こうもくっきりあとが残るってことはそれなりのダメージがあったという事なんでしょう。
大変な闘いを勝ち抜いて来たんですね。
かなり健康管理に気を使っていたつもりでも、疲れてうつらうつらしている事が多かったものね。
時には本を読みながら知らぬうちに寝ていて、夢の中で勝手に話を作って読んでいた自分に目が覚めて気がつく。
現実と夢の境目がはっきりしない時もあった。
寝ぼけてリアルに夢を現実だと思い込んでいることもあった。
おそろしや、おそろしや。
ぼけ老人の気持ちがわからぬでもないところまで来てしまったりするのだ。
退屈しているのではないかと本がたくさん差し入れられた。
しかしほとんど読み始めて気力を失い寝てしまっていた。
本の虫だったのに、読む気力がない。
この時期、面倒な事からわたしは逃げた。
母親にがんの事を教えなかった。
ぎゃあぎゃあ騒ぐ事が予想されたし(それもほぼ99,9999・・・・%という高確率で)泣き顔を見るのもいやだった。
同じ考えで親に隠し通そうという人もいた。
なんと彼女は親と同居しているのに!
入院中はショートステイに預けてハゲさえ親には隠すという。
皆それぞれ色々なしがらみを持って生きているんだなあとおもう。
強気になって自己を正当化する。
それでいいんです、こんな大変なとき。
抗がん治療の夏、NHK BSでドキュメントを見る。
「百万回の永訣 柳原和子 がんを生き抜く」だ。
がんは怖く、ショックだ、告知の仕方を変えてほしいという。
この作家はいい表情の女性だった。
神頼みで護摩を焚いてもらったりして自分と向き合っていく。
理解できなかった、わたしには、かけらも。
わたしは鈍感なのだろうか。
がんといわれ瞬間で感情を入れず、受け入れてしまった。
この鈍感さで語っても人の参考にはならぬかもしれないなあ。
写真画像の管理がまだよくわからず、ヒヤシンスの芽の画像はアップできない。
なかなかむずかしいのだね。
わたしには理解できない価値観でも、みんな等しくがんにかかる訳だから、逃げないで考えてみます。
生きる、死ぬというタブーな分野だと言ってしまうとここに書いていくのもつまらなくなってしまう。
わたしはがんは誰でもがかかる病気だという見方が持てたから乗り越えて来れたのだと気がつきました。今度書いてみます。
今日の癌告知のこと、ごまを炊いて、告知方法を考えて・・・という人もいるんだろうけれど、それを読んで、多分はじめて癌告知を雑誌に書いた児玉さんというルポライターの人を思い出した。もう40年近く前の人。そのころの癌をどう知らせるか・・・に戻ったみたい。
鈍感じゃないよ。鈍感でさらりとかわさず、もっと突っ込んでいいんじゃない。