塩漬けの小梅噛みつつ冷酒かな
徳川夢声
「二度とない人生だから」
坂村真民
二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛を
そそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳を
かたむけてゆこう
二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにか
よろこぶことだろう
二度とない人生だから
一ぺんでも多く
便りをしよう
返事は必ず
書くことにしよう
二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう
二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう
1995年、米兵による少女暴行事件に抗議、高校3年生、仲村清子(すがこ)さんの訴え。
「もうヘリコプターの音はうんざりです。私はごく普通の高校3年生です。たいしたことは言えないと思いますが、ただ思ったことを素直に伝えますので聞いてください。
私はこの事件を初めて知った時、これはどういう事、理解できない、こんな事が起こっていいものかと、やりきれない気持ちで胸がいっぱいになりました。
この事件がこのように大きく取り上げられ、9月26日、普天間小学校で、10月5日には普天間高校で抗議大会が開かれました。高校生の関心も強く、大会に参加したり、大会の様子を見守った生徒も少なくありません。そんな中、私はこの事件について、友人たちと話をするうちに、疑問に思ったことがあります。米兵に対する怒りはもちろんですが、被害者の少女の心を犠牲にしてまで抗議するべきだったのだろうか、彼女のプライバシーはどうなるのだろうかと。その気持ちは今でも変わりません。
しかし、今、少女とその家族の勇気ある決意によってこの事件が公にされ、歴史の大きな渦となっているのは事実なのです。彼女の苦しみ、彼女の心を無駄にするわけにはいきません。私がここに立って意見を言う事によって、少しでも何かが変われば、彼女の心が軽くなるかもしれない、そう思い、今ここに立っています。
沖縄で、米兵による犯罪を過去にまでさかのぼると凶悪犯罪の多さに驚きます。戦後50年、いまだに米兵による犯罪は起こっているのです。このままでいいんでしょうか。どうしてこれまでの事件が本土に無視されてきたのかが私には分かりません。まして、加害者の米兵が罪に相当する罰を受けていないことには本当に腹が立ちます。
米軍内に拘束されているはずの容疑者が、米国に逃亡してしまうなんてこともありました。そんなことがあるから今、沖縄の人々が日米地位協定に反発するのは当然だと思います。それにこの事件の容疑者のような人間を作り出してしまったことは、沖縄に在住する『フェンスの中の人々』、軍事基地内の人々すべての責任だと思います。
基地が沖縄に来てから、ずっと犯罪は繰り返されてきました。基地があるが故の苦悩から早く私たちを解放してください。今の沖縄は、誰のものでもなく、沖縄の人々のものなのです。
私が通った普天間中学は、運動場のすぐそばに米軍の基地があります。普天間第二小学校は、フェンス越しに米軍の基地があります。普天間基地の周りには、七つの小学校と四つの中学校、三つの高校、一つの養護学校、二つの大学があります。
ニュースで爆撃機の墜落事故を知ると、いつも胸が騒ぎます。私の家からは、米軍のヘリコプターが滑走路に下りていく姿が見えます。それはまるで、街の中に突っ込んでいくように見えるのです。機体に刻まれた文字が見えるほどの低空飛行、それによる騒音。私たちは、いつ飛行機が落ちてくるか分からない、そんなところで学んでいるのです。
私は今まで、基地がある事を仕様がないことだと受け止めてきました。しかし今、私たち若い世代も、当たり前だったこの基地の存在の価値を見直しています。学校でも、意外な人がこの事件についての思いを語り、みんなをびっくりさせました。それぞれ口にはしなかったけれども、基地への不満が胸の奥にあったという事の表れだと思います。
