1995年、米兵による少女暴行事件に抗議、高校3年生、仲村清子(すがこ)さんの訴え。
「もうヘリコプターの音はうんざりです。私はごく普通の高校3年生です。たいしたことは言えないと思いますが、ただ思ったことを素直に伝えますので聞いてください。
私はこの事件を初めて知った時、これはどういう事、理解できない、こんな事が起こっていいものかと、やりきれない気持ちで胸がいっぱいになりました。
この事件がこのように大きく取り上げられ、9月26日、普天間小学校で、10月5日には普天間高校で抗議大会が開かれました。高校生の関心も強く、大会に参加したり、大会の様子を見守った生徒も少なくありません。そんな中、私はこの事件について、友人たちと話をするうちに、疑問に思ったことがあります。米兵に対する怒りはもちろんですが、被害者の少女の心を犠牲にしてまで抗議するべきだったのだろうか、彼女のプライバシーはどうなるのだろうかと。その気持ちは今でも変わりません。
しかし、今、少女とその家族の勇気ある決意によってこの事件が公にされ、歴史の大きな渦となっているのは事実なのです。彼女の苦しみ、彼女の心を無駄にするわけにはいきません。私がここに立って意見を言う事によって、少しでも何かが変われば、彼女の心が軽くなるかもしれない、そう思い、今ここに立っています。
沖縄で、米兵による犯罪を過去にまでさかのぼると凶悪犯罪の多さに驚きます。戦後50年、いまだに米兵による犯罪は起こっているのです。このままでいいんでしょうか。どうしてこれまでの事件が本土に無視されてきたのかが私には分かりません。まして、加害者の米兵が罪に相当する罰を受けていないことには本当に腹が立ちます。
米軍内に拘束されているはずの容疑者が、米国に逃亡してしまうなんてこともありました。そんなことがあるから今、沖縄の人々が日米地位協定に反発するのは当然だと思います。それにこの事件の容疑者のような人間を作り出してしまったことは、沖縄に在住する『フェンスの中の人々』、軍事基地内の人々すべての責任だと思います。
基地が沖縄に来てから、ずっと犯罪は繰り返されてきました。基地があるが故の苦悩から早く私たちを解放してください。今の沖縄は、誰のものでもなく、沖縄の人々のものなのです。
私が通った普天間中学は、運動場のすぐそばに米軍の基地があります。普天間第二小学校は、フェンス越しに米軍の基地があります。普天間基地の周りには、七つの小学校と四つの中学校、三つの高校、一つの養護学校、二つの大学があります。
ニュースで爆撃機の墜落事故を知ると、いつも胸が騒ぎます。私の家からは、米軍のヘリコプターが滑走路に下りていく姿が見えます。それはまるで、街の中に突っ込んでいくように見えるのです。機体に刻まれた文字が見えるほどの低空飛行、それによる騒音。私たちは、いつ飛行機が落ちてくるか分からない、そんなところで学んでいるのです。
私は今まで、基地がある事を仕様がないことだと受け止めてきました。しかし今、私たち若い世代も、当たり前だったこの基地の存在の価値を見直しています。学校でも、意外な人がこの事件についての思いを語り、みんなをびっくりさせました。それぞれ口にはしなかったけれども、基地への不満が胸の奥にあったという事の表れだと思います。
今日、普天間高校の生徒会は、バスの無料券を印刷して全校生徒に配り、『みんなで行こう。考えよう』と、この大会への参加を呼びかけていました。浦添高校の生徒会でも同じ事が行われたそうです。そして今、ここにはたくさんの高校生、大学生が集まっています。若い世代もこのような問題について真剣に考え始めているのです。
今、このような痛ましい事件が起こったことで、沖縄は全国に訴えかけています。決して諦めてはいけないと思います。私たちがここで諦めてしまう事は、次の悲しい出来事を生み出してしまうからです。
いつまでも米兵におびえ、事故におびえ、危機に晒されながら生活を続けていくのは私は嫌です。未来の自分の子どもたちにもこんな生活はさせたくはありません。
私たち、子ども、女性に犠牲を強いるのはもうやめてください。
私は戦争が嫌いです。人を殺すための道具が自分の身の周りにあるのは嫌です。次の世代をになう私たち高校生や大学生、若者の一人一人が、いやな事を口に出して行動していく事が大事だと思います。若い世代に、新しい沖縄をスタートさせてほしい。沖縄を本当の意味で平和な島にしてほしいと願います。そのために私も一歩一歩行動していきたい。私たちに、静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください。」 普天間高校3年 仲村清子(すがこ)。