石牟礼さん死去 水俣の魂紡ぐ 豊かな海と人に寄り添い
厚生省前で座り込み、水俣病患者の写真を掲げて企業責任を追及する石牟礼道子さん=東京都千代田区で1970年5月25日撮影
巨星落つ。10日に亡くなった作家の石牟礼道子さんは、公害の原点といわれる水俣病(1956年公式確認)が初期に「奇病」とされ孤立した患者・家族らを支えつつ、問題を鋭く世に問うた。パーキンソン病を患った晩年も「書きたいことはたくさんある」と創作意欲が衰えることはなかった。水俣病の関係者などからは惜しむ声が相次いだ。【笠井光俊、野呂賢治、平川昌範】
石牟礼さんらの支援を受け、69年に原因企業「チッソ」に賠償を求め提訴した水俣病第1次訴訟の原告で、認定患者の坂本フジエさん(92)=熊本県水俣市=は、当時をしのびつつ深く感謝する。「裁判を起こす前、石牟礼さんたちが患者の家を一生懸命回っていたのを思い出す。私たちの味方になってくれて、うれしかった。『苦海浄土(くがいじょうど)』が出て、いろいろな人が支援に入ってくれるようになった。石牟礼さんには患者みんながお世話になり、ありがとうございますという気持ちです」
豊饒(ほうじょう)の海とともに生きる無垢(むく)な人々が、水俣病に侵される不条理を描いた「苦海浄土」は当時、全国の若者らの心を揺り動かした。「義によって助太刀いたす」の宣言の下、訴訟を支援する「水俣病を告発する会」を日本近代史家の渡辺京二さん(87)らと結成。運動は各地に広がった。
1次訴訟は被害者側が勝ち、95年には未認定患者救済の政治決着が図られる。石牟礼さんはその後も多様な活動を続けた。95年に「本願の会」を作り、水俣病の「爆心地」とされる水俣湾埋め立て地に手彫りの石像を建てる活動を始めた。2004年には水俣病を背景にした石牟礼さんの新作能「不知火」が埋め立て地で奉納上演された。
写真家の桑原史成(しせい)さん(81)は昨秋、東京・新宿で開催された「日本写真家協会写真展 20世紀に活躍した貌(かお)」に、68年ごろ撮影した魚をさばく若き石牟礼さんの写真を出展した。
「60年代初めごろから水俣病に関わってきたジャーナリストや研究者などの友人たちが一人一人と欠けていき、とてもさみしく思う。水俣駅の前で石牟礼さんに初めて出会った時のことも、東京で学生とともにデモに参加した姿も今でもしっかり覚えている。私は写真で、石牟礼さんは文章で、水俣病のことを表現してきたが、彼女の豊かな感性と文章表現力は持って生まれた才能だったと思う」と振り返る。
96年から全国で巡回開催され、昨年は熊本市で開かれた「水俣展」(熊本市開催は「水俣病展」)では、胎児性患者を抱えた家族が並んで寝ている写真に、石牟礼さんの「彼岸の団欒(まどい)を垣間みる」という題の一文が添えられた。「ここには今日の『家族』がほとんどうしなってしまった、根源と称(よ)んでよい家族の、無償の団欒がある。(略)いわば絶対受難とひきかえに、(略)彼岸の団欒に似た景色を垣間見せてくれる」
主催した水俣フォーラム(東京)の実川(じつかわ)悠太理事長(63)は「患者さんの遺影に続いて展示を締めくくるこの一文は、患者さんのどん底を書いている。至上の幸福を描くことで、私たちが近代に失ったものを浮かび上がらせた。『お前たち、それでいいのか』と偉そうに問うのではなく、美しい固有の表現で私たちに気づかせてくれる。(石牟礼さんの死去で)人が亡くなるということは、まさに世界が一つ失われるということだと実感させられた」と声を落とした。