今日、普天間高校の生徒会は、バスの無料券を印刷して全校生徒に配り、『みんなで行こう。考えよう』と、この大会への参加を呼びかけていました。浦添高校の生徒会でも同じ事が行われたそうです。そして今、ここにはたくさんの高校生、大学生が集まっています。若い世代もこのような問題について真剣に考え始めているのです。
今、このような痛ましい事件が起こったことで、沖縄は全国に訴えかけています。決して諦めてはいけないと思います。私たちがここで諦めてしまう事は、次の悲しい出来事を生み出してしまうからです。
いつまでも米兵におびえ、事故におびえ、危機に晒されながら生活を続けていくのは私は嫌です。未来の自分の子どもたちにもこんな生活はさせたくはありません。
私たち、子ども、女性に犠牲を強いるのはもうやめてください。
私は戦争が嫌いです。人を殺すための道具が自分の身の周りにあるのは嫌です。次の世代をになう私たち高校生や大学生、若者の一人一人が、いやな事を口に出して行動していく事が大事だと思います。若い世代に、新しい沖縄をスタートさせてほしい。沖縄を本当の意味で平和な島にしてほしいと願います。そのために私も一歩一歩行動していきたい。私たちに、静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください。」 普天間高校3年 仲村清子(すがこ)。
カネの力と権力 岸信介
関川宗秀
巨額のカネを動かして人脈と権力を培養し、人脈と権力を動かしてカネを集めるという手法は、紛れもなく岸のものだったからである。彼は、その意味でもすでに「立派な政治家」であった。(『岸信介 -権勢の政治家―』 原彬久 p72)
これが理想の政治家だろうか。
カネの力で人脈と権力を得た者が、一国の宰相として人々の信頼を得られるとは思えない。
岸信介の言葉
1957年2月、急病の石橋湛山の後を受けて首相となった岸信介は所信表明演説で、次のような言葉を残している。
私は、また、石橋前首相と同じく、何よりもまず国会運営の正常化に寄与したいと存ずるのであります。各党間においてできるだけ多く話し合いの場を作り、もって国会の運営を民主主義の原則に従って円滑に行うことは、国会に対する国民の信頼を高めるゆえんでありまして、また、国民がひとしく期待するところであります。
今や、わが国は、経済自立の基盤を整え、また、国際連合に加入して、その国際的役割に重きを加え、ここに新日本を建設し、世界の平和に寄与する歴史的段階に立つに至ったのであります。今こそ、国民は、民族的団結を固め、自信と希望をもって立ち上がるべきであります。とりわけ、私は、わが国の将来をになう青年諸君が、真に国家建設の理想に燃え、純真な情熱を傾けてその使命を達成されるよう、切に奮起を望みたいのであります。また、私は、国民の福祉と繁栄をはかるとともに、政治に清新はつらつとした機運を作り上げたいと思うものであります。
私は、国民大衆の理解と納得の上に立つ政治こそ民主政治の正しい姿であると信じますがゆえに、常に国民大衆と相携えて民族の発展と世界平和への貢献を期したいと念願してやまないものであります。( 第56代第1次岸内閣 1957/2/27)
国会運営を民主主義の原則に従って行う、と岸は言ったが、1960年5月19日に安保改正案を強行採決した。この日は、「民主主義が死んだ日」と人々の胸に刻まれた。この日以降、安保改正案の自然成立までの間、国会は連日のように数万人の人々で埋め尽くされた。6月18日には33万人が国会を取り囲んだ。
1960年の安保反対運動は、「反岸運動」だったと多くの人が書き残している。岸信介の言葉、彼の政治姿勢は、今も腐敗した政治の象徴として語り継がれている。
満州が岸信介を育てた
二・二六事件の直後、岸信介は満州にわたった。満州で関東軍と結びつきを深め、約三年間、国家主義的な統制経済を指導する官僚として辣腕を振るう。岸は満州で、優秀な官僚から、「立派な政治家」になったと原彬久は『岸信介 -権勢の政治家―』に書く。
そして、岸のカネの力を伝えるものとして、甘粕正彦との次のようなエピソードを伝えている。
