それでは、私の考えを述べさせていただく前に、いくつかの仮説を紹介します。
まず、「宮之城線」で検索をした中で、最も丁寧にまとめられているのが、吉田恭一さんの「The Ruins of Rail」です。
宮之城線についてのひとまとまりの探訪記としては、おそらく最高のものだと思います。
その一文を勝手ながら紹介させていただきます。
この薩摩永野がスイッチバック線形になったのは、勾配のためというよりは、花輪線の十和田南と同様、線路選定の際の複雑な事情によるものだという。
たしかに地形図を開いてみると、さきほどのR地点から南川に沿って南東方向に進み、池山という集落のあたりから左に曲がって500メートルほどのトンネルを掘れば、薩摩永野を運転上の障害となるスイッチバック駅にすることもなかったように見える。
九州南部では、既存の軽便鉄道を改良して開通した日南線の飫肥付近や、旧大隅線の鹿屋付近が、総距離は長くなったものの、大きく回り込む線形によって、スイッチバックになることを避けている。特に、飫肥付近は薩摩永野と同じような時期の建設で、スイッチバック解消のためにトンネルまで掘っている。
しかし、こうやって現地を訪れてみると、意外なほど川内方・薩摩大口方の両者の線路跡に高低差がある。特に、大口方の線路跡の道路の築堤は、これでも鉄道時代から削られているからなおさらである。勾配上の理由も相まって、スイッチバック線形を選択したような印象を受けた。
この駅から南西方に分け入る谷を使って、肥薩線の薩摩横川まで、延伸構想が練られたこともあった。ちなみに、その方向には「鉱事場」、あるいは「金山」という地名があることからもわかるように、1640年(寛永17年)に発見され、昭和28年に閉山となるまで、およそ300年もの長きにわたって続いた永野金山(山ヶ野金山とも呼ばれる)があった。最盛期には、佐渡を抜いて日本一の産金高を誇ったほどで、1万もの人々がこの近辺に住みついていたというが、今は昔、繁栄は追憶のかなたである。
氏は、「線路選定の際の複雑な事情」を挙げていらっしゃるのですが、それがどんな事情かが分かりません。
ただ、ルートを若干南側に振り、池山集落側へいったん回り込んで、永野の中心部を通過させようとする発想はおもしろいし、これが現実のものとなっていたとしたら、鹿児島交通(南薩鉄道)の伊作駅を彷彿させる線形・町並みになっていただろうと想像することは実に楽しいのです。
ともあれ、Wikipediaが否定している勾配上の理由を取り上げているところが、現地を見た上での分析であり、おもしろいと思います。
PS
写真は薩摩永野とは全く関係ありません。
川内~薩摩白浜間にある皿山川橋梁のすぐ近くの藪の中に、ころがっていました。踏切関係の施設だと思うのですが・・・
今回を手始めに、この連載企画とは全く関係ありませんが、これまでにまだ紹介していない写真を出していきたいと思います。
まず、「宮之城線」で検索をした中で、最も丁寧にまとめられているのが、吉田恭一さんの「The Ruins of Rail」です。
宮之城線についてのひとまとまりの探訪記としては、おそらく最高のものだと思います。
その一文を勝手ながら紹介させていただきます。
この薩摩永野がスイッチバック線形になったのは、勾配のためというよりは、花輪線の十和田南と同様、線路選定の際の複雑な事情によるものだという。
たしかに地形図を開いてみると、さきほどのR地点から南川に沿って南東方向に進み、池山という集落のあたりから左に曲がって500メートルほどのトンネルを掘れば、薩摩永野を運転上の障害となるスイッチバック駅にすることもなかったように見える。
九州南部では、既存の軽便鉄道を改良して開通した日南線の飫肥付近や、旧大隅線の鹿屋付近が、総距離は長くなったものの、大きく回り込む線形によって、スイッチバックになることを避けている。特に、飫肥付近は薩摩永野と同じような時期の建設で、スイッチバック解消のためにトンネルまで掘っている。
しかし、こうやって現地を訪れてみると、意外なほど川内方・薩摩大口方の両者の線路跡に高低差がある。特に、大口方の線路跡の道路の築堤は、これでも鉄道時代から削られているからなおさらである。勾配上の理由も相まって、スイッチバック線形を選択したような印象を受けた。
この駅から南西方に分け入る谷を使って、肥薩線の薩摩横川まで、延伸構想が練られたこともあった。ちなみに、その方向には「鉱事場」、あるいは「金山」という地名があることからもわかるように、1640年(寛永17年)に発見され、昭和28年に閉山となるまで、およそ300年もの長きにわたって続いた永野金山(山ヶ野金山とも呼ばれる)があった。最盛期には、佐渡を抜いて日本一の産金高を誇ったほどで、1万もの人々がこの近辺に住みついていたというが、今は昔、繁栄は追憶のかなたである。
氏は、「線路選定の際の複雑な事情」を挙げていらっしゃるのですが、それがどんな事情かが分かりません。
ただ、ルートを若干南側に振り、池山集落側へいったん回り込んで、永野の中心部を通過させようとする発想はおもしろいし、これが現実のものとなっていたとしたら、鹿児島交通(南薩鉄道)の伊作駅を彷彿させる線形・町並みになっていただろうと想像することは実に楽しいのです。
ともあれ、Wikipediaが否定している勾配上の理由を取り上げているところが、現地を見た上での分析であり、おもしろいと思います。
PS
写真は薩摩永野とは全く関係ありません。
川内~薩摩白浜間にある皿山川橋梁のすぐ近くの藪の中に、ころがっていました。踏切関係の施設だと思うのですが・・・
今回を手始めに、この連載企画とは全く関係ありませんが、これまでにまだ紹介していない写真を出していきたいと思います。