神経はリセットすればコントラストが上がる――考えてみれば千利休という人は大変な眼と耳の持ち主だったんだと思うのですよね。あの豊臣秀吉をきらびやかな部屋から連れ出し、小さい戸口を通し無理矢理頭を垂れさせ、古びた茶器などというあえて素っ気無いものを愛でさせることによって、飽食しまくった眼をリセットさせ、そろそろよいかなと思われる頃合で特別な水で淹れた茶を差し出す。あるいは恐ろしく狭い茶室、それも忍びの者の足音さえも聞こえてしまうような音響的にも考え抜かれた空間で客の耳を強制的にリセットさせる。しかも薄暗い。茶の味というものは飲む人の神経の状態によって旨くも不味くもなる。これは確かにそう。同じ景色でも、車の騒音の中で眺めるのと、辺りがシーンと静まり返った時に改めて眺めるのとでは全然違います。そういうことを利休自身が身をもって知っていた。だからこそ前例のない大胆なことができたのでしょう。
そして自分自身の体のみならず、大勢の客人を相手に実証した。だからこの「人を感動させる術」というのは、人間共通のものだと結論できた…。これはもう自分の思い込みなどではなく、客観的な事実なのだと。こうして一人また一人と信者を獲得することに成功した。茶人などくだらないと人は言うけれど、利休は茶で世の中を動かすことに成功した、数少ない人の一人なのではないかと想像しちゃうんですよね(黒澤明以外の映画監督はみんな逆を行っていますが…)。
で、時代は過ぎて、徳川家康が自分の死後日光東照宮に有名な「見ざる、聞かざる、言わざる」を作らせます。この謎かけのような不思議な遺物は、言葉による説教よりも力強く、私たちに語りかけてくるような気がしてくるじゃありませんか。
「人間が何か面白いものはないかと探し回り、またそのようにして眼を用いている限り、眼が本当の美を見ることはない。また何か珍しい話はないかと耳を傾けている限り、美しい音色を聞くことはないのじゃ」と。
口だってきっと同じはず。人が集まっている場でみんなを沸かせてやろう、ツッコミを入れてやろうとしゃべる時は、人間は「脳幹反射」というものをついつい使ってしまいます。スピーチをしたり歌を歌ったり、お経を唱えたりする時とはまた別の神経が働いてしまうのです。びっくりして「ワッ」と叫んだり、「キャー」と奇声を上げたりするときの神経が同種の「話す」という行為の中に混じり込みます。しかも聴いてもらおうとして情感を込めようとすればするほど、相手に信じ込ませようとすればするほどそうなります。えっ?さかなクン?か、彼は、わざとやってますから…。演技ですっ。
考えてみればDNAにあらかじめプログラムされた行動をひたすら繰り返すのが野生の動物なわけで、この「脳幹反射」というものを「サル」というシンボルで表現するというのがなんとも心憎いのであります。誰も自分のことを言われているとは思いませんからね。で『唯脳論』にはこうあります(カッコ内はワタシが補って入れました)。
プログラム、簡単に言うと、特定のパターンを認識した時にそれに対応する一群の神経が発火する、して、それが特定の筋肉の収縮にストレートに結びついているというわけです。でもこれは海軍が上陸した時に敷く一時的な仮の道路みたいなもので、それが済んだら水道なり、電話線なりレールなりを敷かなきゃいけないわけです。
「反射神経がするどい」という言葉があるように、一般には瞬時に反応できる能力を磨くことは良いことだと言われています。筋肉には疲れやすい筋肉と疲れにくい筋肉とがあるわけですが、瞬時に反応できる筋肉は疲れやすい方の筋肉です。古武術研究家の甲野善紀先生もすばやく動こうと思って刀を振り回す時の動きというのは、実はそんなに速くないということを言っていました。「速い!」と思うのは実は本人の錯覚もあるのだとか。命令が脳で処理されてから手に伝わるので、実際には時間のロスがあるらしいです。しかも来るぞ来るぞと相手の刀の動きを追っていると視覚処理の方も一瞬遅れてしまう…。
