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心のたねを言の葉として

沖縄復帰50年と密約      関川宗英

2022-06-12 16:48:30 | 歴史

沖縄復帰50年と密約      関川宗英




 2022年5月15日は、沖縄復帰50年だった。

 復帰50周年記念式典で、岸田総理は「世界の平和と沖縄のさらなる発展を祈念」すると述べた。

 しかし、沖縄には今も、日本の米軍基地の70%以上が集中している。

 太平洋戦争では捨て石とされ、戦後はアメリカに占領されてきた。

 1972年日本復帰を果たすが、沖縄はいつもないがしろにされてきた。

 世界の平和と沖縄の更なる発展を願うなら、まずは沖縄の人々が被ってきた思いというものを、日本人として振り返る必要があるだろう。





1 うやむやにされた沖縄密約問題 

 

 1969年11月、佐藤栄作とニクソンの日米首脳会談。佐藤は、「核抜き・本土並み」での沖縄返還に合意したと宣言した。

「1972年中に沖縄が核兵器の全く存在しない形で我が国に返還され、事前協議につきましても、何ら特別の例外をもうけないということであります」

 と佐藤栄作は言ったが、緊急時にはアメリカは沖縄に核を持ち込めるという「密約」が、正式な取り決めとは別に交わされていた。



  沖縄返還の際、交わされた密約は大きく言って二つある。核に関するものと、お金に関するものの二つだ。

 沖縄密約が最初に明るみになったのは、お金に関わるものだった。

 

 1972(昭和47)年3月27日の沖縄返還をめぐる国会審議でそれは明らかとなる。社会党の横路孝弘と楢崎弥之助が、外務省極秘電文のコピーを手に、公式の発表ではアメリカが支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、日本政府が肩代わりしていた、と自民党を追及した。

 機密情報は、毎日新聞記者の西山太吉によって社会党議員にもたらされていた。外務省から情報を持ち出したのは、外務省の女性事務官だった。

 密約問題は大きな反響を呼んだが、国会の質疑から一週間後の4月4日、西山と女性事務官は外務省の機密文書を漏らしたとして、国家公務員法(守秘義務)違反の疑いで逮捕、起訴された。

 起訴されると、西山は情報を得るために、外務省女性事務官に近づき、酒を飲ませ、無理やり男女関係を結んだうえで機密情報を盗んだということが明るみになる。

 西山と外務省の女性事務官を公務員法違反で起訴した検察が、起訴状の中で「密かに情を通じ」という言葉を使って、西山と女性事務官の間の男女関係にことさらに焦点を当てた。西山も女性事務官も既婚者だった。メディアでは情報の入手手段に対する一斉攻撃が始まったわけだ。

 倫理感に欠けた取材方法に対する非難が、女性週刊誌やワイドショーで連日展開されるようになった。



 西山は「報道の自由」を主張し、毎日新聞は大規模な「知る権利キャンペーン」を展開したが、低俗な男女関係の批判にかき消されていく。

 国家の体制維持に影響を及ぼすような密約問題を、スキャンダラスな問題にすり替える、この巧妙な世論操作は、当時の東京地検だった佐藤道夫によるものだったという。

 

この事件を当時担当した東京地検の佐藤道夫氏がその後、参院議員に転じてテレビ討論などで、外交密約の存在が問題になると政治混乱が避けられないこと、言論弾圧と騒いでいる知識層やメディアの論調をかわす必要がある、との判断から突如、女性と情を通じて機密の電信コピーを入手したのはけしからん、という形での世論誘導を思いついた、と述べている。

(経済ジャーナリスト牧野 義司 https://kenja.jp/1010_20180214/)

 

 佐藤道夫の世論操作は成功した。沖縄の密約問題の追及は、立ち消えとなった。

 1972年5月15日、沖縄返還は実現された。

 西山と女性事務官は、1976年までに国家公務員法違反で有罪が確定する。




2 やっぱり密約はあった

 

