『チリの闘い』(パトリシオ・グスマン 1979年)の歴史的背景 関川宗英
1970年南米チリ、民主的な選挙による、世界初の社会主義政権「アジェンデ政権」が誕生した。
日本は70年安保闘争が敗北し、政治の季節が終わろうとするころだが、南米ではマルクス主義社会を目指そうとする熱いうねりが渦巻いていた。
ところが1973年軍事クーデターが発生、アジェンデ政権はわずか3年で崩壊してしまう。
クーデター後、左翼の弾圧が始まり、3000人以上が犠牲になったと言われている。逮捕者は政府発表で54万人、うち9000人が国外に追放された。また、チリの人口の1割にもなる100万人が国外に亡命したという。
『チリの闘い』はアジェンデ政権誕生後、その崩壊までのチリの約3年間を追ったドキュメンタリー映画だ。
世界初の社会主義政権誕生とはいっても、少数与党だった。アジェンデは農地改革や企業の国有化など、社会主義的政策を進めるが、多数派野党の右派政党と中道派は、アジェンデ政権の政策推進を阻もうとする。
アジェンデ政権が誕生した1970年頃の世界は、1962年のキューバ危機直後の緊張状態にあり、冷戦の真っただ中だった。アジェンデ政権の動きは、アメリカにとってはチリ共産化の危惧を抱かせることになる。米国政府と米国多国籍企業はチリの右派に肩入れし、アジェンデ政権の転覆をはかろうとする。
まず、金融封鎖。米国の銀行および国際金融機関に対し、チリに融資を行わないよう圧力をかけた。そして、チリの輸出収入の80%を占めていた銅の輸出と生産を妨害する工作。さらに、右派勢力の系列下にあるトラック業者によるストライキを扇動するなどアジェンデ政権の足を引っ張ろうとする。これらの画策により、チリは物資の困窮、インフレなどを招き、経済は衰退、社会的混乱に陥る。
CIAは、当時チリの電話会社を所有していた米国企業ITT(International Telephone & Telegraph)に資金を供出させ、チリの保守派と軍部を抱き込んだというが、そのアジェンデ政権転覆工作は確実にチリを追い詰めていった。
しかし労働者や農民は協力し合い、"民衆の力"と総称される無数の地域別グループを組織してゆく。そして彼らは食糧を配給し、工場や農地を占拠・運営・警備し、暴利をむさぼる闇市場に対抗し、近隣の社会奉仕団体と連携していく。こうした活動は、アジェンデを支持する人々の結束をさらに強め、1973年3月の総選挙では、アジェンデ側はさらに得票を伸ばす。
街では、アジェンデを支持するデモと、アジェンデ打倒を叫ぶデモが繰り広げられる。デモに対する発砲事件も起きる。グスマンの撮影チームのカメラマンは、軍の銃弾に倒れてしまう。
アメリカの支援を受けたピノチェトは、当時、陸軍総司令官の座にあったプラッツ将軍の地位を奪い、軍中枢を抱き込むことに成功し、1973年9月11日、チリ軍によるクーデターを決行する。
「軍部は武器を持ち、我々を屈服させるでしょう。
しかし、犯罪行為であろうと武器であろうと、社会の進歩をとどめることは出来ないのです。
歴史は我々のものであり、人々が歴史を作るのです。」
という演説を最後に、アジェンデは死亡、世界初の民主的な社会主義政権は崩壊する。
映画『チリの闘い』はそんな激動の3年間を、様々な人々のインタビュー、ニュース映像、組合の討論会、アジェンデ政権を支持するデモ、右派勢力によるアジェンデ政権反対のデモなど、5時間以上の作品としてまとめられている。