chuo1976

心のたねを言の葉として

「三島由紀夫の亡霊 新たな知性」    関川宗英

2020-11-23 11:12:57 | 映画

「三島由紀夫の亡霊 新たな知性」     関川宗英

 

 ~映画『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』をめぐって~ 

 

 

「我々日本人は、キリスト教文化とは違い、命に罪を求めない。それは、命の美しさを知っているからだ。だから死に美しさを求める。」

 映画『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012年 若松孝二 以下『11.25自決の日』)の中で、三島由紀夫が森田必勝に語りかける。

 「盾の会」会員だった森田必勝は、1970年11月25日、三島と共に憲法改正のための自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺した右翼青年だ。

 映画は三島が血気盛んな若者を糾合して盾の会という組織を作り、自衛隊で訓練しながら、いざという日、日本を守るために決起する、三島事件の「1970年11月25日」までを追っている。

 映画の冒頭、3年後に迫っていた70年安保、左翼の動きに対し、「自衛隊の治安出動が必要だ」と三島が熱く語るシーンがある。その三島に対し、「我々は政治には関われません。我々は公務員、つまり役人なんです」と言う自衛官が登場する。さらに別の自衛官は、「クーデターには賛成できません。2・26事件が成功しなかったのは、日本が既に近代国家として成熟していたからです」と語る。

 

 日本刀を振り下ろす、その型の美しさ。

 鈍く光る刀の、張りつめた緊張感。

 武道の様式美。

 体を鍛え、言葉で武装する。文武両道。三島の美学を彷彿とさせるショットが、三島たちの事件までのプロットをつなぐ。

 

 一方、盾の会の訓練では、川に落ちた若者が溺れかける。それを見る不安そうな三島の顔。

 国際反戦デーで暴れる新左翼。国を憂う右翼青年たちの言葉は、軽くふわふわと漂うばかりに聞こえる。

 「日本でいちばん悪い奴は誰でしょう? 誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか?」と訊ねた、森田必勝の言葉。

 映画は社会党浅沼委員長を刺殺した山口二矢の自殺シーンから始まる。

 テロは衝撃的だが、テロで歴史は変えられない。

 

 『11.25自決の日』は、三島を讃美するわけではない。また右翼的な熱狂を批判することもない。淡々と三島事件までの日々を追っていく。

 1968年の新宿争乱事件、それに続く国際反戦デーなどの記録映像を織り交ぜ、史的な事実を踏まえながら、ノーベル文学賞の期待も高まっていた三島が、なぜ割腹自殺まで突き進んでいったのか、映画は丁寧に作られている。

 若松孝二の代表作として挙げられることは少ないかもしれないが、しっかり作られた一本と言っていい。

 

 

 

 

 さて、今年(2020年)は、三島由紀夫の自決から50年ということで、三島のことが何かと話題になっている。

 映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』(監督 豊島圭介)が、2020年3月に公開されている。1969年の安田講堂事件の後、東大全共闘と三島由紀夫の討論会をまとめたドキュメンタリーだ。

 2020年9月には、三島文学に刺激を受けたという4人の演出家による舞台、三島由紀夫没後50周年企画『MISHIMA2020』が、日生劇場で上演された。

 先日(11月21日)のNHKは、『50年後の若者へ 三島由紀夫の青年論』を放映していた。

 

 

 三島の言葉は、滅び、美学、といった言葉のイメージに醸し出される厳かな色を常に帯びている。

 また三島のその人生も、演出された装いを幾重にも纏っているといっていい。

 自ら死ぬことによって、文学とその人生を完成させたともいえる三島由紀夫。

 三島由紀夫の最後の長編小説は『豊饒の海』(4部作)だが、その最終の原稿を入稿したその日に、彼は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺している。

 伝説のなかで語られるべき文豪なのか、史上まれにみるナルシストなのか、三島をめぐる言説はかまびすしい。

 

 

 

 しかし、私は忘れない。

 皇国の名のもとに、「日本」が、多くの人びとを死に追いやったことを。

 英霊を祀るという靖国神社に、14人のA級戦犯がいることを。

 

 

 

 映画『11.25自決の日』のなかで、三島由紀夫は次のような言葉を語っている。

 「我々が守るべきものは、日本の文化と歴史だ」

 三島は昭和天皇の「人間宣言」を強く批判していたという。

 そして天皇について、「日本の文化の全体性と、連続性を映し出すもの」(三島由紀夫『文化防衛論』)と書いている。

 三島にとって守るべき、「天皇」に象徴される「日本」。

 

