人間は皆一度ずつ死ぬるのであるという事は、人間皆知って居るわけであるが、それを強く感ずる人とそれ程感じない人とがあるようだ。或人はまだ年も若いのに頻りに死という事を気にして、今夜これから眠ったらばあしたの朝は此儘死んでいるのではあるまいかなどと心配して夜も眠らないのがある。そうかと思うと、死という事に就て全く平気な人もある。君も一度は死ぬるのだよ、などとおどかしても耳にも聞こえない振りでいる。要するに健康な人は死などという事を考える必要も無く、又暇も無いので、唯夢中になって稼ぐとか遊ぶとかしているのであろう。
余の如き長病人は死という事を考えだす様な機会にも度々出会い、又そういう事を考えるに適当した暇があるので、それ等の為に死という事は丁寧反覆に研究せられておる。併し死を感ずるには二様の感じ様がある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。……主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪えられぬような厭な感じであるが、客観的の方はそれよりもよほど冷淡に自己の死という事を見るので、多少は悲しい果敢(はか)ない感もあるが、或時は寧ろ滑稽に落ちて独りほほえむような事もある。
(正岡子規 『死後』)
病床の子規が書いた死と埋葬についての随筆。
深刻なことを深刻に書かず、ユーモアあふれる子規の文章。
だからこそ、壮絶な哀しさが胸に迫る。
この随筆が書かれたのは、明治34年の2月。
そして翌明治35年9月19日、子規は長年の病床生活の末に、34歳で亡くなりました。
(自分が子規が亡くなった歳と同じ歳になっていたことに、今気づきました…)
はるか昔、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で子規に興味を持って以来、同じく司馬さんによる『世に棲む日日』の吉田松陰とともに、私の思い浮かべる子規は、いつも秋の空のイメージです。
目に痛いほど青く、すがすがしく、そしてどこか儚い。
とても短い随筆なので、ご興味のある方はぜひ読んでみてください(上のリンクから青空文庫にとべます)。
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