同じ作業をしていても、仕事である場合、ボランティアである場合、家族の場合 では違います。
仕事の場合は報酬を得るためであり、そこにやりがいはっきりした目的があります。
ボランティアの場合報酬は無いでしょうけど(有償の場合もありますが)他人の役に立っている、社会に貢献していると言う満足感があるでしょう。
そして自分が嫌ならいつでもやめられます。
家族の場合は報酬は無く、家族なのだから当たり前と言う訳でボランティア意識を持つというわけにはいかず社会に貢献していると言う意識は持てません。
嫌でもやめるわけにはいきません。
この中で一番つらいのは家族の介護でしょう。
同じ作業をしていてもどういう立場で行うかで全く違います。
似ている作業に子育てがあるでしょう。
これも幼稚園あたりまではそうとう手がかかります。
でも、見通しが立ちますね。
いつまで続くか分からない仕事はつらいです。
しかも子育てのように希望が持てる作業ではありません。
次第に衰える家族の姿に24時間付き合い、やり遂げると言うことは看取りであり、明るいものではありません。
やり遂げたとしてもその頃は自分も介護状態に近い年齢になっていて、看てくれる家族もいないと言う状態になる人もそうとう多いはずです。
そうなると孤死 「 特攻隊 」 の気持ちに重なります。
家族の介護を意義あるものにするにはどうすれば良いのでしょう。
先日書いた 主介護者給付金制度のアイデア は 介護休業や離職で収入が無くなったり少なくなったりする中で金銭的に少しはやりがいを見出すきっかけになるかも知れません。
本で見たのですけど、兄弟などが分担して介護をす場合、担当した人にはみんなで出し合ったお金から僅かですけど報酬を出すと言うアイデア。
これは分担する親族が複数いる場合は出来るでしょうけど私のように単独の場合は無理。
たまには自分へのご褒美と言うのもありますけど、収入をわずかな年金(私の場合国民年金なので月5~6万)に頼るような生活では高価なものを買う気も起りません。(今までけっこう無駄遣いはしていますけど)
趣味に打ち込んで気分転換と言う人もいます。
何かの教室に通うとか体操をやるとか。
お金をかけないで健康に良く、精神的にもうつ病予防となると、朝3時間の家事、介護を7時頃終わらせると自分の仕事や雑用を9時過ぎまでやってお昼の準備までの時間に公園を10キロ歩けますので、、私の場合やはり記公歩きでしょうね。
街を歩いていると車いすとか手押し車、杖でやっと歩いている人も多く見かけます。
歩くことのできる幸せの大きさを考えながら歩かなければ罰があたりますね。
つい大変だと視野狭窄になりますけど、見方を変えて広く周りを見ると自分は案外幸せなのだと気が付きます。
他と比べることは不幸の始まりですけど、客観的に自分を眺めると案外気持ちが楽になることがあります。
もっと大変な人もいる、広い視野で自分を客観視するのは良いのかも知れませんね。
上を見ればきりがない、下を見てもきりがない、自分の幸せはいつも自分の位置にあり!
とにかく今日生きていることに感謝してやるべきことをやる、ですかね。
昨日は久しぶりにバイクに乗って楽しかったです。
バイクは視覚0、足元からすべて視界に入っています。
そして車と違って旋回するときの体感!
体力と運動感覚は車と違いますけど、まだ大丈夫なようです。
昨日帰ったらびっくり、スズメたちがバルコニーの手すりなどに数十匹、とまっていました。
門の上のフィーダーは人気スポットになっているようです。
ほぼ無くなっていたので足してあげたら夕方までにまたかなり減っていました。
なついてくれると楽しいのですけど野生ですから無理ですね。