暇つぶし、とか、退屈しのぎというと、マンガとか、ゲーム、掲示板とかツイッター、…と、やたらに目を使うものが多いですね。目を使わないのは音楽ぐらい?
若い世代が夢中になるようなものって、スポーツ観戦を筆頭にスピード感を楽しむものが多いようで。子供は動くものなら何でもって感じですが、10代20代では動くものでもスピード感のあるもの。そんでジジイになると、動くものよりも止まっているもの、花とか書とか、茶とか、そうそう、酒もありましたね。
で、こういうのって、何か理由があるのかなって思いまして。これが今日のお題です。
釣り師、それも50代、60代のベテランの人に聞くと、カワハギとかシロギスとかタチウオとか、アタリの出方がいやらしくて、そのアタリの出方に応じて食わせてやらなければ釣れないような魚が面白いと言います。竿に伝わってくる魚信の多彩さを楽しんでいるわけですよね。そういう釣りほど道具もスゴイ。種類も豊富で専門的になっていますね。
反対に子どもにウキを使わない釣りをやらせると、すぐに飽きてしまうわけですけど、玉ウキを使った雑魚釣りなどは面白がってやっています。防波堤のサビキ釣りでも、ウキのついたウキサビキが子どもには人気です。玉ウキがジャミに突っつかれて動いていると、本アタリなどなくても退屈しないのですね。確かに自分も子どもの頃は、釣れても釣れなくてもずっと玉ウキを眺めていた覚えがあります。安いセルウキをたくさん持っている子どもがいると、なんだか羨ましかったです。
それが今では「ウキなんざ、くだらねえ」と言ってるんですから、おかしなもんです。
ナブラもないのにメタルジグを延々と投げるのも、すぐに飽きてしまいますが、そこでミノーを投げてルアーの動きを目で見ていると、わりと集中力が持続します。ミノーがよく見えないときはやっぱり飽きてしまって、やたらにポッパーを投げたりして。どうせ釣れないのにね。
さて、「脈釣りは眼の断食」これが私の持論でもあります。渓流の脈釣りでは目印でアタリをとりますが、他の大体の釣りでは脈釣りだと目印は水深を測るもので(リールを使う釣りでは目印もない)、アタリはコツコツという竿の感触でとります。竿と糸を通した手探りの海底探検ですね。
普段私たちが当り前のように使っている「眼」ですが、当り前のように目を使う、目を使って位置を確認して手でそれをつかむということ、それも薄暗い中だったり、歩きながら・走りながらだったりということをあっさりとやってのけるわけですけれども、このことはよく考えてみると本当に凄いことです。
眼というセンサー自体が超高感度・超高解像度の超精密機械であることと、それを処理する画像処理エンジンがとてつもなく高性能なプロセッサーだということの2点が、眼という器官を特別なものにしています。眼はあまりにも繊細な器官なので、他の器官と比べても、早く疲労します。視力の低下は午後3時ぐらいから始まるそうです。そして、睡眠時間を十分にとらないと視力が朝までに回復しません。寝不足だと、次の日確かに視力が落ちます。
成人の人間の眼が瞬時に物を区別し、位置を把握して一連の動作につなげるという、ここまで来るのにはものすごい膨大な集積が必要だったはずです。言うまでもなく赤ん坊が細かいものまではっきり区別できるわけでもなく、また、動いているものを瞬時に判断してつかまえるということができるわけでもありません。
そうした一連の芸当を一人前の大人としてやってのけるようになるためには、その子どもに対して、途中で諦めさせないような仕組みが絶対に必要です。言い換えれば、ごほうびです。嬉しいとか楽しいとか、そういうことですね。そういう遊びを通して、必要な器官を徐々に発達させていくんではなかろうかと。目の機能を最大限使うためには、肝臓からブドウ糖が供給されなければなりません。酸素もたくさん必要です。ということは「内臓」の方も充分に発達していなければいけないということになりますね。
そういう、後天的に徐々に発達させていくものって、DNAに書いてあるものではないですよね。とりあえず生まれたばかりの赤ん坊が、まだ未発達な「眼」に対して「よし、いっちょこの目ってやつを使ってやろうじゃないか」という気分にさせてくれるようなエサがないと困るというわけですね。それが欲望なのだと。眼は使わなければ発達しませんから。
