風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

河合隼雄×谷川俊太郎 『魂にメスはいらない ―ユング心理学講義―』(1979年3月刊行)

2020-10-14 22:18:00 | 




河合:ぼくの理解している範囲で言うと、結局、治療の基本の筋になるのは、自分自身で困っているような行動をとる原因が自分の内面のどういうところにあるかを自分で了解することだというふうに感じるんです。……ところが、なかなかそう事は簡単ではないんですね。
外傷体験を思いだして「それだ」と言っても、治らぬ人がいるわけです。そうすると、これはもっと考えにゃならん。そこで精神分析ということが出てきて、その人の無意識的な内容をいろんな形で取りだしてきて、それを何とか理論づけていったわけですね。その理論づけの仕方をフロイトはフロイト流に、ユングはユング流に、アドラーはアドラー流にやった。……ここからはユングというよりぼくの考え方になりますけど、ぼくはこう思うんです。
たとえばいま正常に生きている人は、そんな自分のことを深く意識してないわけでしょう。……内面に生じる変化を意識しはじめた人のほうがつまづくわけでしょう。
そういう意識した人としない人について、価値的な判断は一切できませんね。問題を起こした方が病的である、病的であるからおかしいという価値判断を下すのは、絶対ぼくは反対なんです。
…ぼくの考えでもっと根本的に言えば、治るのはその人が治るわけでしょう。つまりその人が自分の人生を歩むわけだから、要するにぼくは何もできないわけですよ。ただし非常に不思議なことに、ぼくという人間が横にいるということはすごいことなんです。治るということは誰しも苦しい歩みを続けるのだから、そこに付き添う人があることは測り知れない大きい意味を持つのです。

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河合:われわれの仕事というのは結局、患者に対して何もしないということなんです。相談されても「はあ」とか「ふーん」とか言うだけで、その人が自己治癒していくさまを感激して見ているんだから。このごろは何かしてくれる人が多くなりすぎたもので、何もしない人のところに、金を払って時間を決めてわざわざ行くようになったわけです。

谷川:……ぼくは河合さんと患者さんが話すということは、広い意味での人生相談だと理解しているんです。それが新聞の人生相談なんかと決定的に違うのは、活字なんかをとおしてじゃなくて一対一で肉声をとおして何度も話し合うということと、簡単にこうしろとかああしろとか絶対に言わないということの二点だろうと思うんです。

河合:ああしろこうしろなんて言えないんです。それはわれわれには自明のことですから、何も言わないということに対してすごく安定感を持っているんです。普通の人は不安で、つい何か言いたくなってくるんですが、ぼくらは本当に平気で「ああ、そうですか」「はあ」とだけ言って、最後に「また来週」となるわけです(笑)。これができるようになるにはやっぱり相当鍛えられないとね。

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河合:ユングが一番大事にした元型というのは、先ほどから言っている「自己」ですね。元型にはシャドーとかいろいろあるけれども、そういうものを全部統合して、意識も無意識も含めた全体の中心にあるものを”真の自己”と呼んでいいんじゃないかと言うわけです。おもしろいのは、ユングのそういう考えの根本には、東洋的な思想があったんです。
ユングは、経験的に”真の自己”の存在を感じていて、そのことをずいぶん考えていたんだけれども、西洋にはそういう思想の伝統がありませんから、ずっと黙っていたんです。ところが中国の本なんかを読んでみた結果、こういう考え方は世界的なものだと確信を持つようになって、自己ということを言いだす。

谷川:ユングが言う自己というのは、一つの肉体を持った人間の中で閉ざされたものであると同時に、すべての人間と共通の土壌を持つ開かれたものでもあるわけですか。

河合:そうです。そこに非常なパラドックスがあるんです。ユングの言う自己というのはあいまいでわからないから、もっと具体的に説明してくれと生徒に質問されて、ユングは「皆さんは私の自己です」と言ったそうです。つまり、自分が自分の真の自己につながろうとするということは、皆さんとつながらないとできないことであると。

