chuo1976

心のたねを言の葉として

虹彩炎の手術・職業訓練 加賀田一

2019-03-13 05:19:22 | 文学

 虹彩炎の手術・職業訓練     加賀田一

「いつの日にか帰らん」P154~P156抜粋


 愛生園に入る前の話に遡りますが、私は師範学校を諦めて大阪に出たとき、車の運転免許を取ろうと自動車学校に行ったことがあります。タクシーの助手を三ヶ月務めると運転免許を与えるとのことでした。助手席に座って、お客さんに「どうぞ」とドアを開けて、降車時に料金をもらうのが仕事です。この助手の仕事には受かったのですが、不況の渦中ですぐに商社に就職することになり免許を取る間がありませんでした。

 1950年代後半になると、社会復帰のための訓練としてオートバイやオート三輪、タクシーの運転が園内で行われるようになりました。私は少年のときの夢が甦って運転免許を取ろうと思いました。

 ところがその矢先1959(昭和34)年に再び目がやられたのです。初めは、日向ぼっこをしているうちに暗がりに入ったように視界がぼんやりしてきたのが、まもなく全く見えなくなりました。針の穴ほどになっていた瞳孔が塞がってしまって、視界が真っ暗闇なのです。

 愛生園には熟練の眼科医がいたので診てもらうことにしました。今であれば立派な顕微鏡がありますが、その当時は望遠鏡みたいな筒の顕微鏡を覗きながら、私の目を開けて癒着した虹彩にメスをスッと入れました。この手術によって虹彩に筋が入って、光線が入ることを可能にしました。

 眼球というのは外を見ようとして働いているのだそうです。ですから光が入らなくなると眼球は痩せてどんどん細くなり、長時間そのままに放置していると目が見えなくなります。たとえば手足などを外科手術した後、筋肉を使わないでいると細くなります。筋肉がなくなって骨と皮になってしまいますが、それと同じということです。

 私は二回失明していますが、奇跡的に視力は保つことができました。ただ、0.7に戻ることはなく、とうとう免許は取れませんでした。現在の視力は矯正してようやく0.1です。矯正なしでは0.02くらいです。文字を書くのはずっと原稿用紙ですが、文字が原稿の枠をはみ出してしまうのです。それならパソコンをやったらいいと思い、何年か前にパソコンの講習に行ったのですが、、画面がチラチラしてできませんでした。園内にかつて盲人の人は三百何人いましたが、今は七十何人、弱視は百何人で、私もその一人です。

 私は視力が落ちたことで社会復帰が不可能になり、一度は生きる気力を失くすほど落ち込みました。そういう時に出会ったのが、私が入所したときすでに失明しておられた明石海人の言葉でした。それが「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」です。私は患者運動を通してハンセン病への偏見差別と闘おう、そのために生きることだって人のためだろうと決意を固めました。

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