ようは目玉の「工場出荷状態」が欲望と結びついた「目的に沿った行動」に強く結びついているということですね。パッケージを空けたばかりの電化製品が、動くかどうか分からなかったら、困ります。それでプリインストールはとりあえずホームエディションだと。若い頃はグルメ番組でおいしそうな料理が出て来るとお腹がグーグー鳴ってたじゃないですか。このことはその一例だと思うんですよね。
それがちょっと年取ってくると、他人の目ばかり気にするようになり、やれ、どうやったら格好良くできるかだとか、早くできるかだとか、思った通りにできてるのか、そんなことばかり気にするようになります。完璧にできないとイライラします。なんかそれも、そういうメカニズムというか「報酬」みたいなものが、あるんじゃないでしょうか。たとえばライバルがいてくれると何故かモチベーションが上がる、とか、ゆっくりていねいに仕事することができないとか。ひどいときはゆっくり歩くということさえも、どうしたわけかできなくなっていたりして。
どうやったらこういう状態から抜け出せるのでしょう?もちろんホームエディションよりはちょっとはマシなのですが、これはこれでまた情けない。まだまだプロフェッショナル版とはとうてい呼べず、成り損ないのスタンダード版といったところでしょうか。中途半端版。なり切れないもどかしさ。今までは「そういう性格なんだからしょうがねえ」「凝り性だから釣りに嵌まったんだ」なんて言ってましたが。どんどんそれがエスカレートしちゃって、自分にイライラしまくりの日々。ここまで来ると楽しいというよりも、苦しいですね。苦しいけれど仕事がやめられない。これぞまさしくタコツボ化。自分の思った通りのプロセスで仕事が進捗しないとイライラする。気が付くと呼吸が速くなっている。なんだか日本中がそんなふうになっている。やばいね。
そういうイライラしたとき、あるいは誰かからもらいイライラしちゃった時に、防波堤釣りなどに出掛けて、手感でアタリをとっていると、なんかスッキリするんですよね。これって最高の治療薬だなあと。もしかすると、中高年の高血圧って、これなのかも!?
治療方法、というかプロフェッショナル版への道は、「目を使わないこと」なのかもしれません。なぜなら、眼が、成功と不成功とを常に監視してるわけですから…。
う~ん、してみると、渓流釣りで真剣になって目印に目を凝らすのは、あんまりよくないのかなあ。
若い世代が夢中になるようなものって、スポーツ観戦を筆頭にスピード感を楽しむものが多いようで。子供は動くものなら何でもって感じですが、10代20代では動くものでもスピード感のあるもの。そんでジジイになると、動くものよりも止まっているもの、花とか書とか、茶とか、そうそう、酒もありましたね。
で、こういうのって、何か理由があるのかなって思いまして。これが今日のお題です。
釣り師、それも50代、60代のベテランの人に聞くと、カワハギとかシロギスとかタチウオとか、アタリの出方がいやらしくて、そのアタリの出方に応じて食わせてやらなければ釣れないような魚が面白いと言います。竿に伝わってくる魚信の多彩さを楽しんでいるわけですよね。そういう釣りほど道具もスゴイ。種類も豊富で専門的になっていますね。
反対に子どもにウキを使わない釣りをやらせると、すぐに飽きてしまうわけですけど、玉ウキを使った雑魚釣りなどは面白がってやっています。防波堤のサビキ釣りでも、ウキのついたウキサビキが子どもには人気です。玉ウキがジャミに突っつかれて動いていると、本アタリなどなくても退屈しないのですね。確かに自分も子どもの頃は、釣れても釣れなくてもずっと玉ウキを眺めていた覚えがあります。安いセルウキをたくさん持っている子どもがいると、なんだか羨ましかったです。
それが今では「ウキなんざ、くだらねえ」と言ってるんですから、おかしなもんです。
ナブラもないのにメタルジグを延々と投げるのも、すぐに飽きてしまいますが、そこでミノーを投げてルアーの動きを目で見ていると、わりと集中力が持続します。ミノーがよく見えないときはやっぱり飽きてしまって、やたらにポッパーを投げたりして。どうせ釣れないのにね。
さて、「脈釣りは眼の断食」これが私の持論でもあります。渓流の脈釣りでは目印でアタリをとりますが、他の大体の釣りでは脈釣りだと目印は水深を測るもので(リールを使う釣りでは目印もない)、アタリはコツコツという竿の感触でとります。竿と糸を通した手探りの海底探検ですね。