 それから四半世紀後の2000年ごろ、アメリカ側の機密が解除されたことで、再び沖縄の密約問題はメディアを賑わすようになる。

 アメリカの公文書から、密約は実際に存在したことが明らかになった。

 西山が掴んでいた400万ドルという情報も事実であることが判明した。が、実際に動いたお金はそれをはるかに上回るものだった。

 

 返還協定に明記された日本政府が払うとされた金額は、3億2千万ドルだった。しかしアメリカが最終的に得た財政的な利益は6億8千5百万ドルに上る。その中には、「アメリカの求めに応じ移転、施設改善の名目で2億ドルを日本が負担する」というその後の”思いやり予算”の原型となったものもあった。

 

 沖縄返還にかかわるアメリカの戦略については、NHKのBS世界のドキュメンタリー「沖縄返還と密約」(2010年05月16日放送)が詳しく報じている。

 1972年の沖縄返還直後にアメリカ政府がまとめた報告書「沖縄返還ケース・スタディ」をもとに、返還交渉の過程を検証した48分の番組である。

 「核抜き本土並み」を実現したい佐藤栄作、沖縄の基地を自由に使いたいアメリカ、日本の高度経済成長と膨らむ対米貿易黒字、ベトナム戦争・・・、さまざまな要素が沖縄返還の密約を生んでいく。

 番組のラスト、沖縄返還に関わったアメリカ関係者モートン・ハルペリンの次の言葉が印象的だ。

「沖縄が返還されて40年が経とうとしているが、アメリカは沖縄を軍事基地としか見ていない」

 そして、沖縄返還はアメリカ外交史上希に見る成功例と位置づけているという「沖縄返還ケース・スタディ」の報告で番組は締めくくられる。

 アメリカの外交戦略のしたたかさを見事に描き出した48分だった。





3 次々に明らかになる密約、軍事行動

 

 明るみになった密約は、沖縄に関するものだけではなかった。

 沖縄返還前後の核に関する密約も、アメリカの公文書公開から次々に明らかになる。そして、日本の政府関係者の手記や証言も表に出るようになり、核密約の詳細が次第に明らかになってきた。



 1960年につくられた「討議の記録」という密約文書がある。

 1960年の日米安保条約改定の直前、岸信介内閣の外務大臣だった藤山愛一郎とアメリカのマッカーサー駐日大使によって作られたものだ。

 「討議の記録」の内容について、『知ってはいけない2』(矢部宏冶)の要約を引用する。



ここでその「討議の記録」という密約文書の驚くべき内容を、ごく簡潔に紹介しておこう。

 

1960年1月6日、安保改定の調印(同19日)から約2週間前、岸政権の藤山外務大臣とアメリカのマッカーサー駐日大使(有名なマッカーサー元帥の甥)によってサインされたその文書には、次の4つの密約条項が明記されていた(以下、著者による要約。〔 〕内は補足説明部分)。

 

A〔日本の国土の軍事利用について①〕:「核兵器の地上配備」以外の、兵器に関する米軍の軍事行動については、日本政府との事前協議は不要とする

B〔他国への軍事攻撃について①〕:日本国内から直接開始されるケース以外の、米軍による他国への軍事攻撃については、日本政府との事前協議は不要とする〔=沖縄(当時)や韓国の米軍基地を経由してから攻撃すれば、問題はない〕

C〔日本の国土の軍事利用について②〕:Aの「核兵器の地上配備」以外で、旧安保条約時代に日本国内で認められていた米軍の軍事行動については、基本的に以前と変わらず認められるものとする

D〔他国への軍事攻撃について②〕:米軍の日本国外への移動については、日本政府との事前協議は不要とする〔=一度国外に出たあと、米軍がどんな軍事行動をとろうと日本政府は関知しない〕

(矢部宏冶 「なぜ日本は、アメリカによる「核ミサイル配備」を拒否できないのか」

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58278?page=2)






 1960年の「討議の記録」の前後、この密約に連なるように、様々な軍事行動が明らかになっている。時系列に沿って、そのいくつかを取り出してみる。

 