岸が甘粕をのちに(昭和十四年)国策会社満映(満州映画会社)の理事長にすえたことからもわかるように、岸と甘粕は満州で終始一貫親密な関係にあったことは事実である。古海忠之はこう回想する。「たとえばこんな話がある。甘粕正彦の排英工作……、要するに特務だな。この甘粕のために岸さんが一〇〇〇万円つくってやったことがある」(『新版・昭和の妖怪 岸信介』)。「一〇〇〇万円」といえば、少なくともいまのおよそ八五億円にはなるだろう。古海が甘粕のこの資金調達依頼を岸に取り次いだところ、岸は、それくらい大したことはないといって、あっさりその場で引き受けたという(同書)。
関東大震災の混乱の中、無政府主義者大杉栄らを殺したとして懲役刑を受けた甘粕正彦。フランスへの逃亡生活の後、満州国皇帝に担ぎ出された溥儀の警護役のリーダーとして姿を現す。その後、満州で情報・謀略工作活動をおこなったとされる。アヘンがらみのカネを操り、「満州の影の帝王」といわれた。甘粕正彦と岸信介の黒い噂は、満州国の闇を思わせる。
東条英機と岸信介
満州から日本に戻った岸は、東条内閣の閣僚として政治家のキャリアを積んでいく。
太平洋戦争も中盤には日本軍は劣勢となった。昭和19年のサイパン陥落により、日本は制海権、制空権を喪失した。すると岸信介は「早期終戦」論となり、東条英機の責任を問う動きを見せるようになる。東条英機は、内閣改造により打開を図ろうとする。軍需次官兼国務相だった岸信介は東条から退任を要求されるが、これを拒否。政局は混迷を深め、内閣の総辞職という事態を生んでしまう。
戦後になって、岸のこの「反東条・倒閣」は、狡猾な駆け引きだったとしばしば論難されてきた。戦争末期、極度の戦況が悪化する中、岸は早々と東条を見限り、東条の戦争政策に反逆したのは敗戦を見越しての責任逃れだったのではないか、また東京裁判でA級戦犯として拘留されながら、結局起訴されなかった理由のひとつが、この「反東条・倒閣」にあったのではないか……。このように岸の戦略的駆け引きは、岸の政治姿勢を批判するときの格好の材料となってきた。
岸の「反東条・倒閣」にまつわる憶測について、原彬久は『岸信介 -権勢の政治家―』(1995年 岩波新書)の中で、「この憶測をすべて肯定するには、事態はあまりにも複雑であったといえよう」と書いている。が、その一方で岸の「矛盾した行動」について触れている。
すなわち岸の「反東条・倒閣」が、一筋縄では理解しえない彼自身の相矛盾した行動から成り立っているということである。当時陰の倒閣推進者であり、なおかつ、この時期取り沙汰された「東条暗殺計画」に何らかの形で関与していたとされる高木惣吉(海軍教育局長)は、細密な日記を書き遺しているが、そのなかで内閣改造たけなわの頃、つまり七月六日における岸との会見の模様を記している(『高木惣吉日記』昭十九・七・六)。
岸は高木にたいして、「(東条に代わりうる人材が見当たらないので)東条をして何とか国力を結集して戦争に向かわせる外なしと思う故、助力ありたし」とのべ、「次の手」として「東条だけは残って閣僚も三長官も総替りする位のことが必要」と訴えている。岸が「反東条・倒閣」のみならず、次期政権として「寺内寿一長州内閣」の実現を画策していることを知っていた高木は、この岸の「提案」に強い警戒心を抱く。彼は岸のこの働きかけについて「政治屋の言動ほど当てにならぬものはない」としたあと、「(東条・寺内)のどちらに転んでも損しないという虫のいい両面作戦なのだろう」と推断している。
原彬久の『岸信介』は、「日本政治に巨大な足跡を残したその事実は否定できない」と書いてもいるように、岸という政治家の功績、偉大さを称えることに多くのページが割かれている。しかし、その原が引用する『高木惣吉日記』の記述の重さは、もはや憶測などというグレーゾーンの話ではなく、権力にしがみつこうとする男の、どす黒い心性を浮き彫りにする。
政治家岸信介の心性
岸の反権力の動きを「上にはめっぽう強い」岸の本領だとか、「権力の論理を完全に吞み込んだうえでの反権力」などと擁護する声もある。
岸は戦後直後の吉田内閣にも異議申し立てをしたことがある。
一方岸は「両岸」などといわれるように、あらゆる方面につながりを作ろうとする節操のなさも指摘されてきた。
戦後、社会党に入党しようとしたこともあった。