谷川:禅問答すれすれのところまでいくわけですね。

河合:そうですね。だからそういう点が、ユングに対する好ききらいの分かれるところでしょうね。その点フロイトの方が論理的にわかりやすいです。考えてみたら、あれほどむずかしい無意識の世界の解釈を、きちんと概念で構築してわれわれに見せてくれるというのはすごいものですね。ところがユングのほうは、無意識の世界というのはもともと矛盾していると思っているわけだから、平気で矛盾したことを言って暗喩の世界の中を堂々めぐりしながら、何かをつかむという方法をとる。たとえば彼は、自己なら自己そのものというのは理解することはできない、ただその周りを回るだけだというような言い方をするんです。

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河合:感情の中にはいま言われたように相反したものがある。それが全体として統合されていくことをエモーショナル・インテグレーションと言うんですが、これができている人は非常に強いし安定感があるんです。
ところが、エモーショナル・インテグレーションが行われようとする過程で、失敗することが多い。なぜかというと、みんなネガティブな感情を抑えようとしすぎるんです。……そういう感情が抑圧されてたまってくるんです。その抑圧されたものが洗練されない形でダーッと出てくると、非常な破壊力を持つわけです。
ぼくはそういうネガティブな感情も、あるものはあるものとして率直に受け入れる方が、全体としてのインテグレーションが上手くいくんじゃないかと思っているんです。だからネガティブなものもポジティブなものも同時に働かせながら、どう全体として統合するかが問題なんじゃないでしょうか。

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谷川:ぼくは詩を書きはじめた頃に、詩を書く一番もとになる心的なエネルギーは何か、と漠然と考えたことがあるんです。そのころ思ったのは、それはいわゆる感情というものではないんじゃないかということなんです。いわゆる感情というのは、ある意味では非常に卑俗なものですよね。……それよりもっと奥のほうの、ぼくはそのころ仮に「感動」と呼んだんだけど、感動みたいなものによってであると。
つまり感動というのは、表面的な感情とか心理的なものは当然含んでもいるんだけれども、もっと深いものであるというふうに考えていたんです。その、ぼくが仮に「感動」と呼んでいたものは、感情よりもっと深い意識下のものまで含みこんだ、容易に言語化できないものであるというふうに考えてもいいんでしょうか。

河合:そうです。そういう深いものを表現できれば、その表現は意識下にあるものをくみあげ得ている。しかし表層的な、スッと消え去るようなものだけ表わしてもあまり意味を持たない。

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河合:……箱庭の話のときに、あまり破壊がひどいと止めるときがあると言いましたが、それは止めないと危ないからなんです。それは、やはり一種の愛情と思います。ただおっしゃるとおり、愛情の定義は非常にむずかしい。それともう一つ、「愛」という言葉を使うとすべてが終わってしまうんですね。ぼくは「出会い」とか「愛」とか「やさしさ」とか「実存」とか、そういう言葉をファイナル・ワードだと言っているんですが、ファイナル・ワードはなるべく使わないでおきたい。そういう言葉を使うと、心理学者としては負けじゃないかという気さえするんです。

谷川:そういうところも文学と似たところがありますね。…特に、文学などには関係のない若い女性なんかが「やっぱりやさしさが一番大事だと思います」とか……。しかし、そんな言葉を使ったら何も言えないんじゃないかと思うんです。

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谷川:日本人には、こしらえものはだめだという傾向があるんですね。構造のあるものを書こうとするとこしらえものになるという必然性があるのならば、逆にこしらえものだということにきちんと腰を据えなければ結局アブハチ取らずになるんじゃないかという気がしますね。

河合:こしらえものというのはおもしろいんですよ。自然科学というのは、いわばこしらえものの学問でしょう。新幹線なんてこしらえものの第一級品でしょうね。だから、こしらえものはだめだと思うところからそもそも問題にすべきじゃないか。
ただ、偽物のこしらえものと本物のこしらえものというのは、どこで区別するんでしょうね。