 朝鮮戦争末期の1953年(昭和28年)10月15日、核を搭載した空母オリスカニが横須賀に入港した。

 

 1954年(昭和29年)、海上自衛隊が出来た。これは、アメリカの空母を守ることが使命だった。空母オリスカニは60個の核兵器を積んでいた。これは、中国やソ連との全面核戦争を想定したものだった。海上自衛隊は、日本海を封鎖して、ソ連の潜水艦を日本海に封じ込め、アメリカの空母が自由に動けるよう またソ連に見つからないように、協力していた。

 

 空母オリスカニについては、2008年11月9日放映のNHKスペシャル「こうして“核”は持ち込まれた〜空母オリスカニの秘密〜」において、生々しく紹介された。

 

 1963年(昭和38年)、「ライシャワー駐日大使が当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録が、1999年(平成11年)にアメリカの外交文書の中に発見された。

 

 1966年(昭和41年)、ベトナム戦争の渦中、「返還前の沖縄にあった核兵器を日本政府に無断で本州に移したことがあった」、「1966年の少なくとも3か月間、岩国基地沿岸で核兵器を保管していた」というライシャワー元駐日大使の特別補佐官を務めたジョージ・パッカード米日財団理事長の証言が、読売新聞や毎日新聞に報道された。2010年のことである。

 

 朝鮮半島有事の場合、沖縄だけでなく、日本本土にある基地の自由使用を「ほとんど肯定する」と日本政府は約束した。さらに、台湾での有事の場合についても「前向きに応じる」としていた。沖縄返還50年の今年、5月15日のNHKスペシャル「証言ドキュメント “沖縄返還史”」が報じている。

 

栗山尚一(条約局条約課 調査官)「朝鮮半島、それから台湾の安全というのは、日本の安全保障と密接な関係があるという認識を、そこで表明するということで、法律的な約束はしないけれども、政治的な心証としては、日本はアメリカが事前協議をしてくれば、まずほとんど間違いなく『イエス』と言うでしょう、という心証を与えるということによって、手を打ったわけですね」

(NHKスペシャル「証言ドキュメント “沖縄返還史”(後編)」 2022/5/15放送)






4 「密約」は1952年の吉田内閣時代から

 

 2022年2月、ロシアがウクライナに進攻した。

 もしロシアと同じように、中国が台湾に進攻したらどうなるのか。

 台湾有事の時は、米軍は日本の基地を自由に使用できる。そのようにはっきりと文書は交わしていないが、そのようなニュアンスを与えることで、日米交渉は決着したと、栗山尚一(条約局条約課 調査官)は述べている。

 このような曖昧な交渉、さまざまに解釈できるような言葉で、国の重要な方針が決められていく。これは、1952年の日米安保条約締結、吉田内閣の時にもあった。

 

 GHQの占領下にあった日本の独立は、吉田茂の悲願だった。日本の独立は、サンフランシスコ講和条約の締結により実現されるが、それは日米安保条約とセットだった。

 吉田茂の日米安保条約は、アメリカが日本の安全の責任を全面的に負う、そのかわり日本は基地を提供するというものだ。しかし、その基地をどこに置くのか、その基地使用の期限はいつなのかといったことは書かれていない。さらに、いざというときの事前協議についても条約には書かれていなかった。

 軍事占領下にあった沖縄について、ダレス国務長官は、「主権は日本に残されている」と言いつつ、「戦略的必要に基づいて管理する」という言葉も残している。吉田茂は講和条約受諾演説で、「これらの地域の主権は日本に残されている」と述べたが、それは言外に〝戦略的必要以外〟という注があったということだ。

 このように、1952年、朝鮮戦争のさなか、日本は曖昧な譲歩を重ねながら、日本の独立を表向き成し遂げた。次の年の1953年には、核を積んだ空母オリスカニが朝鮮に向かう前、日本に立ち寄っていることを考えると、日本の主権回復は、軍事的な緊張をアメリカと共有することで実現されたともいえる。