これはテンカラの世界でも「周辺視」と言われていて、毛針や魚の出そうなスポットを凝視するのではなく、その辺りをぼんやりと見ると良いと言われています。すると合わせても合わせても掛からなかったドライに出た魚が見事に掛かるという不思議な経験をすることになります。もちろんどんなふうに掛かったのかはピントが合ってないからわかりません。空中で掛かったのか、それとも着水してから掛かったのかなあって、自分でも時間感覚がヘンになったんじゃないかと一瞬思うわけです。忍法“やぶにらみ”ですね。この味をしめちゃうと普通に凝視していても釣れてしまうような魚はつまらない。サプライズがないからです。テンカラが釣れなければ釣れないほど面白いといわれるゆえんですね。こういう釣りって、意外と他にはないんですよ。で、え~~釣りはココロに効く眼の断食~ぃ。
ところで一説によると、私たち人間が日常見ている映像というのは、実は脳の処理時間による遅れをつじつま合わせした、かなりいい加減なものだとも言われています。しかも毎日見ているようなものだと、ちゃんと見ていても実際はチラッとしか見ていないのだとか。だから大人になると誤認というものが増えてくるのだと…。サッカーや野球など小さい頃から英才教育されている子供が、その道で一流になるとは限らず、むしろそんな中から1人か2人、スポーツ万能みたいなふうになるというのは、こういう背景があるんじゃないでしょうかねえ。実際、水泳とか高地トレーニングで酸素取り込み能力を高めるだけで、動体視力というのは結構上がるものですしね。サッカーの中田英寿さんが、街中で車を運転して、あとで途中どんな店があって店の名前はこうでということを詳細に言えたというのもねえ、やっぱり一流の人というのは違うのですね!
新潟や秋田には美人が多いと今でもよく言われますけれども、そこで思い当たるのが雪。来る日も来る日も雪の積もった道を歩いて学校へ通うわけです。古武術では意識的な表の筋肉を使わないようにして、強制的に隠れた筋肉を使うという特殊なトレーニングをするわけですけれども、「使おう」と思って使える筋肉を鍛えるのではなくて、その筋肉に隠れている筋肉を鍛えるというなんだか一瞬理解不能な稽古を真面目にやります。フランクリンメソッドとか言って、イスを後ろに引いて、尻餅を付きそうになるのを踏みとどまるというのがあるのですけど、あれと似たような感じです。これはハタから見るとおかしいかも。
で、最初の話に戻りますけど、やっぱり雪道をエッチラオッチラ転びながら歩くというのが、実は一番効果的だったりして。雪は音を吸収してしまうし、一面真っ白で色彩というものが全然ありませんしね。やっぱ雪だわ。
そして自分自身の体のみならず、大勢の客人を相手に実証した。だからこの「人を感動させる術」というのは、人間共通のものだと結論できた…。これはもう自分の思い込みなどではなく、客観的な事実なのだと。こうして一人また一人と信者を獲得することに成功した。茶人などくだらないと人は言うけれど、利休は茶で世の中を動かすことに成功した、数少ない人の一人なのではないかと想像しちゃうんですよね(黒澤明以外の映画監督はみんな逆を行っていますが…)。
で、時代は過ぎて、徳川家康が自分の死後日光東照宮に有名な「見ざる、聞かざる、言わざる」を作らせます。この謎かけのような不思議な遺物は、言葉による説教よりも力強く、私たちに語りかけてくるような気がしてくるじゃありませんか。
「人間が何か面白いものはないかと探し回り、またそのようにして眼を用いている限り、眼が本当の美を見ることはない。また何か珍しい話はないかと耳を傾けている限り、美しい音色を聞くことはないのじゃ」と。
口だってきっと同じはず。人が集まっている場でみんなを沸かせてやろう、ツッコミを入れてやろうとしゃべる時は、人間は「脳幹反射」というものをついつい使ってしまいます。スピーチをしたり歌を歌ったり、お経を唱えたりする時とはまた別の神経が働いてしまうのです。びっくりして「ワッ」と叫んだり、「キャー」と奇声を上げたりするときの神経が同種の「話す」という行為の中に混じり込みます。しかも聴いてもらおうとして情感を込めようとすればするほど、相手に信じ込ませようとすればするほどそうなります。えっ?さかなクン?か、彼は、わざとやってますから…。演技ですっ。
考えてみればDNAにあらかじめプログラムされた行動をひたすら繰り返すのが野生の動物なわけで、この「脳幹反射」というものを「サル」というシンボルで表現するというのがなんとも心憎いのであります。誰も自分のことを言われているとは思いませんからね。で『唯脳論』にはこうあります(カッコ内はワタシが補って入れました)。