首相になってからは、「次の総理はあなたに」と密約を交わして、主流派の力を凌いだこともあった。
岸の政治的な駆け引きは、義理とか人情などといったものは度外視され、よく考え抜かれ、計算され尽くした結果なのだろう。
しかし、岸の行動は、何とか糊口をしのいでいるような市井の人々の気持ちを引き付けるとは思えない。
岸信介は、あらゆる手段を使って、権力にしがみつこうとした男だった。
「民信なくんば立たず」。孔子は為政者の「信」を説いた。人々の信頼が得られなければ、政治はその基盤を失う。
二千五百年前の戦乱の時代も、先進国から没落しつつある今の日本も、政治のその基本は変わらない。
CⅩⅩⅩⅥ「闇と沈黙の国」1971を見る聴く、 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2024/7/1
盲目の人々、黒画面、過去の思い出、ジャンプ選手の舞い飛ぶ姿、彼の口は丸く開いている、呼吸、叫び、丸、繰り返し飛ぶ選手、これは誰の思い出のシーンなのだろうか、監督の、盲目の人の、過去の思い出か、施設の中、聾唖の人々、彼らの語らい、指を使い、公園のベンチに座っての三人、見えない目を見張り、丸く、丸く、目が輝き、叫んでいる、こうして、聾唖の人々の、姿、暮らし、施設の様子を捕える、新たに出会った人々との語らい、同じ聾唖の人々と、動物たちとの語らい、言葉を語れない者同士、撫でさすり、動物との語らい、彼らにとっては、人も、動物も、生き物として、同じなのではないか、確かに、話された言葉としての会話ではないが、動物との語らいの中の、二つの生き物としての会話、それもまた、二人の、いや、人と動物との語られはしないが、言葉のやり取り、聾唖の少年、目を閉じている、彼は会話がいまだできないか、いろいろに試されて、そして、ラジカセで音楽が流されたか、すると、何を感じたか、目を開け、何かを聞いている、聞こえないのに、いや、ラジカセの振動ではないか、こうして、関係が、始まる、会話の始まり、だが、果たして、この教育とは、会話の世界に、招き入れることは単純に幸せか、例え、それが、一つの権力ではあっても、覚えることによって、その権力を手にし、同時に、その権力の外へまでも抜け出る、自由への、始まり、権力の我解体、関係とは、権力を根気よく、日々壊し続けること、問い掛け続けること、そこから開かれる、不明ななにかこそ、自由ではないのか、最後の施設の中、一人の若くない、聾唖の男、取り巻きの人々から、離れて、彼もまた、目を閉じていた、今、立ちあがり、緑の草原の大きな樹木の下に、枝々の下に、そして、樹木の幹を擦る、映像の素晴らしさ、光、色彩、緑、黒、黒い木を擦り、何を感ずる、根気よく手を蠢かして、樹は答えてくれているのだろう、そして、彷徨うように、歩み、佇み、取り巻きの人々は、離れて、語らうばかり、己立ちで、そして歩き去る人、近づいてくる人、連れ戻るのだろう、教育とは、学会か、聾唖の人々の集まり、大会、演壇での語りの人、組織、そして、末端の、人々、彼らは目の丸と同時に、始まりのジャンプの人々同様に、口も丸く開かれて、だが、ラストの少年と男の人は、目を開いた、だが、口は、今だ、心の丸はどこに、未だ、これから、いや、どこにも、しかし、ここから、ここから、でも、ラストの男は樹を擦っていたではないか、何か大切な丸を見落としていないか、かくて、改めて見直して、改めてラストのシーンを見て、凄いのだ、しっかり丸が作られているのだ、一人歩きだした男が、樹の幹の許、両手を開き、頭の上の枝に振れる、その折に、両腕の作りだす丸、横に移動しながら、枝たちと戯れているのだから、両腕と枝との作りだす丸とも、更には、緑の上に積もった紅葉した葉に触れ、横に歩いて、今度は両手で紅葉した黄色い葉に触れて、ここでもまた、両手と葉の作りだす丸が、此のマルは、教育の中から、生まれたのだろうか、いや、確かにそれも有ろうが、やはり、己の思い、希望、叫びの中から、快楽の仕業では無かったか、映画が、映像が、望みが叫んでいる、樹を己を庭を時空を抱きとめている輪、丸なのだ、ジャンプの飛翔の丸、聾唖の男の抱擁の丸、丸、輪、回転運動、再生、復活、口、眼、大きく開いて、見開いて、闇と沈黙の中から、始まる、私、私たち、