 幕末、尊王攘夷を唱えた倒幕派と佐幕派の争い。

 「日本」の近代国家の建設のなか、「天皇」とは何だったのか。

 

 慶応義塾大学教授の片山杜秀は、江戸時代の水戸学に起源を持つ皇国史観を研究しているそうだ。

 「日本人が、天皇を必要とせずに、より効果的な国民のまとまりを作り出せるようにならぬ限り、日本は、天皇の居る国という意味で、皇国であり続け、天皇の居る意味や、その意味を持続させてゆくための仕掛けもまた、時代に合わせて考案されたり、前の仕掛けが甦(よみがえ)ったりしてゆくことでしょう」(片山杜秀 『皇国史観』)

 

 三島由紀夫の亡霊が、令和に新たな「皇国」を生んでいくのか。

 私は、理性的な知の出現が、新しい時代をつくることを期待している。

 

 

 

 

 

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秋の灯のいつものひとつともりたる  

2020-11-22 06:01:17 | 俳句

秋の灯のいつものひとつともりたる        木下夕爾

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河馬を呼ぶ十一月の甘納豆

2020-11-21 05:46:30 | 俳句

河馬を呼ぶ十一月の甘納豆          坪内稔典

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北京と同じ青春

2020-11-20 03:38:40 | 文学

「父」

  泣きながら駆け登りたる丘の上打たれし頬が風に震いぬ      道浦母都子

 

 北京と同じ青春

 つい三か月前、春近い長安街を歩いたが、その長安街が血に染まった。自転車の銀輪が波のように溢れていた道路を、今度は戦車がわが物顔に闊歩した。人民解放軍と呼ばれる人民を守るための軍隊だ。いえ、軍隊だった。人民を守るための軍隊が、人民に向け銃を乱射する。ついこのあいだまで想像もできなかったことが、今現実として私たちの前にある。
 非暴力に徹して民主化要求を掲げる北京の学生たちに、私はかつての私が理想とした世界を見いだしていた。全共闘世代と呼ばれた私たち世代の日本の学生運動が、ついに獲得できなかった世界だ。暴力に暴力で対抗することより、暴力に非暴力で立ち向かう困難を北京の学生たちは選ぼうとした。その結果、多くの血が流されたが、私たちはその勇気と流された血を忘れない。少なくとも私は――。
 提出歌は二十年前の冬、学生運動に加わり、逮捕、拘留され、釈放された後の私の歌だ。
 《釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ》《振るわるる盾より深くわれを打つ父の怒りのこぶしに耐うる》《「今人間であろうとすればデモに行きます」父の視線よ背きていよ》。
 こんなうたが、提出歌の前には並んでいる。
 学生運動に参加し、逮捕されたこと、そして鋭く父と対峙したこと。この二つが私に短歌を選ばせたといえる。何かを伝えたかったからだ。ちっぽけな一人の人間の独白にしかすぎぬようなうたであっても、ひとつの時代を懸命に生きたという事実を、小さくとも確実に伝えられるかもしれない。その思いが私に短歌を作らせたのだ。
 北京の学生にかつての自分の姿を見る私たち世代は、父となり母となった今、子供たちの世代に語り継ぐべきことがある。

(『女うた男うた』 道浦母都子+坪内稔典 2000年 平凡社)

 

 

広場近くの大通りを行く戦車の列に立ちはだかる男性 ── 事件を象徴する写真となった。

広場近くの大通りを行く戦車の列に立ちはだかる男性 ── 事件を象徴する写真となった。

 

