日本中に広まってしまっている誤解の1つに、「繰り返し続けていれば上達する」という信念があります。そして、誰でも「自分が下手なのはきっと努力が足りないからなのだ」というふうに考えます。あるいはまた、指導者が生徒に対してそのように教えています。
何年か前に、いつも通っているプールで、あることに気付きました。日に日にどんどん上手くなっていく人がいる一方で、いつまでも上達しない人がいるということです。これははっきり2つに別れます。そしてその中間に位置する人はほとんどいないように思われました。
中間の人がいないということは、何かそこには理由があるということを意味しています。
で、失礼ながら、上達しない人たちを見てみましたが、違いが全くわかりませんでした(もちろん、ご覧になっている皆さんのことではありません)。スリムな体形でスイスイ気持ちよく泳いでいる人達だって、最初はフォームもばらばらでゼーゼー言いながらおっかなびっくり泳いでいたはずです。ですからフォームのちょっとした違いから、後で大きな差がつくというふうに考えるのはどうも違うみたいだなあと思いました。
となると泳ぎ始める年齢が関係してくるのかなあと考えたりもしました。子供を小さいうちから英才教育に通わせる親御さんなどはそういう発想に基づいていると思います。でも、そうすると「中間の人がいない」ということが説明できなくなります。実際、水泳などは大学に入ってから始める人もいるし、社会人になってから始める人もいるのですから。
ところが、先日、重大なことに気がついたのです。
なかなか上達しない人達のグループを見ると、なんと全員が全員とも、スタート時に、必ずあることをしていたのです。
そのあることとは、いったい何だったのでしょうか?
それは「背中を反らして大きく息を吸い込む」ことでした。
「そんなん当り前やろ!」とツッコミが入りそうですが、これが意外な盲点だったのです。
確かに、テレビでオリンピックのシーンなどを見ると、タイムを縮めるために飛び込んでからなかなか上がってきませんから、それを観た人は泳ぎ始めの時についつい息をたくさん吸い込んでしまいがちです。まあ確かに息をひゅっと大きく吸い込んだほうがガッツが出て「やるぞ」という感じにはなりますが。
ところがよく見ると上手い人ほど、大会などの時は別として、普段の練習ではスタート時にはそんなに吸い込んでいません。傍から見ると平常心に見えます。それはそうです。どっちみち後で何度でも息継ぎできるのだから、最初にたくさん吸い込んでおく必要はないわけです。ですから全力で泳ぐときでも肺の酸素が足りなくなるとか、タイムが0.何秒遅くなるとかいう心配は要らないわけです。意気込んだり身構える必要さえもないわけです。
ところで脳の働きからいうと、「息を吸う」「食べる」「飲む」「咀嚼する」「泣く(鳴く)」などの動作は脳幹にあらかじめプログラムされた動作なのだそうです。ネズミでも赤ちゃんでもこれらの動作は自発的にできるようになっているということです。
P. M. ミルナーという学者の説によれば「食べる、噛む、飲み込む、頭の動きを変えるなどの動作があらかじめプログラムされている脳幹の神経回路は、中枢神経系のより上位の神経機構によって抑制を受けており、何らかの動作を伴った反応が引き起こされるときには、この抑制機構自身が抑制される」のだそうです(※)。
これらの動作は「条件反射」とは決定的な違いがあります。熱いものに手を触れて手を引っ込めるといったような苦痛から逃れるタイプの動作とは違って、報酬を得るタイプ、目的志向の動作だと言えます。ということは原始的でありながらも、意外にも「報酬に基づいた学習」ということと密接に関連しているということになります。
ミルナーはこれを「自然の報酬によって強化される反応」と呼んでいます。
思わず無意識に息をひゅっと吸い込んでからスタートするということをしていると、いつも「泳ぐ」ということに「息をひゅっと吸う」という余計な動作をくっつけて身体に覚え込ませていることになります(図)。
ほとんどの人が間違いなく自分なりの目標なり課題をもって取り組んでいます。「タイムを縮めよう」とか「200m泳ぎきろう」とかですね。本当に無心でスポーツをしている人は1000人に1人もいないはずです。
たぶんこれには「えっ」と思う人も多いことと思います。けれども本人が気付かないだけで誰でも多かれ少なかれあるはずなんです。たとえばこんなふうにです。
「スピーディーにやり遂げよう」
「正確にやり遂げよう」
「最後までやり抜こう」
