『死霊魂』(2018 中国 王兵 495分) 関川宗英
王兵は現代の語り部だろうか。「かつて、こんなことがあった…」と語る老人たちの言葉は神話のようだった。
人が死ぬのは午前3時ごろ…、夜の空気と昼の空気が入れ替わるとき…、飢えで骨と皮だけの囚人たちは、辛いとも痛いとも言わずに死んでいく。ゴビ砂漠の再教育収容所、人が死に始めた最初のころは死者のために棺を作ったが、毎日のように死人が出るようになると、5,6人の死者をまとめて荷台に乗せ、荒れ地に捨てに行く…、そんな老人たちの話が延々と続く。
1957年、中国では反右派闘争が起きていた。政権批判の事実はなくても、上司に意見をしたというだけで「右派」のレッテルを張られ、再教育収容所へ送られる。過酷な労働、劣悪な施設、ゴビ砂漠の明水では地下に掘った豪に寝起きしていた。そして、一日小麦250グラムという少ない食料。この再教育収容所から生きて戻り、2005年ごろになってカメラの前で話せる老人たちが、いかに生き延びたかを切々と語る。妻がこっそり持ってきてくれた「麦こがし」のおかげで生き延びることができた…、給仕係になれたおかげで飢えずに済んだ…、1961年1月、人命救済へと突如変わった政府方針のため、「右派」たちは家に帰ることができた。老人の話は、長い人で1時間以上になる。10分程度の短い話の老人もいたが、映画に登場する老人たちは全部で20人になるだろうか。老人たちの話と、人骨の散らばるゴビ砂漠の収容所跡のシーンから8時間超(495分)の映画は作られている。
王兵の2007年の作品『鳳鳴 ― 中国の記憶』(183分)と同じように、話を続ける老人の前で、カメラが動くことはない。話し手の老人が立てば、わずかにアングルが変わったりするが、ワンシーンワンカットの長回しでインタビューは続く。話の切れ目なのか、カットが入ることはあるが、その後のアングルも背景も変わらない。話し手の前を家族が通り過ぎても、カットされることはない。インタビュー中、来客が来たらしく、話し手の老人がカメラから視線をそらし、フレームの外に向かって挨拶を始めたことがあった。が、それでもカメラは回り続けていた。そんなインタビューの連続が『死霊魂』だ。
話し手の語り口は、それぞれ個性的で、引き込まれる。口角泡を飛ばして、息もつかせぬマシンガントークの老人もいれば、蒲団の中でイタチのようなキレイな目を開いて、やっと言葉を紡ぎだしていた老人もいた。
しかし、そんな老人たちの言葉を聞いている(観ている)と、かつて中国で、こんな収容所があったのか、こんな時代があったのかと昔ばなし、おとぎ話を聞いているような気持ちになってくる。
何世代も口伝えされて、今も世界各地に残っている民族の神話。神話には、その民族の何世代もの思いや願いが詰まっているだろう。神話にはその民族の宇宙観や歴史観、何千年もの年月を越えて血の中に受け継がれてきた民族特有の匂いといったものが感じられる。山形国際ドキュメンタリー映画祭のような機会がなければ、8時間もの映画を見ることはできないと思うが、王兵の映画を見ていると他の民族の神話を聞いているような気持ちになる。人が生きているその根っこの部分を触られるような、特別な気持ちだ。
美しいショットはない。BGMもない。話し手と聞き手の切り返しもなければ、表現者の懊悩を窺わせるカメラワークもない。収容所跡のシーン(人骨、荒れ地、強い風の音)には怒りを読み取ることはできるが、王兵の気持ちが露わになることはない。ただ話し手を撮り、それをつないで、辛抱強く映画としてまとめている。
王兵の映画は、現代の歴史の一片を、映像作品という形でまとめたものだ。それは、デジタル時代の今、現代の神話と呼べるものかもしれない。
2019/10/12 「山形国際ドキュメンタリー映画祭」にて