AP

出典 :BBC,PBS

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「司馬遼太郎」        柳美里

2020-11-19 04:49:46 | 文学

「司馬遼太郎」        柳美里


  君去春山誰共遊
  鳥啼花落水空流
  如今送別臨渓水
  他日相思来水頭

 この唐の劉商の七言絶句は、阿川弘之氏の『志賀直哉』を読んで、志賀直哉が好きな詩だったことを知った。司馬遼太郎氏(以後、司馬さんと呼ばせていただく)の訃報を聞いたとき、不意に浮かんだのはこの七言絶句であった。司馬さんというひとはこのように生き、ひとと別れたのではないかと思ったのだ。
 私が司馬文学の愛読者だというと、編集者は一様に驚いてしまう。司馬さんは高潔にして博識の国民的大作家である。放埓な日々を送っている私と、司馬さんの小説世界とではあまりにも不釣り合いに思えるからだろう。しかし私は、獄中の犯罪者、受験生、ホームレス、政府の高官、誰が司馬文学の愛読者だと知っても驚かない。
 司馬さんが亡くなった直後、「週刊朝日」の山本朋史さんからお手紙をいただいた。大意はこうである。
「あるとき司馬さんに柳さんのエッセイを読んだことがありますかと訊くと、あります、研ぎ澄まされた文章を書く女性は怖い、と笑っていました。逢ってみませんか、ごく普通の女のひとですよ、というと、いや怖いと仰って、結局紹介できずじまいでした」
 もちろん怖いというのは本気ではなく、逢うほどの興味も時間もなかったのだろうが、司馬さんの口から私の名前が発せられただけでも嬉しかった。
 代表的な小説については、多くの人が書いているので、『韓のくに紀行』と「故郷忘れじがたく候」で司馬さんを追想したい。
 『韓のくに紀行』は<街道をゆくシリーズ>として一九七二年に出版された。私は近々渡韓する予定なので、必要に迫られて再読した。必要とは、旅の精神的道標にしたいと考えたからだ。
 司馬さんは、手つづきを依頼した旅行会社の韓国人女性に「どういう目的で韓国へ」と問われる。日本の先祖の国にゆくのですといおうとするが、思い直してこう答える。

「飛びきりむかしむかしにですね、たとえば日本とか朝鮮とかいった国名もなにもないほど古いころに、朝鮮地域の人間も日本地域の人間もたがいに一つだったとそのころは思っていたでしょうね、(中略)そういう大昔の気分を、韓国の村などに行って、もし味わえればと思って行くんです」

 その女性は、「韓日がもともと一つだと仰るのならもう一度合併したいのですか」といい、司馬さんは頸を竦める。しかし韓国旅行は司馬さんの考えた通りになった。
 司馬さんの韓国の旅は、朝鮮人の日帝三十六年の植民地支配に対する怨みを理解しながら、まだ国が成立する以前からの悠久の時間をもってすれば、ふたつの国は真の隣人として親しくつき合えるはずだという考えを確かめるためのものであった。その想いは、春山で韓酒(マッコリ)を呑んで遊ぶ七人の老人たちの輪のなかに入り、ひとりの老人から「イルボン、うれしい」と日本語で抱きつかんばかりに身を寄せられたことで果される。イルボンとは韓国語で日本を指す。司馬さんはそのとき、あやうく涙をこぼしそうになる。
 一方、司馬さんの同行者である写真家が野踊をしている女性たちを見物しているときに起きた出来事は日韓(韓日と書くべきか)問題が一筋縄ではいかないことを示している。
 写真家が見よう見まねで踊ったり写真を撮ったりしていると、国会議員の立候補者の運動員と思われる背広姿の男が現れ、罵倒される。しかし司馬さんはこの執拗に罵る男さえ「私はツングースの一員として、この旅行中、このときほど幸福を感じたことはない。怒れるツングース、という言葉がそっくりあてはまるような血相を、その紳士は呈してくれていたのである」と書いている。凄まじい諧謔と皮肉だが、根底には朝鮮人への深い共感と共生の想いがある。これでは日帝の諸悪を持ち出す気力が失せてしまうというものだ。
 この本が出版されて二十年以上になろうとしている現在でも、両国の関係は何ら変わっていない。
 この紀行文を読むだけで、司馬さんは歴史家として膨大な資料を読み解き、作家として想像力を駆使し、それがいつの時代であろうともやすやすとタイムスリップして瑣事に目を凝らし、自分の心に直截に訴えることだけを書くひとだとわかる。
 司馬さんは政治、軍事、経済が、永遠に継ぐべき民族の良質のものを塞ぎとめてしまうことに対して誰よりも強い怒りを持ったひとである。しかしその発言は他の学者や評論家と根本的に異なり、過去、現在、未来を見通したうえで絶望の淵から悲憤しているように思える。
「故郷忘じがたく候」は司馬さんの短篇のなかでも、ひときわ感動的な小説である。私は再読しながら、三度、涙が溢れるのを耐えきれなかった。
 京都の町寺の庫裡に転がっている壺の破片が、朝鮮のものなのか苗代川の窯でつくられた薩摩焼なのか思案するところで小説ははじまる。
 それから二十年後<私>は鹿児島の宿で、そのときの記憶を蘇らせる。そして街で買った地図を眺めているうちに、小さく印刷された「苗代川」の地名を発見する。<私>は戸数七十ばかりのその窯場の村を訪ね、十四代目にあたる沈寿官氏と語り合う。
 時代は、医家橘南谿がこの村を訪ねた天明に変わる。沈氏らのこの村の祖先は、豊臣秀吉の慶長の役で捕虜となり、薩摩に漂着した七十名ほどの朝鮮人であった。彼らは帰化させられ島津藩の陶工になるが、日本名には改めず韓国名を名乗りつづけた。城下に移り棲めという藩命をも拒み、山に登れば東シナ海が見え、その海の遙か彼方に朝鮮の山河を望める苗代川を離れようとはしなかった。橘南谿は漂着からおよそ二百年経ったことを知って、もう朝鮮に帰りたいとは思わないでしょうと訊ねると、五代目である沈氏は、ひとの心というものは不思議なものでといい、「帰国致したき心地に候」と故郷への想いを語るのである。
 十四代目の沈氏は韓国の美術関係者に招かれて韓国の土を踏む。
 ソウル大学の講演で沈氏は学生たちに、「韓国にきてさまざまの若い人に会ったが、若い人のたれもが口をそろえて三十六年間の日本の圧政について語った。もっともであり、そのとおりではあるが、それを言いすぎることは若い韓国にとってどうであろう。言うことはよくても言いすぎるとなると、そのときの心情は後ろむきである」と薩摩弁で語りかけ、「あなた方が三十六年をいうなら、私は三百七十年をいわねばならない」と穏やかに結ぶ。
 沈氏の考えは司馬さんと寸分違わないものであったろう。しかしこのごく当たり前の考えは大きなものにならず、未だに反日と嫌韓の声の方が強いのである。「故郷忘れじがたく候」も『韓のくに紀行』と同様、発表されて四半世紀経っているのに――、小説の声とはなんと小さく低いものであろうか。
 私は時空を超越した感のある司馬さんとは違って、刹那に生きるしかない人間である。私が心底司馬さんを悼むことがあるとすれば、大振りの薩摩焼や青磁を司馬さんの墓前で叩き割る、そんな振る舞いを仕出かす、一瞬だ。先に書いた「怖いひとだ」という意味は、司馬さんは歴史に断ち切られた私に危うさを感じ取ったのかもしれない。私は両親が日本に渡ってきたときから、民族も歴史も失われたのだと考え、たいして祖国に関心を払わず、宙吊り状態のまま虚空を睨んでいる。このような生き方を司馬さんは一番嫌ったろう、いや、哀れんだろう。
 韓国へ行くといった。
 私の母方の祖父は一九八〇年に死んだが、ベルリンオリンピックに日本国籍で出場して金メダリストになった孫基禎氏と記録を争うほどのマラソンランナーであった。このことは母から聞いていたが、長い間私は信じなかった。調査の結果、事実だとわかり、私は祖父の足跡を追って旅をすることになった。私は生まれてはじめて、私の個人史のなかに足を踏み入れるのである。
 司馬さんの二冊の本は、日本、韓国、どちらの視点から読んでも、相思い渓水に集い、共に遊ぶことが可能だと感じさせてくれる。いつか「歴史の清算」が果たされ日韓の新時代が訪れたら、そのときこそこの作品は紀行や小説を越えた歴史的文献になり、ふたつの国でさらに高い評価を得るであろう。