谷川:本物のこしらえものというのは、どんな人間の現実感覚にも合致するものであるということが、まず言えるだろうと思うんです。つまり、こしらえものだから現実感覚を基礎にしないのかというと、それはむしろ逆で、普通の人間感覚が基礎になるから、こしらえものができてくるんだろうと思うんです。
だから、その作品をとおして作者のつかんできた現実が読者にも見えてくるようなこしらえものでなければ、本当のこしらえものとは言えない。その現実感覚も時代とともに変容しているでしょう。つまり、たとえば肉食をしなかった江戸時代と現代とでは、現実感覚の違いというのはあるはずですよね。だからその変容の度合いに従って構造的なものも成立するとぼくは思っているところがあるんです。
宮沢賢治の童話なんていうのは、そこのところが実にみごとだという気がするんです。
あれは本当のこしらえものなんだけど、現実そのものと言ってもいいぐらい現実に密着しているところがあるんです。下手な私小説よりはるかに当時の東北の現実をつかんでいますね。同時に、あれは日本の童話にしては珍しくストラクチュアのある童話ですが、ストラクチュアを持たせるために賢治は「イーハトーヴ」とか「ジョバンニ」というふうな、西洋だか何だかわからないような名前を使わなければならなかった。こういう工夫が必要なのは、現代でもおそらく同じなんだろうなと思うんです。
ただねえ、ああいうことができるのは賢治のような天才だけだという居直りもこちらにはあるんですけどね(笑)。

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河合:ユングの自伝に出てくる話ですけれども、お母さんが亡くなったときユングは遠いところへ行っていて電報で死を聞いて引き返すわけです。そして汽車の中でものすごく悲しくなっていると、結婚式のにぎわいのダンスの音楽とか、そういう楽しげな音が心の底から聴こえてくるんです。この話が示しているように、結局死というのは結婚なんですね。
「トーデス・ホーホツァイト(死の結婚)」という言葉がありますけれども、死というのはこの世から離れてあちらへ結合に行くわけだから、言うならばこの世界の根底との最後の結合であり得るわけです。だから、死というものには非常に残忍で悲しい面と、非常にめでたい面とが共存しているとユングは言うんです。そういう感が方は、やはり大事なんじゃないでしょうか。

谷川:その考え方は世界的にあると思うんです。ニューオリンズでは葬送のときにジャズ・バンドがにぎやかに行進するということも、もしかしたらそれの一つのあらわれかもしれない。われわれ日本人の死生観の中にも、死というものが一種安心に通じているという感覚がどこかにあるような気がします。
たとえば墓参りするときも、ただ縁起が悪いとかいうんじゃなくて、どこか安心したいという感じがあって墓参りに行くということが、ぼくなんかの経験でははっきりあるんです。だから、そういう面から死というものをもういっぺん考えるべきじゃないか。死ぬということが単に生命がそこで断ち切られるだけのことだったら、これはもうどうしようもないんですけれども、やっぱりそういうふうなものだけだとは考えられないところがある。

河合:ですから、本当にこの世を豊かに生きようと思うならば、そういう目をとおして老いること、死ぬことを考えねばならないと思いますね。

谷川:この間、ぼくの知り合いで亡くなったジャズの女性歌手から転居通知が来たんです。その引っ越し先が富士霊園というところでして、実は急に思いたって引っ越しをしたと書いてある。そして、もう人を教えるのもめんどうくさくなったし、こちらは空気もきれいでとてもいいところだから、旦那にも来いと言ったんだけれども、旦那はまだいろいろ仕事があるから家のほうに残っている、電話は当分引けないけれども、よかったら遊びにおいでくださいと。要するにお葬式のお礼状ですよね。
ぼくはそれを読んでとても快かったというか、大したものだと思ったんです。そういう感じ方は不謹慎なんじゃなくて、人間がどこかで本能的に求めている感じ方なんじゃないかなという気がした。当人が前もって文面を遺しておいたのか、あるいは後に残った人たちが、あの人にはこういうのがふさわしいと思ってつくったのか、よくわからないけれど……。
それからもう一つ、昔の田舎の村には必ず頭のおかしい人がいて子供たちにとって楽しいトリックスター的な存在であった。それは、どこにでも共通にありましたね。

河合:そういう人たちは、神や仏の言葉も伝える役目も果たしていたわけですね。いまでもそういう人たちを含むことのできる共同体があればいいですよ。昔のように。しかし、村落共同体にしても、いまはそういう人を許容できないあり方に変わってしまった。たとえば、半分恍惚のお年寄りがフラフラ歩いていても、村全体が「ああ、あそこのおじいさんが歩いてるわ」というふうにへだてなく見ている村だったら歩けますよ。ところがいまは、外へ出てフラフラ歩いていたら自動車に轢かれてしまうから、家に置いておくよりしようがないですね。
ぼくが前から主張しているのは、こういう社会的なあり方をぼくらが選んだからには、そういう人たちに対する予算を非常に大きく取るべきだと思うんです。現在の社会は、そういう人たちを排除することによって繁栄しようとしているわけでしょう。排除するんじゃなくて、どういうふうに含んでいくかということに、もっともっと金を遣うべきだと思うんです。
まあしかし、すべての人をきちんと入れこむ社会をつくるというのもなかなかむずかしい。さっきのアフリカの話じゃないですけれども、年寄りがうまくいっているところは子供を殺していますしね。昔の大家族だったらお嫁さんが泣いていたでしょう。このごろお嫁さんが泣かなくなったぶん年寄りが泣いている。とにかく、誰か泣いている人が存在することによって社会が成立しているのは、やっぱりおかしいわけです。