「集中してやり続けよう」
「もっと上手くなろう」
「あんなふうにかっこよくできたらなあ」
「あいつにだけは負けたくない」…
「早く終わらせて家に帰りたい」というのでも立派に、目標・課題の役割を果たしていると思います(笑)。
さて、「勝つ」ということに比べてしまえば、その喜びは確かに明らかに小さいですが、自分で課した目標なり課題が達成できたということもひとつの報酬になっています。言い換えるとこれは「食べる」とか「飲む」というのとは別系統の高度な学習システムのわけです。やり遂げることができたということが新たな喜びとなって、またチャレンジしようという意欲が湧いてきます。何となくやれそうだなとか、目標を上方修正するときって、実はこういうときなのではないですか? 何でも上達しているときは楽しくて、自発的にどんどんやるようになりますよね。
自分が確かに目標をもって行動しているのにそれに気付かない場合が多いというのは、一昔前の保健体育で教えられた、フロイト流の「人間は欲に基づいて行動しているはずだ」という考え方そのものだと思います。日本人は、わりとこれが染みついちゃっているんですよね。
例に挙げた水泳のケースの場合はミルナーの言う「あらかじめ脳幹にプログラムされた動作」が入り込んでしまっているために、その効果が薄れてしまう、あるいは邪魔されるということは考えられないでしょうか? なぜなら大脳の理性的な働きが普段原始的な行動を抑制しているわけですから。
駅伝などでも、昔はたすきを渡すとそのまま毛布の中に倒れ込むシーンがよく見られましたが最近は少なくなりました。息は上がっているけれども話し掛ければ答えられる、そんな感じです。昔だったら「この大事な大会の時に、気絶するぐらいでなきゃ即リンチだ」みたいな。今は時代なのか科学的になってきたということでしょうか。
水泳でも「うちの子は何もやろうとしない」とか「言うことを聞かないから」といってなるべく厳しいコーチに指導をして欲しいという親御さんもいて、実際ビシビシやってるクラブほど人が集まっていますけれども、考えてみれば怒鳴ったりするだけで子供の脳幹はすごく活性化しているわけです。子供の能力を育てるという面では、こういう指導の仕方はたぶん間違っていると思います。もっとも、おとなしくて言うことをよく聞く子供にしたいのなら話は別ですが。
さきほどの「抑制機構自身が抑制される」というのは身体の仕組みとしてはすごく不自然で奇妙な感じがするんですけど、ちょっと前に「ためしてガッテン」でアルツハイマーのことをやっていて、「どうしてアルツハイマーの患者が攻撃的になったり、被害妄想をしたりするのか」ということの説明として、それは扁桃体という敵・味方を区別する部分が普段は上位の神経(大脳新皮質など)に抑制されているが、大脳の働きが急に衰えてしまうと一見して扁桃体の働きが活発化したような振る舞いを見せる、だから攻撃的になってしまうと言ってました。これと同じですね。
※ G. J. モーゲンソン「神経生物学から見た動機づけ行動」培風館(1977年)
何年か前に、いつも通っているプールで、あることに気付きました。日に日にどんどん上手くなっていく人がいる一方で、いつまでも上達しない人がいるということです。これははっきり2つに別れます。そしてその中間に位置する人はほとんどいないように思われました。
中間の人がいないということは、何かそこには理由があるということを意味しています。
で、失礼ながら、上達しない人たちを見てみましたが、違いが全くわかりませんでした(もちろん、ご覧になっている皆さんのことではありません)。スリムな体形でスイスイ気持ちよく泳いでいる人達だって、最初はフォームもばらばらでゼーゼー言いながらおっかなびっくり泳いでいたはずです。ですからフォームのちょっとした違いから、後で大きな差がつくというふうに考えるのはどうも違うみたいだなあと思いました。
となると泳ぎ始める年齢が関係してくるのかなあと考えたりもしました。子供を小さいうちから英才教育に通わせる親御さんなどはそういう発想に基づいていると思います。でも、そうすると「中間の人がいない」ということが説明できなくなります。実際、水泳などは大学に入ってから始める人もいるし、社会人になってから始める人もいるのですから。
ところが、先日、重大なことに気がついたのです。
なかなか上達しない人達のグループを見ると、なんと全員が全員とも、スタート時に、必ずあることをしていたのです。
そのあることとは、いったい何だったのでしょうか?
