chuo1976

心のたねを言の葉として

さようなら    鷹志 順

2016-02-03 05:52:43 | 文学

さようなら

 八月九日、この日は僕にとってはうれしい、又一面かなしいといった日だった。
 それは僕が療養所に行けるようになったと、役場から知らせが来た日である。明日十日に自動車がむかえにくるという事だった。僕はまだ見ぬ療養所がよいところであるようにと心でいのっていた。行くにつけて一番うれしいのは、何といっても、よい薬があるという事だった。もうこの病気はなおらないとみすてられ自分でももうあきらめていたのだった。それが今度なおる薬が出来たというのである。これが喜ばずにいられるだろうか。でもそのはんたいには、つらい事もあるのだった。お父さんやお母さん兄さん弟妹などとわかれるのは本当につらい事だった。又海とわかれるのもつらかった。永く僕と遊んでくれた海、この海とも明日は別れなくてはならないのかと思うと、とてもつらかった。
 そう思うともう一度泳ぎたかった、がまだ人がたくさん泳いでいたので日がくれるまで待っていた。九時頃、日もしずみうすぐらくなったので、うらの石垣をつたっておりて泳いだ。もうさいごと思うと自然に力が出るのだった。せいいっぱい泳ぎまわってからあがった。湯をあびるともうおそいので床についた。床にはついたものの、目はさえるばかりだった。天井を見つめている間に、涙が、すーとほほをつたわった。(なぜ僕一人こんな病気になったのだろうか、でもまだ僕一人だったからよかったのではなかったろうか。でも僕一人のため兄弟はどんな思いをした事だろうか、でも、きっとなおって帰ってくるからゆるしてね)と思うとまた涙がわきでるのだった。翌日お母さんが作って下さった折角のごちそうも、ちょっと味がなかった。ただ口をうごかしているにすぎなかった。お母さんが『不自由な事があったら手紙をすぐ出しなさいね送ってあげるから』と言われたり、いろいろの事を言っておられたが、何も頭にはいらなかった。そうしている時むかえの自動車がついた。とうとう別れる時が来た。自動車にのってから、あとをふりかえって見た。そこには顔、顔たくさんの顔があった。涙にぬれた顔もあった。お母さんに手をひかれながら手をふっている妹の顔もあった。『順元気でね』とお母さんがいわれたようだった、『さようなら』これが僕の口からでた精一ぱいの声だった。
 自動車は出発しだした。いや僕のあたらしい人生への出発でもあったのだった。僕は心の中ですべてのものに『さようなら』と言った。



中三 鷹志 順さん 「姶良野」1951年11月30日

1935年3月24日長崎県に生まれる。1945年11歳で発病。1949年8月12日星塚敬愛園に入所。1953年菊池恵楓園に転所。子どもの頃から俳句、短歌、詩の創作を続ける。恵楓園機関誌「菊池野」に作品多数。また「文学界」にも掲載。1966年「菊池野文学」誌の編集に携わる。自治会常任委員を長期務めたほか、「菊池野」編集長、渉外活動などを歴任。

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