谷川:結局、みんなが平等に少しずつ泣くというのが本当は一番いいんですね。

河合:そういうことなんですよ。みんなが泣きみんなが怒りみんなが笑い、というふうにならないとだめなんだけど、どうしても偏るんですね。だからこそ、なおみんなが努力しなければ、よりよい地点に社会がたどり着くことはできないんじゃないでしょうか。


引用部分が多すぎて怒られちゃうかな これでも泣く泣くだいぶカットしたんですが(神話の時代の詩人と前衛芸術についての話や、「時」と「解き」の話なども、とても面白かった)。。。
ご興味のある方は、ぜひ本書で全文を読んでくださいましm(__)m。
未来への記憶』に続いて私が読んだ、河合隼雄さんの本第二弾。
41年前、私が2歳のときに刊行された河合さんと谷川俊太郎さんの対談集です。
形式としては河合さんが谷川さんにユング心理学について講義をするというものですが、対談と呼ぶ方がふさわしい内容。そうなっているのは、谷川さんにもユングに関する前知識がおそらくあった上で踏み込んだ質問をされているという理由もありますが、なにより形式としては講師である河合さんがとても謙虚で、子供のような真っ新さを感じさせるからです。それは谷川さんについても同様で、そういう自然体な瑞々しさがこのお二人はよく似ていらっしゃる
また谷川さんの対談でいつも感じることですが、この本でも、私が「これを知りたい!」と感じることを谷川さんは実に適格に相手に質問してくださるので、読んでいてスッキリします。
このとき、河合さんは50歳、谷川さんは47歳。
41年前の対談ですが、上の引用部分を読んでいただいてもわかると思いますが、全く古さを感じさせない、そのまま今の時代にも通じる内容の本です。

ユングが言う”自己”(ユングは”自己”と”自我”を分けて考えています)について谷川さんが「一つの肉体を持った人間の中で閉ざされたものであると同時に、すべての人間と共通の土壌を持つ開かれたもの」という表現をされていますが、(私は心理学には全く無知ですが)これはユングが提唱した集合的無意識のことかな。
こういう感覚は私も子供の頃から感じているもので、中島みゆきさんの音楽や、谷川さんの詩にも通じるものがあるように思います(私が以前書いた記事はこちら→「昔から雨が降ってくる」、「対談と詩と音楽の夕べ「みみをすます」2」)。
そういえば河合さんは谷川さんの「みみをすます」の詩がとてもお好きで朗読者第一号になった方でした。河合さんはこの詩にユングに通じるものを感じたのかもしれません。あるいは河合さんご自身が生来こういう感覚を持っていらっしゃる方だから、ユングに惹かれたのかも。

しかしつくづく、こんな素敵な本が普通に置いてある図書館というところは、宝箱のような場所だなあ。
図書館の棚で偶然見つけていなかったら、河合さんの本を読むことは一生なかったかもしれない。最近は自分の興味のある本をオンラインで指定して図書館にはただ受け取りに行くだけというのが基本になってしまっていて、なかなか図書館の棚をゆっくりと眺めることはないのだけれど、そうしていると今回のような偶然の出会いは絶対に起こらないんですよね。自分の身体を使って世界を広げていくことの大切さも思い出させてもらえた、今回の河合さんの本との出会いなのでした。
そんなわけでもう一冊河合さんの本を読んだので、後日ご紹介させていただきますね
また「夢の解釈」についてもあれから色々感じたところがあったので、そのうち書ければいいなと思います。

そうそう、本書の題名『魂にメスはいらない』は、人間の自己治癒力についてのお話からだと思いますが、素敵な題名ですよね

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