原始的な運動系は、おそらく反射(主に脳幹反射)だけで成立している。前述のように、そこでは、知覚入力がただちに運動出力に結合する。(そして)その間(あいだ)にさまざまな余分(な処理)が介入することによって、中枢神経系が成立する。そうした余分は、まず運動の精緻さとして現れるであろう。別な表現をすれば、それが各運動のプログラムである。昆虫のように、ごく小さな脳しか持たない動物でも、すでにかなり複雑な「行動」を行なうことを考えれば、そうしたプログラムが我々の脳に相当量入ったとしてもおかしくはない。(『唯脳論』232ページ)
プログラム、簡単に言うと、特定のパターンを認識した時にそれに対応する一群の神経が発火する、して、それが特定の筋肉の収縮にストレートに結びついているというわけです。でもこれは海軍が上陸した時に敷く一時的な仮の道路みたいなもので、それが済んだら水道なり、電話線なりレールなりを敷かなきゃいけないわけです。
「反射神経がするどい」という言葉があるように、一般には瞬時に反応できる能力を磨くことは良いことだと言われています。筋肉には疲れやすい筋肉と疲れにくい筋肉とがあるわけですが、瞬時に反応できる筋肉は疲れやすい方の筋肉です。古武術研究家の甲野善紀先生もすばやく動こうと思って刀を振り回す時の動きというのは、実はそんなに速くないということを言っていました。「速い!」と思うのは実は本人の錯覚もあるのだとか。命令が脳で処理されてから手に伝わるので、実際には時間のロスがあるらしいです。しかも来るぞ来るぞと相手の刀の動きを追っていると視覚処理の方も一瞬遅れてしまう…。
これはテンカラの世界でも「周辺視」と言われていて、毛針や魚の出そうなスポットを凝視するのではなく、その辺りをぼんやりと見ると良いと言われています。すると合わせても合わせても掛からなかったドライに出た魚が見事に掛かるという不思議な経験をすることになります。もちろんどんなふうに掛かったのかはピントが合ってないからわかりません。空中で掛かったのか、それとも着水してから掛かったのかなあって、自分でも時間感覚がヘンになったんじゃないかと一瞬思うわけです。忍法“やぶにらみ”ですね。この味をしめちゃうと普通に凝視していても釣れてしまうような魚はつまらない。サプライズがないからです。テンカラが釣れなければ釣れないほど面白いといわれるゆえんですね。こういう釣りって、意外と他にはないんですよ。で、え~~釣りはココロに効く眼の断食~ぃ。
ところで一説によると、私たち人間が日常見ている映像というのは、実は脳の処理時間による遅れをつじつま合わせした、かなりいい加減なものだとも言われています。しかも毎日見ているようなものだと、ちゃんと見ていても実際はチラッとしか見ていないのだとか。だから大人になると誤認というものが増えてくるのだと…。サッカーや野球など小さい頃から英才教育されている子供が、その道で一流になるとは限らず、むしろそんな中から1人か2人、スポーツ万能みたいなふうになるというのは、こういう背景があるんじゃないでしょうかねえ。実際、水泳とか高地トレーニングで酸素取り込み能力を高めるだけで、動体視力というのは結構上がるものですしね。サッカーの中田英寿さんが、街中で車を運転して、あとで途中どんな店があって店の名前はこうでということを詳細に言えたというのもねえ、やっぱり一流の人というのは違うのですね!
新潟や秋田には美人が多いと今でもよく言われますけれども、そこで思い当たるのが雪。来る日も来る日も雪の積もった道を歩いて学校へ通うわけです。古武術では意識的な表の筋肉を使わないようにして、強制的に隠れた筋肉を使うという特殊なトレーニングをするわけですけれども、「使おう」と思って使える筋肉を鍛えるのではなくて、その筋肉に隠れている筋肉を鍛えるというなんだか一瞬理解不能な稽古を真面目にやります。フランクリンメソッドとか言って、イスを後ろに引いて、尻餅を付きそうになるのを踏みとどまるというのがあるのですけど、あれと似たような感じです。これはハタから見るとおかしいかも。
で、最初の話に戻りますけど、やっぱり雪道をエッチラオッチラ転びながら歩くというのが、実は一番効果的だったりして。雪は音を吸収してしまうし、一面真っ白で色彩というものが全然ありませんしね。やっぱ雪だわ。