(『窓のある書店から』 柳美里 1996年)

 

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いじわるな大人が隠したドレミファ シ空の広さを決めたのは誰 

2020-11-19 03:53:26 | 文学

いじわるな大人が隠したドレミファ シ空の広さを決めたのは誰                          出井阿茶

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泣きながら駆け登りたる丘の上打たれし頬が風に震いぬ 

2020-11-18 06:32:35 | 文学

泣きながら駆け登りたる丘の上打たれし頬が風に震いぬ          道浦母都子

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息かけて眼鏡のガラス拭いおり朝はひとりの思惟鮮しく    

2020-11-17 06:21:05 | 文学

息かけて眼鏡のガラス拭いおり朝はひとりの思惟鮮しく        岸上大作

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鶴見俊輔 60年安保

2020-11-16 06:35:57 | 言葉

 鶴見俊輔は1960年、東京工業大学を辞めた。親交深い中国文学者の竹内好が、文化人集団の請願で岸信介首相と面会、新日米安保条約に抗議したが、その後すぐに衆院委員会で強行採決されたため、岸のもとでは公務員はやれないと東京都立大学を辞職。鶴見はその後に続いたのだ。
(高橋純子 「多事奏論」 2020/10/28 朝日新聞)

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バスを待ちつつ顔確かめる冬の朝       

2020-11-15 09:05:21 | 俳句

バスを待ちつつ顔確かめる冬の朝          山中宏

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札幌国際芸術祭

 札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。 http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf