓」しか建てられませんでした。

そうそう、以前にもUP しましたが、本丸内からの富士見櫓の姿をどうぞ!

ほぼ北面からの姿が見られます。美しいには変わりないのですが、クーはやっぱり石垣上に建つ富士見櫓の姿が最高に美しいと思ってしまうのでした。
図面では本丸の南端にあります。通常は上写真の本丸からしか近くで見られませんが、皆さんも美しい姿を眺めに行って見てくださいませ!


日光・大猷院廟「たいゆういんびょう」(家光公墓所)

2014-12-19 | お城・史跡

先週末、三年ぶりにお気に入りのペンション(ヴィラ・リバージュさん)に行ってきました。
来年2月から離れのお風呂などを大改造するそうで、ちょっとぬるめでしたが最後のジャグ爺?にも入れてよかったです。

日光に行くたびに「東照宮」には行っているのですが、かみさんもクーも家康公の派手派手(悪くはありませんが…)な東照宮より、どっしりとして重みのある「徳川三代将軍家光公の『大猷院廟』がお気に入り」なのです。
上写真は、右側の「二荒山神社」へ上がる鳥居と正面の大猷院廟に行く広場です。
鳥居の前に建っているのは「常行堂」と「法華堂」です。その横に
拝観順路の案内板があります。
左が常行堂、右が法華堂。真ん中の渡り廊下の向こう側にも石灯籠などがあります。
反対側にあるのは
こんな標識です。
では入場料を払って入ってみましょう。
まず見えるのは「仁王門」です。
左側に「那羅延金剛」、右側に「密迹金剛」の仁王様が睨みを効かせています。

ここをくぐると、左側に四代将軍家綱公お手植えの「槇の木」があります。



「宝庫」の脇に聳えていました。
その先の右側に、山から流れ出る清水で身を清める「御水屋」があります。
柱も石造りでどっしりしています。ここで身を清め、先に進みます。
左を向くと
一番大きな「二天門」があるのですが、行った時には修復中で全体が幕で覆われていましたので、以前に行った時の写真をUP しました。
と言う事で、家光公の戒名《大猷院殿贈正一位大相国台霊》の最初の三文字「大猷院」をとった場所なのですね!
ここをくぐってすぐ右の石段を上ると、テラスの様な場所に出ます。
と書いてあり、10万石以下の大名は下の「二天門」をくぐれなかったのですね!
沢山の石灯籠は、10万石以下の大名からの献上品だったのですね。

このテラス状の展望所の左にまた石段があり、上ってから見えるのは、広場の奥に「夜叉門」があって、門の左側には「鼓楼」、右側には「鐘楼」がそびえ立っていて荘厳な空間になっています。
写真の左側にこの「鼓楼」が
この後ろ(右側)には「鐘楼」が堂々と建っています。
説明板です。
では夜叉門の石段を上ってみましょう。
この門の説明は


正面と内側に4体の夜叉が居られるのです。
近づいて見てみましょう。
豪華なのに重厚な彫刻
観賞しながらくぐると、正面に拝殿前として最後の「唐門」が見えます。
近づいて観賞します。
ここから内部は撮影禁止となっています。
中の拝殿で参拝し、廊下から中庭に出て
外観を撮影しました。
ここから右側に「拝殿・相の間・本殿」を観賞する事ができます。
拝殿から本殿を見たところです。
後ろは鐘楼と夜叉門の屋根が見えています。
本殿から拝殿を見たところです。
此処の後ろに、家光公の墓所に入る「皇嘉門」があるのですが、公開されていませんので内部の「鎧倉」「奥院拝殿」と「家光公墓所」は見る事はできません。
公開される日があれば、是非また来て見たいと思っています。

夢の国の竜宮城にでも行きそうな門ですね!
是非「奥院拝殿」と「家光公墓所」を拝見させていただきたいものだと願っています。

ここから右側は、回廊のようになっています。
途中の門から見る「相の間」です。
ぐるっと回って夜叉門へ
これは夜叉門の内側です。
何時見てもなぜか心安らぐ大猷院廟を下山して、今度は二荒山神社へと向かいました。


秋の乾門通り抜け

2014-12-04 | お城・史跡

春の桜に引き続き、秋の紅葉を観賞できる皇居(旧江戸城)の乾通りの一般公開に行ってきました。
春の桜の時ほど混んでいなかったので、通りの右側・左側両方の写真を撮る事が容易にできました。
宮内庁前の広場も群衆に空間があり、ゆったりしていました。
桜の葉は殆んど散っていてありませんでしたが、紅葉(もみじ)はまだ色を保っていて綺麗でした。
前回の桜の時には人が多すぎて、右側の流れに入ったら左側には殆んど行けない状態で流れて行きましたが、
昨日は何度も左右に行き来出来ましたので、左側の建物などの写真を
屋根瓦に菊の御紋の入った御門は、名前も由来も分かりませんが古くて趣のあるものでした。
御門に続いて、多聞のような長屋が、
その長屋にあった門です。
この長屋の反対側にあるのが
江戸城本丸にある「富士見多聞」です。
「桜と多聞」も良いですが、「紅葉と多聞」も格別!

また左側に行って、今度は「道灌濠」をじっくり見て撮れました。
現在は池のように小さくなった道灌濠ですが、家康公が入城する前からあってもっと大きかったそうです。
此処からまた右側へ移動して、前回は通り過ぎた「西桔橋門(にしはねばしもん)」跡から本丸方面へと行きました。
したがって、前回の時にくぐった「乾門」へは行けません。
門跡の橋と石垣があるのみの西桔橋門跡です。
本丸へ抜ける人達で此処は渋滞していました。
土橋の上から見た「蓮池濠」です。
同じ場所から、左側の「乾濠(以前は三日月濠)」を眺めた写真です。
土橋から桔橋(はねばし)を渡ります。
橋の右側下は蓮池濠ですが、雑草で覆われていました。
反対の左側下は、乾濠の水が青い空を映していました。
敵が攻めてきた時には、この橋は本丸側に跳ね上げて渡れないようになっていました。
江戸時代の此処には、どんなふうに門や櫓が建ち並んでいたのかと想像するだけでも、ワクワクしてしまいます。
出口付近のこの石垣上には、三重の「菱櫓」がそびえ立っていたかも(もっと右側の石垣上だと思いますが)・・・。
この出口には、本丸入口の「柚木門」跡があります。本丸側から振り返って見た右側の石垣と
左側の門跡の石垣です。
すぐ後ろには大きな天守台が此の角度から見られます。
見事な石垣が見られます。
最後に今回の地図を

今回はここまでです。
ではまた!


江戸城・汐見坂と門跡

2014-11-28 | お城・史跡

今回は、前回の梅林坂への三差路を左方面へ高石垣(梅林坂・汐見坂間石垣)に沿って此処へきました。
上の写真の右奥が前回の梅林坂への入り口です。
この石垣が築造(明暦2年・1656年から)される前の此処には、三代将軍家光公によって、短期間ですが家康公を祀る「東照社」が建てられていたそうですが、川越城に移築されました。

平成に入り、長年月による石垣の傷みや「はらみ現象」による崩れを防止する為の大修復工事が、平成13年から17年にかけて行なわれました。
その模様は道路際の表示板に詳しく書かれています。

此処の後ろ側が、二の丸庭園への道になっています。
坂全体を見ましょう。

上写真は二の丸側から見たところです。
それでは「汐見坂」を上ってみます。

この汐見坂は、江戸時代には石の階段でした。
坂の途中で左側を見ると
「白鳥濠」があります。
当時は地下から水が湧いていて、籠城戦でも飲み水として使用できたそうです。
坂の左上の石垣上には、「汐見櫓」が建っていました。
看板を見てみると(明治初期の古写真には坂の上に冠木門がありますが、その奥の櫓門は既にありません)
此処の右側には「汐見櫓門」がありました。
古写真でも見ませんので、幕末にはすでに無くなっていたのかもしれませんね!
本丸に入る櫓門の石垣は、かなり激しく焔に曝されたようで
すぐ傍で見ると、こんなに
割れて劣化しています。
これも江戸城の火災の生の歴史なのでしょうね!
そんな事を思いめぐらせながら櫓門跡をくぐって、振り返ると
ただの石垣があるだけのような佇まいをみせて、静かにそこに・・・!
そして此処からすぐ右側に、「皇居東御苑楽部」の建物が
運が良いと、雅楽の笙などの妙なる調べを耳にする事がありますよ!
楽部を過ぎ右に曲がって行くと
この角度から「天守台」に行けます。
最後に梅林坂からのルートを!