 佐藤栄作の「核密約」は、吉田茂の安保条約、それに続く岸内閣の「討議の記録」をみれば、歴代内閣が引き継いでいることは明らかだ。

 日米の様々な密約は、吉田内閣のときから始まっている。

 

 かつて沖縄県知事だった翁長雄志は「日本は、憲法の上に日米地位協定があり、国会の上に日米合同委員会がある」 と語ったが、「討議の記録」をはじめとする一連の密約は、GHQの占領、吉田茂の安保条約調印、そして岸信介の新安保条約と続く流れの中で、国家主権をないがしろにされてきた戦後政治の欺瞞を象徴するものだ。

 

 しかし、アメリカの公文書から様々な密約問題が明らかになっても、日本政府は密約について否定を続けてきた。

 2009年の政権交代で鳩山由紀夫が総理大臣に就任すると、外務省内に調査委員会が設置され、2010年3月に密約の存在が公に認められた。





5 まとめ

 

 1974年、佐藤栄作は非核三原則などの制定が評価され、ノーベル平和賞を受賞する。

 核兵器を「作らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則は1967年12月に、当時の佐藤栄作首相が衆院予算委で表明した。その後、唯一の被爆国日本の「国是」として扱われるようになった。

 しかし、1970年前後に「沖縄密約」「核密約」を推進し、核の寄港・通過を認めた佐藤栄作が、ノーベル平和賞を受賞するということは、ベトナム戦争の北爆を推進したキッシンジャーのノーベル平和賞と同じく、平和を願い、穏やかな暮らしを築こうとする人々の努力をないがしろにするものでしかない。

 

 太平洋戦争では日本で唯一地上戦の場となった沖縄。

 敗戦後、米軍基地としての使用を昭和天皇によって明言された沖縄。

 そして今も沖縄には、70%もの米軍の基地がある。

 沖縄はいつも、日本の犠牲となってきた。

 沖縄の犠牲によって、今の日本の張りぼてかもしれない繁栄と平和があることを忘れてはならないだろう。

 沖縄返還50年に際し、沖縄の人々が被ってきた思いというものを、私たち日本人は振り返る必要がある。

 

 


2017年  沖縄戦没者追悼式



沖縄返還50周年 岸田首相の式辞(2022年5月15日)

 

これからも日米同盟の抑止力を維持しながら 、基地負担軽減の目に見える成果を一つ一つ着実に積み上げていく。

復帰から50年という大きな節目を迎えた今日、私は沖縄がアジア太平洋地域に、そして世界に力強く羽ばたいていく新たな時代の幕が開けたことを感じている。

復帰から今日に至る沖縄県民のたゆまぬ努力と先人たちのご尽力に改めて敬意を表するとともに、世界の平和と沖縄のさらなる発展を祈念し、私の式辞とする。





沖縄少女暴行事件(1995年)

 

 1995年9月、沖縄県警捜査一課と石川署は、小学生女児に暴行したとして、同県にある米軍基地所属の米兵3人について逮捕監禁と婦女暴行容疑の逮捕状を取り、米軍側に身柄引き渡しを要求した。

 3人は車で基地外に遊びに出掛けた際に、沖縄本島北部の住宅街で買い物帰りの小学生を発見。無理やり車に押し込み、ガムテープで目や口をふさぎ、手足をしばるなどして、約1・5キロ離れた場所まで連れて行き、車内で乱暴した疑い。

 米軍当局が3人を基地内に拘束したため、県警は逮捕状を取って身柄の引き渡しを求めたが、日本駐留米軍人の法的地位などを定めた日米地位協定で「日本側が起訴するまで米軍側が身柄を拘束することを認めている」ことを理由に拒否された。のち、那覇地検は逮捕監禁と婦女暴行の罪で3人を那覇地裁に起訴。米軍側は3人の身柄を日本側に引き渡した。

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梅を干す梅の数だけ手を加へ

2022-06-12 04:24:14 | 俳句

梅を干す梅の数だけ手を加へ                       一 民江

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