普段私たちが当り前のように使っている「眼」ですが、当り前のように目を使う、目を使って位置を確認して手でそれをつかむということ、それも薄暗い中だったり、歩きながら・走りながらだったりということをあっさりとやってのけるわけですけれども、このことはよく考えてみると本当に凄いことです。
眼というセンサー自体が超高感度・超高解像度の超精密機械であることと、それを処理する画像処理エンジンがとてつもなく高性能なプロセッサーだということの2点が、眼という器官を特別なものにしています。眼はあまりにも繊細な器官なので、他の器官と比べても、早く疲労します。視力の低下は午後3時ぐらいから始まるそうです。そして、睡眠時間を十分にとらないと視力が朝までに回復しません。寝不足だと、次の日確かに視力が落ちます。
成人の人間の眼が瞬時に物を区別し、位置を把握して一連の動作につなげるという、ここまで来るのにはものすごい膨大な集積が必要だったはずです。言うまでもなく赤ん坊が細かいものまではっきり区別できるわけでもなく、また、動いているものを瞬時に判断してつかまえるということができるわけでもありません。
そうした一連の芸当を一人前の大人としてやってのけるようになるためには、その子どもに対して、途中で諦めさせないような仕組みが絶対に必要です。言い換えれば、ごほうびです。嬉しいとか楽しいとか、そういうことですね。そういう遊びを通して、必要な器官を徐々に発達させていくんではなかろうかと。目の機能を最大限使うためには、肝臓からブドウ糖が供給されなければなりません。酸素もたくさん必要です。ということは「内臓」の方も充分に発達していなければいけないということになりますね。
そういう、後天的に徐々に発達させていくものって、DNAに書いてあるものではないですよね。とりあえず生まれたばかりの赤ん坊が、まだ未発達な「眼」に対して「よし、いっちょこの目ってやつを使ってやろうじゃないか」という気分にさせてくれるようなエサがないと困るというわけですね。それが欲望なのだと。眼は使わなければ発達しませんから。
ようは目玉の「工場出荷状態」が欲望と結びついた「目的に沿った行動」に強く結びついているということですね。パッケージを空けたばかりの電化製品が、動くかどうか分からなかったら、困ります。それでプリインストールはとりあえずホームエディションだと。若い頃はグルメ番組でおいしそうな料理が出て来るとお腹がグーグー鳴ってたじゃないですか。このことはその一例だと思うんですよね。
それがちょっと年取ってくると、他人の目ばかり気にするようになり、やれ、どうやったら格好良くできるかだとか、早くできるかだとか、思った通りにできてるのか、そんなことばかり気にするようになります。完璧にできないとイライラします。なんかそれも、そういうメカニズムというか「報酬」みたいなものが、あるんじゃないでしょうか。たとえばライバルがいてくれると何故かモチベーションが上がる、とか、ゆっくりていねいに仕事することができないとか。ひどいときはゆっくり歩くということさえも、どうしたわけかできなくなっていたりして。
どうやったらこういう状態から抜け出せるのでしょう?もちろんホームエディションよりはちょっとはマシなのですが、これはこれでまた情けない。まだまだプロフェッショナル版とはとうてい呼べず、成り損ないのスタンダード版といったところでしょうか。中途半端版。なり切れないもどかしさ。今までは「そういう性格なんだからしょうがねえ」「凝り性だから釣りに嵌まったんだ」なんて言ってましたが。どんどんそれがエスカレートしちゃって、自分にイライラしまくりの日々。ここまで来ると楽しいというよりも、苦しいですね。苦しいけれど仕事がやめられない。これぞまさしくタコツボ化。自分の思った通りのプロセスで仕事が進捗しないとイライラする。気が付くと呼吸が速くなっている。なんだか日本中がそんなふうになっている。やばいね。
そういうイライラしたとき、あるいは誰かからもらいイライラしちゃった時に、防波堤釣りなどに出掛けて、手感でアタリをとっていると、なんかスッキリするんですよね。これって最高の治療薬だなあと。もしかすると、中高年の高血圧って、これなのかも!?
治療方法、というかプロフェッショナル版への道は、「目を使わないこと」なのかもしれません。なぜなら、眼が、成功と不成功とを常に監視してるわけですから…。
う~ん、してみると、渓流釣りで真剣になって目印に目を凝らすのは、あんまりよくないのかなあ。