それは「背中を反らして大きく息を吸い込む」ことでした。
「そんなん当り前やろ!」とツッコミが入りそうですが、これが意外な盲点だったのです。
確かに、テレビでオリンピックのシーンなどを見ると、タイムを縮めるために飛び込んでからなかなか上がってきませんから、それを観た人は泳ぎ始めの時についつい息をたくさん吸い込んでしまいがちです。まあ確かに息をひゅっと大きく吸い込んだほうがガッツが出て「やるぞ」という感じにはなりますが。
ところがよく見ると上手い人ほど、大会などの時は別として、普段の練習ではスタート時にはそんなに吸い込んでいません。傍から見ると平常心に見えます。それはそうです。どっちみち後で何度でも息継ぎできるのだから、最初にたくさん吸い込んでおく必要はないわけです。ですから全力で泳ぐときでも肺の酸素が足りなくなるとか、タイムが0.何秒遅くなるとかいう心配は要らないわけです。意気込んだり身構える必要さえもないわけです。
ところで脳の働きからいうと、「息を吸う」「食べる」「飲む」「咀嚼する」「泣く(鳴く)」などの動作は脳幹にあらかじめプログラムされた動作なのだそうです。ネズミでも赤ちゃんでもこれらの動作は自発的にできるようになっているということです。
P. M. ミルナーという学者の説によれば「食べる、噛む、飲み込む、頭の動きを変えるなどの動作があらかじめプログラムされている脳幹の神経回路は、中枢神経系のより上位の神経機構によって抑制を受けており、何らかの動作を伴った反応が引き起こされるときには、この抑制機構自身が抑制される」のだそうです(※)。
これらの動作は「条件反射」とは決定的な違いがあります。熱いものに手を触れて手を引っ込めるといったような苦痛から逃れるタイプの動作とは違って、報酬を得るタイプ、目的志向の動作だと言えます。ということは原始的でありながらも、意外にも「報酬に基づいた学習」ということと密接に関連しているということになります。
ミルナーはこれを「自然の報酬によって強化される反応」と呼んでいます。
思わず無意識に息をひゅっと吸い込んでからスタートするということをしていると、いつも「泳ぐ」ということに「息をひゅっと吸う」という余計な動作をくっつけて身体に覚え込ませていることになります(図)。
ほとんどの人が間違いなく自分なりの目標なり課題をもって取り組んでいます。「タイムを縮めよう」とか「200m泳ぎきろう」とかですね。本当に無心でスポーツをしている人は1000人に1人もいないはずです。
たぶんこれには「えっ」と思う人も多いことと思います。けれども本人が気付かないだけで誰でも多かれ少なかれあるはずなんです。たとえばこんなふうにです。
「スピーディーにやり遂げよう」
「正確にやり遂げよう」
「最後までやり抜こう」
「集中してやり続けよう」
「もっと上手くなろう」
「あんなふうにかっこよくできたらなあ」
「あいつにだけは負けたくない」…
「早く終わらせて家に帰りたい」というのでも立派に、目標・課題の役割を果たしていると思います(笑)。
さて、「勝つ」ということに比べてしまえば、その喜びは確かに明らかに小さいですが、自分で課した目標なり課題が達成できたということもひとつの報酬になっています。言い換えるとこれは「食べる」とか「飲む」というのとは別系統の高度な学習システムのわけです。やり遂げることができたということが新たな喜びとなって、またチャレンジしようという意欲が湧いてきます。何となくやれそうだなとか、目標を上方修正するときって、実はこういうときなのではないですか? 何でも上達しているときは楽しくて、自発的にどんどんやるようになりますよね。
自分が確かに目標をもって行動しているのにそれに気付かない場合が多いというのは、一昔前の保健体育で教えられた、フロイト流の「人間は欲に基づいて行動しているはずだ」という考え方そのものだと思います。日本人は、わりとこれが染みついちゃっているんですよね。
例に挙げた水泳のケースの場合はミルナーの言う「あらかじめ脳幹にプログラムされた動作」が入り込んでしまっているために、その効果が薄れてしまう、あるいは邪魔されるということは考えられないでしょうか? なぜなら大脳の理性的な働きが普段原始的な行動を抑制しているわけですから。
駅伝などでも、昔はたすきを渡すとそのまま毛布の中に倒れ込むシーンがよく見られましたが最近は少なくなりました。息は上がっているけれども話し掛ければ答えられる、そんな感じです。昔だったら「この大事な大会の時に、気絶するぐらいでなきゃ即リンチだ」みたいな。今は時代なのか科学的になってきたということでしょうか。
水泳でも「うちの子は何もやろうとしない」とか「言うことを聞かないから」といってなるべく厳しいコーチに指導をして欲しいという親御さんもいて、実際ビシビシやってるクラブほど人が集まっていますけれども、考えてみれば怒鳴ったりするだけで子供の脳幹はすごく活性化しているわけです。子供の能力を育てるという面では、こういう指導の仕方はたぶん間違っていると思います。もっとも、おとなしくて言うことをよく聞く子供にしたいのなら話は別ですが。
さきほどの「抑制機構自身が抑制される」というのは身体の仕組みとしてはすごく不自然で奇妙な感じがするんですけど、ちょっと前に「ためしてガッテン」でアルツハイマーのことをやっていて、「どうしてアルツハイマーの患者が攻撃的になったり、被害妄想をしたりするのか」ということの説明として、それは扁桃体という敵・味方を区別する部分が普段は上位の神経(大脳新皮質など)に抑制されているが、大脳の働きが急に衰えてしまうと一見して扁桃体の働きが活発化したような振る舞いを見せる、だから攻撃的になってしまうと言ってました。これと同じですね。
※ G. J. モーゲンソン「神経生物学から見た動機づけ行動」培風館(1977年)